第百四十七話 悪巧みは密室の中で。
今回は前半と後半で違う話です。特に後半は色々と難産でした。分量は短いのに、スゲー大変だった……
ラルキア王城の、その複雑に入り組んだ正に『迷宮』と称して好いようなその建物の最奥。歴史と伝統という精神的な、政治と衛士という物理的な壁に阻まれたその部屋で筆を取っていたクリスは、ドアの音がコンコンコンと三度ノックされた事で手元の書類から視線をあげてようやく進めていた筆を止めた。
「開いとるで~」
「……ただいま帰りました、殿下」
扉を開けて入って来た男が小さく一礼し、室内へ歩みを進めるとそのまま勧められもしないのに勝手にクリスの机の前の応接セットにドカッと腰を降ろし――クリスの手元の書類に視線を送る。
「仕事ですか?」
「なんじゃ、色々と言うて来とるんじゃ。私に頼んでも仕方ないんじゃけど……知っとるかいの? ロッテ翁がなんじゃ『紙幣の発行』? それをしたい言うて駄々こねて困っとるっての」
「仮にもフレイム王国宰相閣下のお言葉を『駄々』と申しますか」
「まあ、この陳情主からして見たら駄々じゃけんの。リズとロッテ翁の『関係』は周知の事実じゃし、その二人に正面切って意見できる言うたら」
「……なるほど。ウェストリア王家の人間であるクリス殿下以外にいない、と?」
「人質に何処まで期待しとるんじゃと言いたい処じゃけど……ある程度、『利益』を出す言うて来とるからの。あんまり無碍に出来ん。まあ、それはエエんじゃ。それはエエんじゃけど……」
そう言って溜息を吐いた後、まるで抜身の真剣の様な静謐な美を湛えた美丈夫にクリスはにっこり微笑みを浮かべて首を傾げて。
「――どちら様じゃったかの?」
酷い事を言っていた。そんなクリスの言葉を別段気にした風もなく、目の前の男は机の上に置いてあった水差しからコップに水を注ぐと一息で飲み干した。
「クリスティアン・ウェストリア殿下の側仕えを申し付かったアルトナー侯爵家の次男坊、エドワード・アルトナーですよ。年齢は殿下の四つ上、貴方が初めてこのラルキア王城に『人質』で来られた時よりずっと、貴方様のお側に仕える一の忠臣です」
「自分で自分の事を『忠臣』って言うかいの?」
「どうも殿下が私の事をお忘れのようでしたので」
「冗談に決まっとるがん、エド。お疲れさまじゃったの。水でも……は飲んどるか。酒でも持って来させようかの?」
「いえ、ご遠慮しておきます。特急馬車で帰ってきましたから今、酒を頂戴すると確実に酔い潰れる自信があります」
「特急馬車って……ああ、アレかの? 殆ど貨物扱いで『輸送』されるっちゅう、あの馬車の事かいの?」
「ええ。正直、疲労感が凄いですね」
「ウェストリア王国でも十指に入ると言われた名門貴族のアルトナー家の御曹司が、貨物扱いの馬車で帰って来たんかいな? 御大が泣くで?」
「ウチは長子相続主義ですから。次男である私が特急馬車に乗ろうが雪国でソリに乗ろうが、御大は別段気にしませんよ」
そう言って水差しの水をコップに注ぎもう一口。視線をクリスに向ける。
「さて、遅くなりました殿下。エドワード・アルトナー、殿下の御命令通りローレント王国への出張を終え、ただいま帰着致しました」
「ん、お帰りエド。それに、お疲れ。どうじゃったかな? ウチの『じゃじゃ馬』は」
「ローレントへの御輿入れを控えたマリー殿下におかれましては、母国ウェストリアに居られる時と同様、いつも通りの天真爛漫であり、正にウェストリアの太陽と呼ぶに相応しい――」
「本音は?」
「――いつも通りのじゃじゃ馬でした。ローレント王国の衛士の間から非公式に抗議の声が上がっております。曰く、『ウチは山猿を嫁に迎えたのではない』と」
エドワードのその言葉にクリスは腹を抱えて笑い、目尻の涙を拭いた後で楽しそうな笑顔のままに言葉を継いだ。
「さっすがマリーじゃの。山猿と来たか」
「国宝級の壺を割りかける事二回、料理をひっくり返す事四回、城の外壁をよじ登り脱走を試みる事に至っては数え切れません。ローレントの大臣と話す機会もありましたが……何度も確認されましたよ。『ウェストリアの女性は貞淑で慎み深いと聞いていたが、アレは嘘か?』と」
「まあ、マリーはリズやジェシカの妹分じゃしな。と、言う事はアンジェリカ様の『娘』じゃけん。そりゃ、普通のウェストリアの女とはちょっと違うじゃろ?」
「憚りながら、私もそう思います。そもそも、アンジェリカ様が王族と云うカテゴリーから著しく逸脱されたお方でしたからね」
「そうじゃな。まあ、流石アンジェリカ様と云った所じゃが……」
そう言って、先程までの笑顔を引っ込めて真摯な表情をクリスはエドワードに向ける。その表情の変化を敏感に察したエドワードも居住まいを正した。
「マリー様のお相手であるクリストフ殿下にお目通りする事が叶い、クリス殿下の親書をお渡しする事に成功いたしました」
「ん。ありがと、エド。ようやってくれた」
「言う程困難な仕事ではありませんので。マリー殿下の……『癇癪』を抑えるために、同郷の貴族が来たという名目があれば、お目通り自体は簡単ですし」
「そうじゃな。お目通り自体は簡単じゃろ。ほいでもエド、『お目通り』が叶ったんじゃ。お前の目から見た『クリストフ』という人間はどんな人間じゃった?」
「ローレント人らしく、純朴で朴訥と云った雰囲気のお方でした。マリー殿下の配偶者としてはこれ程相応しい方はおられないでしょう」
「表向きは、じゃろ?」
「アレクシス王太子にもお逢いしました」
「どうじゃった?」
「典型的なボンボン、所謂『バカ』ですね。マリー殿下の『悪行』が余程腹に据えかねたのか、私と――それに、マリー殿下、クリストフ殿下を眼の前にして罵って来ましたので。ローレント王、顔が引き攣っていました」
エドワードの言葉に、面白そうにヒューっと口笛を吹くクリス。
「……弟の嫁さんを弟の前でバカにするんか」
「『非はそちらにある!』と言わんばかりに、それはそれは楽しそうに罵っておられましたよ。一周回っていっそ、哀れになる程に」
「国力考えたらウチに喧嘩売っとる暇は無い筈じゃけどの?」
「あの国もアレックス帝の『血』が入っていますので」
「目の前の事よりも、千年前の血筋を後生大事に抱えとるタイプか。遠からず滅びるぞ、そんな先見性じゃったら。まあ、楽でええんじゃけどな」
「残念ながら、クリストフ殿下は流石に『本物の』王太子ですから。そんな兄を諫めながら、私の方にも丁寧に返答しつつ、その上でマリー殿下を宥めておられましたよ。『あの』マリー殿下を、です」
「……ふうん。あのマリーを、か」
「殿下の前でこの様な事を述べるのは些か恐縮ですが……マリー殿下は人を見る目のお有りになる方です」
「単純に好き嫌いが激しいだけじゃけどな」
「であれば、尚の事です。恐らくお人柄に感じるモノがあったかと」
淡々とそう言うエドワードに、クリスは瞑目して腕を組んで考え込む。待つ事しばし、視線を固定したままのエドワードに閉じていた瞳を開けて、クリスは口を開いた。
「……それで? エドの見解は?」
『何の』とは言わない。それでもクリスと付き合いの長いエドは正確にその問いを理解し、所見を口にする。
「私の方からも少しばかりローレント国王陛下に苦言を呈しておきましたので、アレクシス王太子の廃嫡は既定路線と考えて宜しいかと」
「御しがたい弟君が次期国王陛下、か」
「御しやすいバカよりは幾らか良いでしょう。私共が御せるという事は、ソルバニア王やこの国の宰相閣下辺りでも簡単に御せるという事ですから」
「問題はクリストフが『何に』付くか、か」
「私が拝謁した限り、あのお方は簡単に裏切らないとは思います」
「根拠は?」
「マリー殿下が認めた方ですから」
「……まあ、あの子はそういう『繋がり』を大事にするからの。じゃけどそうは言っても、一国の王になる人間じゃで? 情や義理だけで動くかの?」
「発想が逆です」
「逆?」
「情や義理だけで動くのではありません。情や義理だけで動かないのです」
「……ああ、なるほどの。味方にはならんが、敵にもならんのか」
「そういう事です。それだけで十分でしょう?」
「……ふむ」
そう言ってうん、と一つ頷きクリスはようやく顔に笑みを戻す。
「……まあ、エドがそう言うんじゃったらそうじゃろうな。クリストフは味方にも敵にもならんか。それだけでも随分と有り難いの」
「私はそう思います」
「うん、今はそれだけで十分じゃ。ホンマにご苦労じゃったな、エド」
晴れ晴れとした笑顔を浮かべるクリスに、今まで仏頂面で淡々と喋っていたエドの顔に少しだけ、ほんの少しだけ笑顔が浮かぶ。どちらかと言えば表情をあまり変えない、このエドワード・アルトナーという幼い頃から付き従ってくれた腹心のそんな表情の変化に少しだけ驚いた表情を浮かべた後、なんだか嬉しくなったクリスは上機嫌に言葉を続けた。
「そうじゃ! エド、久々に帰って来たんじゃ! 今日は朝まで飲もう!」
「失礼ながら殿下。殿下が『朝まで飲もう!』と仰って朝まで飲まれた記憶が私には御座いません。いつもある程度で酔っ払って潰れてしまうのが落ちでは無いですか」
「うぐぅ! 飲み会の雰囲気は好きなんじゃけど、酒は弱いけんの……じゃが! 今、特急馬車帰りで疲れとるエド相手じゃったらエエ勝負になると思うんじゃ!」
「別段、勝負事をしたい訳ではないですし……そもそも殿下、絡み酒ですし」
「……絡むか、私?」
「それは、もう。正直、もう少ししゃんとして欲しい所ではありますが……どちらにせよ、今日はお断り申し上げます」
「……絡むから?」
「絡み酒とは言いましたが、絡まれるのがイヤとは言っていないでしょう? そうではなく……もう少し、仕事がありますから」
そう言って少しだけつまらなそうな表情を浮かべるクリスの目の前で、エドワードは懐から一枚の封筒を取り出し。
「……アルトナー家の次男坊が郵便配達の真似事ですよ。マリー殿下からお預かりした手紙、届けに行かなければなりませんので」
その封筒を、ヒラヒラと振って見せた。
◆◇◆◇
「おーい、エリック~」
ラルキア市街にある古びた一軒の宿屋。ベッドの上で寝転がって雑誌に目を通していたエリックの視界に、手元に持った手紙をヒラヒラとさせるローナの姿が入った。
「……ノックぐらいしろよな?」
「ええがん、別に。ウチとエリックの仲じゃろ?」
そう言って、勧められもしないのに部屋の椅子に勝手に腰を降ろすローナに返答代わりに溜息を一つ。読んでいた雑誌をサイドテーブルに投げ、エリックはベッドから身を起こした。
「なんの用だよ? 今日、休みの日――おい。お前、流石にそれはなくね?」
椅子に腰を掛けるなり、サイドテーブルに放り投げた雑誌に興味津々と云った風に視線を送るローナに先程よりも深い溜息を吐くエリック。そんな事はお構いなし、ローナはサイドテーブルの上の雑誌を持ち上げるとその雑誌を開く。
「『オルケナ大陸の歩き方:チタン編』……? なんじゃ、これ? 旅行雑誌かいの?」
「……たまたま本屋で見つけたんだよ。ちょっと面白そうだからな」
『会話をしろ、会話を!』と言い掛け、どうせ言っても無駄と悟ったエリックはローナの疑問に答える形でそう、言葉を口にする。『へー』と言いながら、ローナはもう一度その雑誌に視線を落とした。
「……旅行とか行きたいん、エリック?」
「ああ……そうだな。たまにはイイかな~って思ってな、旅行も」
「……」
「……なんだよ?」
「いや……そんな高尚な趣味があったんじゃと思うて」
「本当に失礼な奴だな! あー……まあ、そうじゃなくて」
少しだけ言い難そうに言い淀み。
「……ジェシー姉ちゃんがさ」
「うん?」
「ジェシー姉ちゃん……ジェシカ姫はホレ、王女だっただろ? だからこう……まあ、色んな所に外遊してたんだよ。そんで、その話をしてくれてたんだよな」
「……話?」
「『あそこの建物は凄く大きかった!』とか『あそこの料理は凄く美味しかった!』とか……ああ、そう言えばソルバニアでは猫の鳴き声まで違うって言ってたな。ラルキア王国では『にゃーん』だけど、ソルバニアでは『はにゃーん』だって言って、チビ達に笑われてたよ」
そう言って、おかしそうに笑う。
「……エリック……」
「俺さ? ジェシー姉ちゃんに色んな事を教えて貰ったんだよ。色んな国の、色んな街の話を教えて貰ったけど……でも、結局ジェシー姉ちゃんに教えて貰うだけで、自分では何にも見聞きしたことねーなって思ってさ」
「……」
「ジェシー姉ちゃんの供養も兼ねてさ? ちょっと旅にでも出て見るかな~って」
屈託なく微笑むエリックに、ローナが曖昧な笑みを返しながら手に持った本をサイドテーブルの上に置く。まるで、壊れ物を、宝物を扱うかの様に、そっと。
「……ほうか。そりゃ、楽しみじゃな。ほな、早く終わらせてさっさと旅行に行かなおえんな。土産ぐらいは期待しとるで、エリック?」
そんなローナの言葉に、不思議そうに首を捻る。
「……土産?」
「……なんじゃ? 土産も買うてきとうない言うんかい? 流石にエリック、そりゃ冷たいんじゃないんかの? 一応、エリックの師匠のつもりでおるんじゃけどの? 優しく、手取り足取り教えたじゃろうが」
「アレが優しいんだったら俺とお前の間には著しい認識の齟齬があるんだけど……って、そうじゃなくて」
一息。
「あれ? お前も一緒に行かねーのか?」
「…………は?」
エリックの言葉を理解するのに、一瞬。反応するのに、もう、数瞬。
「い、一緒に? わ、私と?」
「そうだよ。アレ? 俺、そんなに変な事言ってるか?」
「へ、変というかじゃな……は?」
「なんか次の仕事でもあるのか? 予定がアホほど詰まってるとか?」
「い、いや……そりゃ……ない、けど」
「んじゃいいじゃん」
「……う、うん……い、いい……のか、な?」
「うし! それじゃどこに行くかな~? チタンも良いけど、パルセナでギャンブルってのも捨てがたいよな? 海沿いの街は魚もうめーって言ってたし……」
そう言いながら、嬉々として部屋に備え付けの本棚に向かうエリック。その姿を呆然と見つめた後、小さく溜息を吐いてローナが苦笑を浮かべた。
「……エリック。旅の算段は後じゃ。それよりホレ、やる事があるんじゃって」
「やる事?」
ローナに背中を向けていたエリックが訝し気に振り返る。そんなエリックの行動が終わるのを待って、ローナは懐から一枚の手紙を取り出した。
「『お姫様』からのお手紙じゃ。エリック、出番じゃで?」




