第百八十七話 彼女の居場所
エリカ・オーレンフェルト・ファン・フレイムは与えられた一室、ホテル・ラルキアの三階に用意された部屋のベッドに枕を埋めていた。お昼頃にはエミリが食事の用意が出来たと訪ねて来たがそれも断り、数時間同じ態勢を取っている。理由は簡単。先程の皆の対応に、エリカが拗ねている。
――という訳ではない。
エリカ・オーレンフェルト・ファン・フレイムと云う少女は、そもそも自分がした事を『とても凄い事をした』とは微塵も思って無い。冗談めかして『誰のお陰で』という事はあっても、決して『それ』が誰からも褒められる素晴らしい事であるとは思っていないからだ。否、この言い方は語弊がある。素晴らしい事はしたのだ。きっと、誰が見ても、誰が聞いても諸手を挙げて褒めて貰えるほどの事ではある。自身のその身を危険に晒してまで、仲間を守ったのだ。そりゃ、誰が聞いても褒めて貰えるほどの事なのは明白だ。
「……」
と、普通なら思っても良い。良いがしかし、エリカはこうも思う。
「……きっと、私じゃ無くてもやるし」
例えばあの場で、『残る必要』があるのがエミリだったらどうか。きっと、喜んで彼女は皆の為にその場に残る選択肢をしただろう。いつも通り、凛とした、それでも優しい笑顔を浮かべて。
例えばあの場で、『残る必要』があるのが綾乃だったらどうか。きっと、喜んで彼女は皆の為にその場に残る選択肢をしただろう。いつも通り、人好きのする、それでも凛々しい笑顔を浮かべて。
例えばあの場で、『残る必要』があるのがシオンだったらどうか。きっと、喜んで彼女は
皆の為にその場に残る選択肢をしただろう。いつも通り、面倒くさそうに、それでもタバコを咥えたふてぶてしい笑顔を浮かべて。
そんなこと、エリカは十分に理解している。エミリは言うに及ばず、綾乃がソニアを助けた様に、或いはシオンが浩太の為にアレイア文書を探しに行った様に、彼女たちは人の為に動く事ができ、それを厭う事のない人間なのだ。それ自体が人間としては相当素晴らしい事なのだろうが……まあ、それがたまたま、あの場面ではエリカに求められた役割だ、というだけの事に過ぎないと、少なくともエリカは本気でそう思っているのだ。そんな人間が『私、やりました!』と胸を張れる筈がない。たとえは的確では無かろうが、エリカに取っては『道にゴミを捨てなかったから』という理由で褒められる由縁がないのとほぼほぼ同義な程の、普通の事なのだ。
「……」
だから、決して彼女は不満なのではない。昼食を断ったのだって、別に拗ねている訳ではないし、単純に食欲がないから、という理由に過ぎない。では、なぜ、彼女は食欲が無いのか。
「……もう、いいのかな……?」
彼女は不満なのではない。『不安』なのだ。
……まあ、考えても見て欲しい。才色兼備なエミリ、大国ソルバニアの姫君であるソニア、学術院の主任研究員である俊英シオン、ラルキアの聖女である綾乃。浩太の側で、浩太に想いを寄せる女性は揃いも揃って才女で見目麗しい女性ばかりだ。浩太に支えられ、浩太を支える事の出来る人材ばかりだ。
「……私……帰ってきたら、ダメだったのかな……?」
エミリに比べれば、『重要度』は段違いだ。ホテル・ラルキアの手伝いをエミリはしていると言ったが、きっとエリカが手伝うと申し出た所でやんわりと断れるのが関の山だ。彼女のその地位ではなく、純粋に能力的な面で。その『地位』にしたって、今のエリカはソニアとは比べるべくもない。仮にも国王陛下とはいえ、所詮は傀儡政権のトップに過ぎない。シオンに比べて、事務処理能力や決断力が大きく勝っている訳でも、当然ない。綾乃はシオンと比肩する程に事務能力は高いし、加えて彼女にはラルキア王国に対する人脈と、王都の方のラルキアで培った人脈もある。エリカだって王族で公爵ではあったが、その生まれの高貴さとその生まれの特殊さゆえに、貴族社会での地位は高くても腹を割って話せるほどの知人となると、エミリぐらいしかいない。そう考えると、今のこの情勢の中での『エリカの帰還』というイベントは彼女の能力的見地から見た場合、彼女の帰還がドラスティックな改革を齎す事はなく、それを誰よりも理解しているエリカからすれば。
「……この忙しい時に、なんで帰って来たんだとか……思われたのかな?」
こういう事である。独り暮らしを初め、長期休暇で実家に帰ってきたら自分の部屋が物置になっていた上に、『あれ? 帰って来たの? 貴方の部屋、無いわよ?』と言われた気分、と言えば感覚的に近しいか。まあ、アレだ。端的に言って、非常に面倒くさいアレである。
「……ぐす……」
枕に押し付けた目元からじんわりと涙が滲む。ネガティブ思考に囚われた彼女が、その目元を隠そうとより一層枕に顔を埋めた所で、扉がトントントンとノックされた。
「あの……お、お姉さま? 起きてらっしゃいますか?」
「……リズ?」
耳に届いたその言葉に、枕から顔をあげたエリカに満面の笑みが浮かぶ。先程までのネガティブ思考が嘘の様、ぴょんとベッドから起き上がるとトテトテとドアまで小走りに駆ける。カギの掛かったドアをもどかしそうな手付きで開け、ドアを開いた所で弾丸の様な、それでいて柔らかい感触がエリカの胸に飛び込んで来た。
「うわ! こら、リズ! 危ないで――」
「ごめんなさい! ごめんなさい! 逢いたかった! 逢いたかったよぉ……おねえさま!」
「――……よしよし」
口元まで出掛かった非難の言葉を飲み込み、エリカはリズの頭を撫でる。えぐ、えぐとしゃくり上げるリズを、まるで壊れ物でも扱うように、優しく。
「……ごめんなさい……ごめんなさい、おねえさま……」
「何を謝っているのよ、貴方は。何も悪い事はしてないでしょ?」
「だって! ……だって……お姉さまを一人で残して……わたし……」
「なにバカな事言ってるの? 妹はね? お姉ちゃんに黙って頼り切っていればいいのよ。そんな事で一々謝る必要なんてないの。ほら、リズ? 顔をあげて?」
エリカの言葉に、おずおずとリズは胸元から顔をあげる。頬に伝わる涙を親指でふき取りながら、エリカは笑顔を浮かべた。
「――ほら、リズ? いつもの貴方の笑顔を見せて?」
「……おねえさま」
エリカに言われ、リズはゆっくり、でも確実に顔を笑みに形作る。そうしてゆっくりと、口が開いて。
「――ありがとう、お姉さま」
彼女の口から出たのは、もう、『ごめんなさい』では無かった。
◆◇◆◇
「……お腹、空いているのですか、お姉さま?」
「……あ、あははは……」
あの後。
泣き顔を照れ笑いに変えたリズに椅子を進め、エリカはベッドに腰掛ける体勢で話を続けていた。突然のリズの来訪から優に二時間、姉妹での尽きることないガールズトークは、エリカのお腹から可愛らしい『きゅるるる』というお腹の音で唐突に打ち切りの様相を見せる。
「ん……ちょっとだけね?」
「そんなに盛大にお腹を鳴らして、ちょっとだけ、は無理があるのでは?」
「せ、盛大じゃないわよ! か、可愛らしい音だったでしょ!」
「まあ、否定はしませんが……お昼、あまり食べられて無いのですか?」
「……」
「お姉さま?」
「……ちょ、ちょっと……食欲が無くて」
「……はあ。それでは、お腹が鳴るのは当然ですね。いいですか、お姉さま? 三食きちんと食べるのが美容と健康の秘訣ですよ?」
やれやれと言った風に首を振った後、人差し指をピーンと立ててそんな事を宣うリズに苦笑を浮かべ、エリカも力なく首を振った。
「……そうね。リズの言う通りだわ」
「そうです! では、お姉さま? 一緒に晩御飯を食べに行きましょうか」
「えっと……晩御飯?」
「はいー! 流石、ホテル・ラルキアです。食材も、調理も一流ですね。問題は……いつも美味しい夕食ですのでついつい食べ過ぎてしまって……太ってしまいそうなのが難点ですね……」
そう言って眉をハの字にするリズに、エリカの苦笑が強まる。それも一瞬、少しだけ困った様な、情けない表情を浮かべて見せる。
「……お姉さま? どうしたのですか、その様な顔を為されて」
「あ……え、ええっと……私の夕食ってさ? どこで食べるの?」
「どこで、と申されましても……食堂で宜しいのでは? お姉さま、自室で食べられる方でしたかね? テラでは食堂で皆で夕飯を取っていたと聞きましたが……」
「あ、ううん。テラでは食堂だったけど」
「ですよね? 私も即位してからはずっと一人で食事をしていましたが、やはり皆と話しながら食事をするのは楽しいですね! なんだか、小さい頃を思い出しました!」
お行儀は悪いですけど、と舌をちろっと出して見せるリズ。そんなリズに、ますます困った様な表情をエリカは浮かべ。
「その……わ、私の夕食って……ある?」
「……はい?」
「い、いや! だって私さ? 別にな、何か働いてる訳でもないし……そ、それに、これからもちゃんとお仕事できるかどうか分からない訳じゃない? そ、その、や、役立たずというか……は、働かざる者喰うべからずっていうし……わ、私の食べるご飯、あ、あるのかな~って……」
消え入るような小さな語尾。最初は呆気に取られていたリズも、その意味をようやく理解した後、呆れた様に大きなため息を吐いて見せた。
「……はあ。あの、ですね? お姉さまが何にもしていないなんて、そんな事ある訳ないでしょう? 何を言っているのですか、お姉さま。ポンコツですか?」
「ポン――!! で、でも! 私、きっとアヤノやシオンみたいなお仕事出来ないわよ?」
「皆が仕事を出来るのだって、お姉さまがあの時一人で残って下さったからでしょう? そうじゃ無ければ、あの場で皆仲良く殺されて……今頃、天国のロッテと談笑中でしたよ?」
天国っていうより、天獄、って感じですけどとニパっと笑うリズ。そんなリズの姿に、エリカが呆気に取られている様子を見て取り、少しだけ照れくさそうにリズが頬を掻いた。
「……ロッテの事ですから。きっと、うじうじと何時までも引き摺るより、こうやって笑い話にした方が……喜ぶと思うんです」
「……そうね。ロッテが最期に見たいって言ったのは、貴方の笑顔だもんね」
「ええ! だから……ロッテが居なくなったのは寂しくて、辛いですけど……でも、『それ』に逃げる事はしません! 前向きに、でも大事にしていきます!」
華の咲くようなリズの笑顔に、ついついエリカの頬も緩む。と、それも一瞬、右手を腰に当ててリズが人差し指をエリカに向けた。
「それはともかく! いいですか、お姉さま? 私を含めて皆さん、お姉さまに感謝もしていますし、働いてないなんてちっとも思ってませんから! だからそんな事言ったら『めっ!』です!」
「でも……別に、私じゃ無くても……誰でも出来る事じゃない」
「はあ……誰でもは出来ないでしょうが……」
「で、でも! あの時はああいう流れで私が残っただけで、それでもリズだって最初は残ろうとしてたじゃん! エミリだって、シオンだって、アヤノだって……それに……」
「……まあ、言わんとしている事は分からないでも無いです。エミリやシオンは当然、アヤノさんだって、短い時間ですが一緒に暮らして分かります。きっと、あの人達ならするでしょうね」
「で、でしょ! だから――」
「で、それが何だというのですか?」
「――私の……え?」
「確かに、皆さんは同じ場面で同じことをするかもしれません。でもね、お姉さま? あの時私達を助けて下さったのは、エミリでもシオンでもアヤノさんでもない、私の大好きなお姉さま――エリカ・オーレンフェルト・ファン・フレイムですよ?」
「……」
「誰でも出来る事をした、とお姉さまは仰るかも知れませんし……まあ、誰でもは無理だと思いますが、確かに誰かが出来る事かも知れません。でもね? それでも『あの時』、『あの場所』で私達を助けてくれたのは間違いなく、お姉さまなんです。それは間違いのない事実で、そして真実です。お姉さまが否定をしても、認めません。もう一度言います。あの時、私達を助けて下さったのは、お姉さまです」
「……リズ」
「だから、お姉さまのした事が大した事じゃないなんてことは無いんです。何もしていないなんてことは無いんです。堂々としてれば良いんです」
「……そう、かな?」
「そうですよ!」
そう言ってリズは無い胸を張り。
「――大体、私を見て下さい! 私なんて徹頭徹尾何にもしていないですけど、それでも毎日美味しく夕飯を頂いています! 堂々と!」
「いや、そこはちょっと気を使いましょうよ!?」
「『労働後の食事は美味しいっていうけど……美味しい食事は別にいつ食べても美味しいわよね、リズ?』」
「ちょ、それ誰の台詞!?」
「アヤノさんです!」
「人の妹になんてこと言ってるの、あの人! っていうか、リズを呼び捨て!?」
「良いんです。私はもう、女王陛下じゃありませんので……」
「……あ……り、リズ? そ、その――」
「代わりに、素晴らしい称号を頂きました! 知ってました? 私の様に労働もせずにご飯を食べる事の出来る人の事を『にーと』というらしいですよ!」
「――なんかそれ、多分ダメなヤツだと思う!」
「そうですかね? 何もしなくても食事が供されるなど、随分、位の高い身分だと思ったのですが……私などが頂いて良いのでしょうか、『にーと』という素晴らしい称号を」
「……妹がどんどんダメな人になっていく気がする」
額に手を当てて嘆息するエリカ。そんなエリカを優しい瞳で見やり、リズはエリカの手を取った。
「さ、行きましょう、お姉さま!」
「……もう……なんか、なんでもいいわ」
ニコニコ顔のリズに引っ張られ肩を落としたエリカはリズの後を歩く。階段を一つ上がり、四階にある大食堂の扉の前まで歩いてリズはその足を止める。
「……そうそう、お姉さま?」
「……なーに?」
「お姉さまは『自分は役立たずだ』と仰いましたよね?」
「……それが?」
「まあ、シオンはああ見えて優秀ですし、アヤノさんも優秀です。エミリは言うに及ばずですし……確かに、お姉さまは他の方よりは能力は低いかも知れません」
「……喧嘩売ってる?」
「違います。そうではなく……私が言いたいのはですね?」
そう言って、食堂のドアを開け。
「――そこに『居る』だけでも十分という人だって、お姉さまには沢山いるんですよ?」
「「「――――お帰り、エリカ(さん)(さま)」」」
広い大食堂に、所狭しと並べられた料理やケーキの数々と、満面の笑みで出迎える『仲間』の姿が、そこにあった。




