第百十四話 エリカの決意
来週はちょっと所用で更新難しいかもです。
エリカの声が草原に響いてからしばしの間、浩太はその言葉に反応できずにいた。目の前で少しだけ頬を赤らめてチラチラと、まるで捨てられるのを怖がる子犬の様な目を向ける少女の視線を受け、ゆっくりと巧く回らぬ頭を無理やりに回転させて言葉を紡ぐ。
「え……っと……」
エリカ・オーレンフェルト・ファン・フレイムが、エリカ・オーレンフェルト・ファン・フレイムではなくなる。まるで哲学の様なそんなエリカの問い掛け……というか、謎かけに浩太は首を捻る。が、捻っても答えは出ない。
「……意味が分かりかねるのですが。エリカさんが、エリカさんでなくなる、とは?」
なので、素直に聞いてみる事に。問われたエリカは少しだけ表情を硬くしたまま、口を開いた。
「エリカじゃなくなるって……そんな事は無いわ。『エリカ』は『エリカ』のままよ」
「……余計にこんがらがってきましたが」
「だから! 私の名前が……『家名』が変わっても、コータは私の側に居てくれるかな?」
そんな、不安げに揺れるエリカの瞳をじっと、じっと見つめながら浩太の胸の中に湧きあがった、感情は。
「……『家名』が変わる?」
焦燥、である。
「か、家名が変わるというのは、その、あの……」
浩太にしては珍しく取り乱したかの様な態度に、不安そうに揺れていたエリカの眉根が寄せられ、その後、先程よりもより一層悲壮な色を湛えた。
「や、やっぱり……その、側にはいて……くれない?」
悲しそうなエリカの瞳に思わず首を左右に振りかけ、浩太はその動きを止める。だって、『家名』が変わるのだ。日本で、由緒正しい平民の息子であった浩太の中では家名はイコール苗字であり、『女性の苗字が変わる』という意味を理解すると、それはまあ当然に。
「……その……苗字が……家名が変わるとなりますと……一緒に居るのは……不味いのでは無いでしょうか。こう……色々と」
結婚しか思い浮かばない。
「た、確かに家名は変わるわ! 変わるけど……その、別にそんなに生活が変わる訳じゃ無いのよ!」
「は? い、いや……その……そんな事は無いでしょう」
「へ? そ、そんな事は無いって、そんな事は無いわよ! って、これじゃ何言ってるか分からないけど……と、とにかく! 別にコータの不利になる事はない……様にするから、だから! その……」
――お願い、と。
「……一緒に……居て、下さい」
まるで泣き出しそうなエリカを一瞬、見つめてしまう浩太。『な、なによ』なんて見つめられた事に瞬時に頬を染めるエリカを尚もまじまじと見つめ。
「……大丈夫ですか、エリカさん?」
主に頭が、とは言わない。
「……どういう意味よ?」
「いえ……その、何でしょう? こう……新婚夫婦の所に他の、しかも未婚の、まあまあ良い年齢の男が転がり込むのは……こう、旦那さんになる人的にもあまり気分が良いモノでは無いかと思いますし……それに……私だって正直、あまり気分が宜しくないですよ、流石に」
一体、どんな罰ゲームか、とも思う。若年寄なんてエリカには言われていたりするが、それでも浩太も健康な二十代の男性だ。自身が少なからず好意を寄せている相手が別の男性とイチャイチャしている姿なんぞは。
「……ですので、そうなれば……そうですね。私は出て行かせて頂きます」
浩太だって、見たくはない。そう思い、口を開いた浩太の視線の先に。
「………………は?」
ポカンとした、エリカの姿が映った。それも数瞬、顔を真っ赤にしてマシンガンの様にエリカが一挙に捲し立てる。
「だ、誰が結婚するのよ、誰が! 貴方、私の話を聞いてたの!」
浩太のネクタイを掴みかからん勢いで体をぐいっと近づけるエリカ。小さな丘とはいえ結構な急勾配を登って来た筈のエリカだが、その髪からは汗の匂いではない、香る仄かなシャンプーの香りが浩太の鼻腔を擽った。
「い、いや、エリカさん? その近いで――じゃなくて! いえ、だって、苗字! 家名が変わるって、苗字が変わるって意味でしょ? だ、だったらソレ、結婚じゃないんですか!」
エリカの勢いと鼻腔を擽る香りに頬を赤らめたまま浩太が反論を試みる。目論見は成功したか、被り付き状態だったエリカが少しだけ『うっ』と息を呑んで一歩、足を下げた。
「……ま、まあ……言い方は多少悪かったかも知れないけど……でも! ちょっと考えればわかると思わないかしら? 私よ? エリカ・オーレンフェルト・ファン・フレイムよ? 私の事、何だと思ってるのよ!」
「な、何だと思ってると言われましても……」
「私はアンジェリカ様から『好きな人と結婚して良い』って言われてるのよ! 貴方、見た事あるの? 私に男の影がチラチラしている所とか!」
「あー……いえ、見た事は無いですが」
「でしょ!」
「ですが……その、ホラ。一目惚れとかありますし」
「――っーーー! 私はそんなに軽い女じゃないわよ! 失礼な事言わないで!」
エリカ、荒ぶる。余りのその剣幕に浩太には一瞬、エリカの背後に龍が見えた。
「す、済みません! 失礼しました!」
「言っておくけど、別に私は一目惚れを否定している訳じゃ無いからね! ただね! 私はちゃんと好きな人が居るのに、そんな簡単にフラフラ余所見をする様な女じゃ――」
言い掛けて――エリカは気付く。
「……えっと……は、ははは……」
何とも言えない微妙な表情を浮かべる浩太と……自身の、失言に。
「――っーーーー!!!」
エリカさん、顔真っ赤である。若年寄であり、年齢以上に枯れている……様な気がしているが、浩太は決して『ニブく』はない事をエリカは知っているのだ。自身で言ったように、エリカに男の影がチラチラしている訳ではない以上、唯一の『男の影』である浩太が『好きな人がいる=浩太』という単純な公式に気付かないと良いなー、なんて希望的観測は持ちようもない訳で。
「……いえ、エリカさん? そんな涙目で睨まれても」
行き着いた先はコレ、無言のまま、涙目で睨むという可愛らしい行動に出た。情状酌量の余地はあるが、まあ、自爆である。
「……折角だから」
「はい?」
「折角だから、聞かせてよ。参考までに」
「何をでしょうか?」
「私が『結婚する』って思ったんでしょ? それを聞いて貴方、どう思ったの?」
「どう、と申されましても……その、『ああ、テラの公爵屋敷にはもう住めないな』と、そう思いましたが……」
「それだけ?」
「……」
「新婚夫婦の家には住めないって、そう思っただけ? 住む所が無くなるなって、そう思っただけ?」
息を呑む浩太に、もう一歩、身を寄せて。
「――私が、誰のお嫁さんになっても別に構わないって、そう思ったの?」
真剣な瞳の色に一歩後ずさり、浩太は肩を竦めて見せる。
「……失礼ながら……ぐいぐい来ますね、エリカさん。珍しく」
「……失うモノは何もないからね。前に出るだけよ」
軽口で躱そうとするも、失敗。相変わらずな真剣な瞳で見つめてくるエリカに、浩太は溜息を吐く。心持、これでイーブンという気持ちもあるし……何だか、誤魔化すのも悪い気がしながら。
「……まあ正直、良い気分ではありませんでしたね。勝手な言い分でしょうが、何だか盗られた気すらしました」
素直に、心情を吐露。
「……」
「いえ、『盗られた』という言い方は語弊があるのでしょうが……まあ、その……何でしょう? こう……」
「……良いわ。結局……その、嫉妬してくれたって事でしょう?」
「……そうですね。はい、です」
「嫌だった? 私が、誰かのお嫁さんになっている姿を想像するの。あなた以外の、誰かの隣で微笑んでいる姿に、気分を害した?」
「……はい」
「……」
「……」
「……えへへ~。そっか、そっか~。コータ、気分を害したのか~」
「……感じ悪いですよ、エリカさん。綾乃か……シオンさんみたいです。ダメな大人のマネはしないで下さい」
少しだけむすっとする浩太とは対照的に、エリカはその顔の満面に『ふにゃ』とした笑みを浮かべて見せた。
「他の女の名前は出さないの。まあ……でも、ごめん。ちょっと嬉しくて」
「……もうイイです」
「いいでしょ? これで、おあいこよ。私だって、その……恥ずかしい思いをしたんだし」
「エリカさんのは自爆だと思いますが?」
「ま、そうだけど……でもまあ、その『甲斐』はあったかなって」
表情の緩みを隠そうとも、またその意思すら放棄したかの様なエリカに浩太は両手を挙げて降参の意を示す。
「勘弁して下さい」
「そうね、勘弁して――」
嬉しそうにそう言って、エリカは口を紡ぐ。何かを考え込むよう、少しだけ眉根を寄せてその後チラリと後方、自身の母が眠る場所を見た。
「エリカさん?」
エリカのその行動に訝しげな表情を浮かべる浩太。それでも反応を示さないエリカに、尚も浩太は言葉を続けようと口を開きかけて。
「――え?」
その口を、エリカが浩太のネクタイを引っ張るという行動で遮る。不意打ちに近いその仕草に、浩太は反抗する事すら叶わず前方にたたらを踏む。エリカの、綺麗な薄紅色の唇が目の前に来て――そして、その唇が視界から消え、耳元に暖かい吐息が掛かる。
「――盗られたくないなら、きちんと貴方のモノにしておいてね?」
その言葉が耳朶を打つのは一瞬。意味を理解するのに、もう、一瞬。
「……? ……!?」
言葉もなく、囁かれた右耳を右手で押さえ、跳ねる心を抑えて浩太がエリカから距離を取るように後ずさる浩太の視界に、後ろ手に手を組み、顔を真っ赤に染めて笑顔を浮かべるエリカの姿が映った。
「……え、エリカさん? そ、その……えっと?」
「お母様に聞かれたら恥ずかしいから、ちょっと行動してみた」
「いえ、そうではなく……」
「ま、そういう事よ」
「いえ、そういう事って、ですが!」
「ああ、もう! コータ、男でしょ! グチグチと言わない!」
「いえ、それは、その……そうですが……」
しばし、『あうあう』と宙を彷徨った視線と言葉。その後、少しだけ諦めた様に浩太は深く息を吐いた。
「……勘弁してください、と言ったはずですが?」
「いいでしょ? どうしても言っておきたかったの」
にしし、と悪戯っ子の様な笑みを浮かべるエリカ。そんなエリカに、浩太も肩を竦めてみせる。
「……はぁ。仕方ないですね、貴方は」
「……ポケットに入れて連れ去ってとは言わないけど、目は離さないで居て欲しいカモ」
「……善処します」
宜しい、と微笑むエリカの姿に、何だかどっと疲れた気がして浩太は苦笑を浮かべて――そして、気付く。
「あの……エリカさん?」
「ん? なに?」
「それで……結局なんだったんですか? その、『家名』が変わるというのは」
根本的な問題が何も解決していない事に。そんな浩太に少しだけポカンとした表情を浮かべた後、エリカが口を開いた。
「……そうね。結局、私がしようと思ったことの説明がなにも出来ていなかったわね」
そう言ってやれやれと首を振って、なんでもない様に。
「私……ニーザに譲ろうと思うのよ。『ファンデルフェンド子爵家』を」
ある意味ではさっき以上の爆弾を落として見せた。
◆◇◆◇◆
「……済みません、エリカさん。少し理解が追い付かないのですが……えっと、譲る、ですか?」
パニック気味の浩太。そんな浩太を優しくみつめ、エリカは言葉を継いだ。
「順を追って説明……と、その前に、現状把握だけどニーザとアイリスの仲も重要だけど……もっと重要なのはファーバー家の問題という認識は大丈夫よね?」
「ええ、共有できています。『取扱い』の問題ですね?」
「それじゃファーバーが危険物みたいだけど……そういう事。コータも随分色々動いてくれているみたいだけど私も、それにリズもロッテも遊んでいた訳じゃ無い。色々と動いていたのよ」
「遊んでいたとは思わないのですが……それで?」
「リズが出した案はバウムガルデン家、ベッカー家、それにロート家への爵位の授与。これによりロート家の家格を上昇させる事と、『フレイム女王陛下が此処までやった』という無形の恩賜でファーバーを納得させる案だったのよね」
「……名誉を与える方法ですか。悪くは無いですね」
「でも、これには幾つか問題があるわ」
「拝聴しましょう」
「リズにも言ったけど、ベッカー家はまあいい。フレイム千年の繁栄を陰で支えた一族であり、爵位を賜ったとしても……まあ何処からも異論は出ないでしょう」
「商聖ユメリアに連なる家系ですしね」
「そう。家格の点ではベッカー家は問題ない。バウムガルデン家もまあ、良い。バウムガルデン家自体は爵位に値するとは言えないけど、ロッテに与えるつもりらしいから。確かに国家の最忠臣と呼んでも過言ではないロッテですもの。爵位に値する働きは十分しているわ。ロッテの場合は違う意味で危ういけど」
「有能な臣下が、権力と名声だけではなく名誉も持ちますか」
「領『土』と私兵もね。ちょっとした脅威よ、コレ。リズも普通なら気付くんでしょうけど……ほら、リズはロッテべったりだから」
「ロッテさんが……そうですね、『裏切る』事なんて想像もしていない、と?」
「そういう事。まあ、ロッテ自身に爵位を賜るつもりは毛頭ないみたいだし、ロッテはいいの。問題はニーザ……というか、ロート家ね」
「……硬貨の鋳造に関して並々ならぬ貢献をしていると伺っておりますが?」
「否定はしないわ。でもね? じゃあそれを以て爵位を、って話になると思う? ホテル・ラルキアの方が余程爵位に値するわよ。王家の定宿よ?」
「……確かに」
「こういう言い方はあまり好きでは無いんだけど……ロート家『程度』の働きでは爵位に値するとは言い難いわね。むしろ、下手にロート家に爵位をあげると次の火種になる可能性もあるわ。あの家で貰えるのであれば、是非うちにも! って」
此処まではイイかしら? と尋ねるエリカに浩太は首肯を以て応える。
「次。リズは爵位を授与すると言ったけど……王族の名誉称号での爵位以外ならば領地の下賜は必至よ。でも、今のフレイム王国に余分に与える領地はないわ」
「無いんです?」
「手頃な領地が、という意味だけど。リズの初めての授爵ですもの、下手な領地は上げれないわ。授爵は国事行事だし、その最初の授爵が失敗、なんて格好の付かない事は出来ないの。それこそ、テラみたいな領地をあげる訳にも行かないわけ」
「ダメなんです?」
「貴方、言ってたじゃない。『こんな領地を貰ったらどんな嫌がらせかと思いますね』って。最初の授爵で罰ゲームは無いでしょう」
「……ありましたね、そんな事も。テラは王族だから許されたんでしたね」
「そう。それで、三つ目。確かに、リズが爵位を授与してまでファーバーを慰撫したという事実は残るし、ファーバー自体はそれで納得がいくかもしれない。でも、他の貴族は納得する? 『新設貴族』と侮られると思わない?」
「まあ、それはあるかも知れないですね」
「リズの授与した爵位が侮られるという事は、リズが侮られるのと同義。唯でさえ若いリズに、今からそんな失点を付けても良い事なんて一つも無いわ」
「確かに」
エリカの言葉が途切れた事を認め、浩太はエリカに代わるように口を開いて見せた。
「その、エリカさんの仰った……『ファンデルフェンド子爵家』を譲るという点ではそれをカバーできると?」
「ファンデルフェンド家は爵位こそ子爵だけど歴史はファーバー家より長いわ。言ってみればファーバー家の方が新興貴族なのよ。傍系とはいえ、王族の血を引く娘を産んだ家柄でもあるし、家格自体は決して低くは無いわ。少なくとも、お母様もお祖父様も社交界で侮られた事は無い筈よ」
「……なるほど」
「テラだけで手一杯だったから、ファンデルフェンド子爵領は王国に貸与して管理をして貰っているけど、名義自体は私のモノだし」
「規模はどの程度なんでしょう?」
「広くもなく、狭くも無く。別段誇る産業もない領地ね。テラよりはちょっとマシ、ぐらいかな?」
「嫌がらせには入らない、と?」
「微妙なライン。人によっては嫌がらせと取られるでしょうけど」
一息。
「……でもね? その領地をあげるのはリズじゃないわ。私なのよ」
「陛下の御威光は傷つかない、と?」
「加えてフレイム王国の領地も減らないわ。どうせニーザに任せても領地運営なんて出来ないでしょうし、今まで通りフレイム王国に管理をして貰いましょう。管理料代わりに、あがってくる税収を納めてね」
エリカのやろうとしている事は、リズの名前に傷を付けず、ファーバーが納得する程の家格を持ち、なおかつフレイム王国の領地を減らさない方法である。言ってみれば良い事づくめ、直ぐにでも実行をしたい案件ではある。案件ではあるが。
「……出来るんですか、それ?」
これである。平民出身の浩太、そんなに詳しい訳では無いが貴族の家を平民が貰い受けるなんて話は聞いたこともなく、実行性に欠ける気がするのである。絵に描いた餅は所詮、絵に描いた餅でしかない。
「やろうと思えば出来ない事はないわ」
「……本当に?」
「ええ。誰も……誰も、じゃないか。そうね、殆どの人がやろうとしなかっただけで、方法は無い訳じゃないの。前例だってあるし」
「前例?」
「忘れたかしら? ちょっと前に、皆で一緒に行ったでしょ?」
――パルセナに、と。
「……ああ」
「パルセナ辺境伯領は元々、フレイム貴族であったパルセナ伯爵の領地。それを当時は『平民』であったグレース一世と時のパルセナ伯爵の養子縁組という形で継承した領地よ。ね? 『貴族』が『平民』に領地と爵位を継承した前例、あるでしょ?」
「なるほど、確かに」
「まず、私とニーザで養子縁組を行う。これにより、ニーザは『ニーザ・オーレンフェルト・ファン・フレイム』になる。その後、私の持つファンデルフェンドの子爵位と領地をニーザに渡す。王族の血を引かない者が『オーレンフェルト』とか『フレイム』を名乗るのをフレイム貴族は嫌うから、別家を立てる事にするわ。これでニーザは『ニーザ・ファンデルフェンド』としてファンデルフェンド子爵家の正当な後継者になるのよ」
「……エリカさんの家名が変わる、というのは?」
「私はファンデルフェンド子爵家を離れるんですもの。もう『ファン』を名乗る事は出来ないわ。その瞬間から私はエリカ・オーレンフェルト・フレイムになるのよ」
どう? と問いかけるエリカ。先程の言葉をゆっくりと頭の中で反芻し、咀嚼し、浩太は口を開いた。
「……パルセナ辺境伯はフレイムから独立した、とお聞きした記憶があります。『平民』に継がせるのを良しとしない、フレイム貴族の反対にあった、と」
「状況が違うわ。現在の宰相はロッテ、国王陛下はリズよ? 王府と王城の力は当時とは比べ物にならないのよ? それに……これは希望的観測だけど、カールだってファーバーの直属の上司としてこのままで良いとは思って無い筈だし、賛成してくれるでしょう、きっと。王姉である私が出した提案に、宰相と、国王陛下と、近衛騎士団長が味方になるのよ? 日和見の貴族はきっと賛成するでしょうし、反対の急先鋒になるのはファーバーぐらいだけど……ファーバー家の為だからね。無理にでも呑んで貰うわ」
「……なるほど。下地は整っている、と」
「そういう事。さっきも言ったけど、『嫌がらせ』になるぎりぎりのラインの領地だから、ニーザが乱心したとしても、フレイム王国の屋台骨が揺らぐ程の反乱にはならないわ」
「……ふむ」
「……どうかしら? いいアイデアだと思うんだけど?」
エリカの言葉を耳に入れながら、浩太は腕を組んで考え込む。聞いてみれば成程、悪い方法ではない。養子、或いは猶子となる事により、一気に自身の位を上げる方法自体は別段珍しい話ではないのである。事実、『日本一の出世頭』と言っても過言ではない豊臣秀吉は農民の出身でありながら、近衛前久の猶子となる事により関白にまで上り詰めたのだ。
「……そうですね、悪いアイデアではありません」
史実にソースを求めるべくでもなく、悪いアイデアではない。悪いアイデアではないが。
「……宜しいのですか?」
「なにが?」
「エリカさんのご実家でしょう? そんなに……そうですね、そんなに『簡単』に人に渡してしまって」
良いアイデアだからと言って、人の心情はそんなに簡単に割り切れるモノではない。
「……随分な言い草ね。簡単じゃないわよ? 結構悩んだし……だからこそ、こうやってお墓参りにも来てるんだし」
「失礼」
「まあコータの言ってる事も一理あるけどね。自分でも本当に良いのかな、とも思ったわ。リズも最初は反対したし……っていうか、多分今でも納得自体はしていないと思うし」
そう言って、視線をもう一度草原の中央に立つ墓石に向ける。
「……でもね? 確かに、家を守る事も、ご先祖様の誇りを守る事も大事だけど……でも、だからと言って、今、『生きている人』が……共に歩みたいと思っている人の為に出来る事があるんだったら、それをすればいいんじゃないかな、とも思うのよ。貴方も言ってたじゃない? 『私は、出来る事を一生懸命やっているだけです』って。今、私に出来る事はこれぐらいですもの」
「……」
「皆が悩んで、苦しんでいる。そして、私にはそれを助ける方法がある。これは言ってみれば、私の気持ち一つで何とでもなる問題だもの」
そう言って、視線を浩太に戻す。
「だから」
間違っていれば良いのに、と浩太は思う。
「――だから、良いのよ。これで」
エリカの頬に流れた涙の後が、自身の見間違えであれば良いのにと、浩太は思う。
「……分かりました。良いアイデアだと思います」
「ホント? 良かった」
嬉しそうに笑うエリカに、まるで胸を締め付けられる様な感覚を浩太は覚える。言葉にし難く、暴風の様でいて漣の様である何とも言えない感覚そのまま。
「……へ? え? ちょ……え、えええーーー! こ、コータ!? な、なに? なんなの? 夢? 夢なの、コレ? え? ちょ、あ、え、ええ?」
浩太は目の前のエリカを抱きしめた。不意の事態にパニックになるエリカだったが、浩太がゆっくり、漉くように髪を撫でると落ち着いたのかおずおずと、だが確実に自身の両の腕を浩太に回した。
「……こういう事も出来るんじゃないの」
「あまり得意ではないですが……こう、なんとなく」
「……ふーん。『なんとなく』で女の子にこういう事出来ちゃうんだ、コータ」
「……嫌なら止めますが?」
「あ、ウソウソ! 止めちゃやだ!」
「だったらそんなに可愛げのない事は言わない様にして下さい」
浩太のそんな言葉に、むぅと両のほっぺをリスの様に膨らませて見せるエリカ。が、それも一瞬。にへら、と表情を緩めてもう一度浩太の胸に顔を埋めた。
「……結構、好き」
「ハグが、ですか?」
「抱きしめて貰うのもだけど……なんだろう、さっきみたいにちょっと意地悪な事言うコータも」
「……意地悪な私って……シオンさんみたいな事言うの、止めて下さい」
「シオンみたいって?」
「あの人最近、『冷たくあしらわれるのも悪くない』みたいな事言ってたんですよ。言ったでしょ? ダメな大人のマネしたらいけませんって」
「そ、そういう意味じゃなくて! こ、こう……なんて言うか、ちょっと意地悪なコータって、なんだかアヤノに見せてるコータみたいな感じがして……貴方達の関係、ちょっと憧れてたから」
「……」
「どうしたの?」
「いえ……こういう言い方もアレなんでしょうが……さっきも言いましたが、結構ぐいぐい来るな~と」
「ウザい? 重たい?」
「そんな事は無いですが……いつものエリカさんらしくはないですかね」
「……お母様の前だから、かな? いつも素直じゃなくて後悔したから……たまには、素直になってみようかと思った所存です」
「所存ですか」
「所存です」
「……」
「……」
「……その、ね?」
「はい?」
「ニーザがファンデルフェンドを継ぐのはきっと巧く行くと思うんだけど……その、皆が皆賛成、って訳には行かないと思うの」
「でしょうね」
「ニーザもだけど、きっと私も色々と陰口を叩かれると思うの。爵位を平民に譲った貴族って、その……」
「分かりますよ」
それは多分、とても辛い事だろう。自身の愛する母親の爵位を、国家の為に譲ったある意味では功臣であるエリカが、誹謗中傷を受けるのだ。ただ、皆の幸福の為に、断腸の思いでそれを為したエリカが、である。
「……大丈夫ですよ」
だから。
「……私が、貴方を守って差し上げます」
何が出来るか分からない。でも、エリカが泣いていたらきっとその涙を拭って上げる事は出来る。そう思い、安心しろと言わんばかりの笑顔を見せようと思って。
「そうじゃなくて! う、ううん! 守って貰うのは嬉しいんだけど……その、私と一緒にいると、きっとコータも嫌な思いをする事があると思うの。『ああ、あの平民に爵位を譲った所の』って、謂れのない中傷とか受けると思うの。それが、その……」
――貴方に申し訳なくて、と。
「で、でも! 私も頑張るから! コータにそんな事言わせないぐらい、頑張って見せるから! だから!」
ああ、と浩太はようやく気付く。なるほど、此処で最初の話に戻るのか、と。
「……その……だから……どこにも行かずに、側に居てくれると……う、嬉しいです」
少しだけ照れたような、不安を乗せた様な、それでも期待する様な瞳に見つめられて、思わず浩太は溜息を吐く。
「……人の事より自分の心配をして下さい」
「え? え、ええ? えっと……ど、どういう意味?」
一番辛いのは自分なのに、自分の筈なのに。
それでも、その自分のせいで浩太が辛い思いをしないか、心配をする。
「……どこにも行きません……と、言うより行けませんよ」
こんな、底抜けに優しい少女を見捨てて何処かに行ってしまう程、自分は鬼ではないぞと、そう思い浩太は少しだけエリカを抱きしめる力を強めた。
「…………うん」
「はい」
「……どこにも、行かないで」
「はい」
「……ずっと、私の側にいて」
「はい」
「……もうちょっと……頭、撫でて」
「はい」
「ああ、騙されてはくれないか、やっぱり――って、は、『はい』?」
「エリカさんが素直ですから、私も素直になってみましょうか」
きっとかわされると思った不意打ちを、ノーガードで受けて見せる浩太に自身で言ったにもかかわらずエリカは頬を赤く染める。そんなエリカを可愛く思いながら浩太はエリカの頭を優しく撫でた。
「どうでしょうか、お姫様?」
「お、おひめ――そ、その……えっと……大変、結構なお手前では無いでしょうか?」
「……っぷ。なんですか、それ? お手前って」
「あ、ああ! 笑った! し、仕方ないでしょう! 恥ずかしいんだから! 拗ねるわよ!」
「どんな脅しですか、それ」
「う、うるさいうるさい! ふんだ!」
照れ隠しを笑われ、からかわれ、あしらわれた。なのに、それがちっとも嫌じゃなく、だからエリカはもう一度浩太の胸に顔を埋めようとして。
「……ねえ」
「はい?」
「その……えっとね? 浩太はやっぱりイヤかな?」
「なにがでしょうか?」
「ほら! こう……り、離婚した人に子供がいたら『瘤つき』とか言うじゃない?」
「あまり好きな言葉ではないですが……まあ、言いますかね?」
「だから、その……私は離婚した訳ではないけど」
私、凄く大きな『子供』が出来るから、と。
「……『瘤つき』だけど……嫌いにならない?」
返答なんて、出来やしなかった。
「あ、ああ!!! わ、笑ったわね!? なんで笑うのよ! 私、真剣に悩んだんだからね! 拗ねるわよ! びっくりするぐらい拗ねるわよ!」
草原の中に響くエリカの声と、浩太の笑い声に風が一陣。
ポカポカと胸を叩くエリカを宥める浩太の姿を見守る様な、まるで苦笑する様な、それでいてとっても優しい風が、そっとそんな二人を撫でていった。




