第二百三十九話 世界どころか、異世界を
綾乃の唐突の口づけに浩太は右手で口元を抑えてずざざぁ! と綾乃と距離をとる。室内に訪れる、びっくりするぐらいの静寂。そんな静寂を打ち破ったのは、外ならぬ綾乃であった。
「……なによ、浩太。私のちゅう、そんなに嫌だったの? そんな態度取られると……ちょっと、傷つく」
「……? ……! わ、わりぃ! そ、そういうつもりじゃ――じゃ、なくて!! どういうつもりだ綾乃!! きゅ、急に、そ、その、あ、あの……き……と、ともかく!!」
拗ねたような、それでいて泣きそうな綾乃の表情に浩太は反射的に謝罪の言葉を口にして『いや、違う、そうじゃない』と思い直して綾乃にそう声をかける。そんな浩太の言動に綾乃が小さくため息を吐いて浩太に一歩歩みを進めて。
「……どういうつもりも何も……こういうつもり」
ぴとり、と浩太に抱き着きその胸に顔を埋めると、まるで猫の様に浩太の胸にその頭を擦り付ける。
「……あたま、なでてぇ」
「いや、頭撫でてじゃなくて! ちょ、お、落ち着け――って、力強っ!!」
慌てて綾乃の体を押しのけようと両手に力を入れて、失敗。梃子でも動かないと言わんばかりの綾乃に浩太の顔に驚愕の色が浮かぶ。
「ふっふっふ。デスクワーク主体の軟弱者の浩太君の力程度では私は動かないわよ」
「デスクワーク主体はお前だって似たようなものだろうが! つうかマジで力強いんだけど!! なに? お前、足に根でも生えてんの!?」
「力の入れ方と重心移動でなんとでもなるのだよ、浩太君。こう見えても私はお嬢様だし? 護身術の一つや二つや三つ、嗜みとして学んでいるんだよ」
「それ、絶対嗜みじゃない!! つうか、本当に離れろ!! いろいろヤバいから!!」
主に、周りからの絶対零度の視線が。っていうか、エリカに至っては逆にニコニコ笑って怖いし――エミリはソニアの頭を撫でながら笑っているが、撫でられているソニアが『ぴぎゃ!』みたいな声を上げているあたり、本気で結構ヤバい。
「やだ」
「いや、やだじゃなくて!! お前――」
「――だって……『もう』間違いたくないもん」
「――……あ……やの?」
少しだけ言葉に詰まる浩太。そんな浩太に、綾乃は上目遣いで。
「――もう、死んでも良いわ」
「……あ」
思い起こされるのは、あの夜の事。
「……正直……ちょっと、後悔しているんだ」
「……後悔?」
「うん。ああ、ううん。嘘ついた。ちょっと所じゃないんだよ。もうね、無茶苦茶後悔している。あの日に戻れるんだったら、『貴方じゃ役不足』なんて恰好付けた私を子狸アッパーでぶっ飛ばしたいくらいに後悔しているんだよね、私」
「……バイオレンスな話だな、おい」
「まあね。でも……本当に後悔しているんだ。あの時、勇気を出して言ってくれた貴方に……心を見せてくれた、貴方に、私も素直になれば良かったって……本当に、そう思う」
「……ちなみに、あれって……本来の意味での言葉か?」
「本来の意味?」
「その……よくあるだろ? 役不足って誤用で」
「ああ。うん、本来の意味。『大川綾乃の彼氏』なんて役目、貴方には不当に低すぎると、そう思ったんだよ、私は」
「……んな大したもんじゃねーよ、俺は」
「ううん、そんな事ない。貴方はすごい人よ? そりゃ、確かに要領が良い方じゃない。容量が多い方でもない。凡庸で、中庸で――でも、誰よりも優秀だ」
「……贔屓の引き倒しか?」
「あなたはその愚直な努力で色々な事を為してきた。春風堂さんの事もそう。大学での講義もそうよ。そんな貴方の生き方に尊敬と――それ以上の思慕を覚えた。もう」
貴方なしじゃ生きていけないほどに、と。
「……でも、そんな貴方に必要にされる事が、怖かった。優しいあなたは、私が堕落しても見捨てないから」
「堕落って」
「堕落、するわよ。だって、貴方が隣に居てくれるのよ? そりゃ、もう堕落するにきまってるじゃない? 勤勉な方でも無いしね、私」
根っからの才能派ですから、と笑って。
「……そんな私は、私自身が許せなかったのよ。だから……絶対、浩太に追いついて、それから浩太に告白してやるって……そう思ったのに」
あーあ、と詰まらなそうにため息を吐いて浩太の胸に顔を埋める。
「……浩太、居なくなっちゃうんだもん。マジで後悔したわよ。正直、あの時の事がなかったら、今頃浩太の彼女は私だけだっただろうしぃ!」
「……お前が俺の告白を受けてくれたとしても、召喚はされたかもしれねーじゃねえか」
「……馬鹿ね」
そういって綾乃は苦笑を浮かべて浩太の頬をちょん、とつつき。
「――貴方が浮気なんて不実な事、する訳ないじゃん。もし、私に飽きても、ちゃんと振ってから他の子に行くもん」
「……」
「それってアドバンテージだったのにな~と思うわよ。振られそうならあの手この手で浩太を引き留める手管もあったのに」
「……なんか怖いんだけど」
冗談、と綾乃は笑って。
「……あの時の行動は本当に後悔しているんだよ。だからまあ、次に浩太に出会ったら素直に生きようと決めてたの」
そういって綾乃は浩太を潤んだ瞳で見つめて。
「好き。大好き。ちょー好き。愛している。もう、浩太なしじゃ無理ってくらい、浩太の事が好き」
持って回った言い方でも、格好つけた言い方でもない、どちらかと言えば不器用で、だからこそ、綾乃の本当の気持ちが伝わってくる言葉で。
「だから、浩太? 私を貴方のお嫁さんにして。一度失敗したから、もう、間違えない。私は絶対、貴方を不幸にしないし――傷つけないから」
そんな綾乃の言葉に、浩太の顔に苦笑が浮かぶ。
「……なんか男前なセリフだな?」
「まあ、私だし? 可愛く迫るってのもキャラじゃないし」
「……可愛いよ、お前は。俺の惚れた女だぞ? 自信持て」
「ほう。それじゃどの辺が可愛いか、ちゃんと説明してくれたまえ、松代君」
「そうやって、顔真っ赤に染めて嬉しそうに笑ってるところだよ」
『可愛い』の一言で耳まで真っ赤に染めて、ニコニコ、というよりニヨニヨといった表情を浮かべる綾乃に苦笑の色を強めて。
「……よろしく頼む、綾乃。あー……まあ、その、なんだ? お前に……捨てられないように頑張るよ」
「ふふふ! うん、頑張って! まあ、私があなたを捨てるなんてことは有り得ないけど……でも頑張る浩太は格好いいから! 格好いい姿、見せてぇ?」
にこやかにそういって。
「――世界をまたに掛けた、とかいうけど……小さい小さい!! 世界ぐらいで何言ってんだって話よ!! 私は世界どころか異世界までまたに掛けた大恋愛だからね!! これ以上ないくらい、私に惚れ直させてみてよ、浩太!!」
引き返せないほどに、ズブズブに。
「あなたを、愛させて?」
相変わらず耳まで真っ赤に染めてそういう綾乃の笑顔は、今まで一番綺麗だった。




