第118話 燃やされた水路図
第117話では、眠り湖の底穴を押さえる「湖底番」と、その下の空洞を見張る「底守り」の存在が明らかになりました。
底穴を押さえすぎれば、下層抜け谷が危ない。
下へ逃がしすぎれば、高原の季節水が失われる。
リリィたちは、古い中置き台に底押さえ石を仮置きし、上と下の圧力を一時的に分けることに成功します。
しかし、その影響で春戻りの泉の濁度が上がり始めました。
さらに、旧測候小屋の周辺で、誰かが荷物を燃やしていることが確認されます。
第118話では、記録を消そうとしている人物を追い、青火による上部起動を決めた理由へ迫ります。
旧測候小屋の方角から、細い煙が上がっていた。
灰色の空に溶けるような、薄い煙。
けれど、ファルコンの映像でははっきり見えた。
小屋の裏手。
崩れた壁のそばで、一人の人物が紙束を火にくべている。
カナタの顔色が変わった。
「記録を燃やしてる……!」
シオンが即座に立ち上がる。
「行くぞ!」
オルガが肩を掴む。
「走る前に確認。小屋の周辺は崩れやすい。火もある。煙もある。突っ込まない」
シオンは歯を食いしばった。
「……分かってる」
カナタは耳石を抱えたまま言う。
「春戻りの泉は?」
コピが表示を見る。
「濁度上昇は継続。ただし、急噴出の兆候はまだありません。監視が必要です」
リリィはすぐに決めた。
「分けよう。ユオ、ネーヴェ、トーヤ、マロウさんは泉と中置き台を監視。カナタは……」
カナタは一瞬、泉を見る。
それから、旧測候小屋の煙へ視線を戻した。
「私、行きます。燃やされる前に記録を確認したい」
リリィは頷いた。
「分かった。でも、無理に取りに行かない。人命優先」
「はい」
シオンが小さく言った。
「今回は、記録係が必要な場所がそっちなんだな」
カナタは少しだけ驚いた顔をした。
それから頷く。
「うん。今度は、ここ」
旧測候小屋へ向かう道は、風が強かった。
煙は細いままだ。
大きな火事ではない。
だが、紙を燃やすには十分だった。
近づくほど、焦げた紙の匂いが濃くなる。
ファルコンが上空から告げる。
「人物はまだ小屋裏にいる。逃げる動きなし」
オルガが眉をひそめた。
「逃げない?」
コピが補足する。
「意図的に待っている可能性もあります」
シオンが低く言う。
「罠か」
「断定はできません」
リリィは足を止めた。
小屋の裏手に、人影が見える。
年配の女性だった。
灰色の外套。
白く混じった髪。
手には半分燃えた水路図。
彼女はリリィたちを見ても、驚かなかった。
ただ、次の紙束を火に入れようとする。
カナタが叫んだ。
「やめてください!」
女性の手が止まる。
「やはり来たか」
落ち着いた声だった。
逃げるつもりも、隠れるつもりもない。
カナタは前へ出ようとして、オルガに止められた。
「火のそば、ゆっくり」
カナタは頷き、一歩ずつ近づいた。
「その記録は、高原の水を戻すために必要です」
女性は燃えかけた紙を見た。
「必要だからこそ、燃やしている」
シオンが声を荒げる。
「何言ってんだ!」
女性は静かに答えた。
「読めば、誰かがまた真似をする」
その言葉で、空気が変わった。
カナタは息を整えた。
「あなたは誰ですか」
女性は少しだけ目を伏せた。
「旧測候小屋の最後の記録補佐、エイラ」
コピが即座に照合する。
「旧観測塔の補助記録者名簿に、エイラの名があります。二十年前に退任。以後の所在記録なし」
カナタが目を見開く。
「観測塔の人……?」
エイラは苦く笑った。
「元、だ」
リリィは尋ねた。
「青火による上部起動を決めたのは、あなたですか」
エイラは火を見つめた。
少し長い沈黙。
そして、静かに言った。
「そうだ」
シオンが詰め寄る。
「そのせいで谷下が沈みかけた! 貯水池も、青火の水門も、全部おかしくなった!」
エイラの表情は変わらない。
だが、指先だけがかすかに震えていた。
「知っている。だから、燃やしている」
カナタが声を強めた。
「燃やしても、起きたことは消えません!」
その言葉に、エイラの目が初めて揺れた。
「消そうとしているのではない。二度目を防ごうとしている」
「それなら、残すべきです。何が危険だったのか、どこが間違っていたのか」
「残せば、都合のよい部分だけ読む者が出る」
エイラは半分燃えた水路図を持ち上げた。
「ここには、春戻りの泉の開放手順が書かれている。青火で上部から起こす手順もある。どちらも、条件がそろわなければ災害になる」
リリィは静かに聞いた。
「でも、燃やしたら条件も分からなくなる」
エイラは答えなかった。
風が吹き、燃えた紙の端が赤く光った。
カナタは一歩前へ出た。
「私たちは、条件を知るために来ました」
エイラがカナタを見る。
「観測塔の記録係か」
「はい」
「観測塔は、谷下を記録しなかった。雪室番も、湖底番も、底守りも記録しなかった」
「はい」
カナタは逃げなかった。
「だから、今から記録します」
エイラは厳しい目で言う。
「遅い」
「遅いです。でも、今燃やされたら、もっと遅くなります」
カナタの声は震えていた。
でも、折れていなかった。
「失敗した記録も、残してください。正しい手順だけじゃなくて、間違えた理由も」
エイラは黙った。
シオンが横から言う。
「燃やして隠したら、また誰かが別のところで勝手にやる。俺たちはそれで散々走り回ったんだ」
オルガが小さく呟く。
「ほんとにね」
コピが冷静に言った。
「現在、高原の水路は複数箇所で不安定です。旧記録の断片でも有用です。燃焼を停止することを推奨します」
エイラはしばらく火を見ていた。
やがて、持っていた紙束を地面へ置いた。
火には入れなかった。
カナタはすぐに駆け寄りかけ、また止まった。
オルガが頷く。
「今なら大丈夫」
カナタは紙束を拾い上げる。
焼け焦げている。
端は読めない。
だが、中心部は残っていた。
そこには、複雑な水路図が描かれている。
春戻りの泉。
眠り湖。
底穴。
下層抜け谷。
青火の水門。
そして、見慣れない細い線。
カナタが目を細める。
「この線……何ですか」
エイラは答えた。
「逃がし道だ」
リリィが聞き返す。
「逃がし道?」
「春戻りの泉を起こす時、眠り湖の底穴に圧力が集まりすぎないよう、水を一時的に逃がす細い道。水を捨てる道ではない。圧を抜いて、また戻すための道だ」
シオンが地図を覗き込む。
「そんな道、どこにある」
エイラは南東を指した。
「高原道の下。昔の石橋の基礎に隠れている」
高原道の老人が通信越しに息をのんだ。
『まさか、あの橋の下か……』
カナタがすぐに尋ねる。
「知っているんですか?」
『古い石橋がある。今は使われていない。だが、そこに水路があるとは聞いたことがない』
エイラは低く言った。
「聞かせなかった。危険だからだ」
リリィは水路図を見る。
「この逃がし道を使えば、春戻りの泉を安全に起こせる?」
エイラは首を横に振る。
「使えれば、だ」
「使えれば?」
「二十年前の時点で、半分塞がっていた。今はもっと悪いはずだ」
カナタが記録する。
逃がし道。高原道旧石橋下。春戻り開放時の圧抜き。現状不明。
シオンがエイラを見る。
「じゃあ、なんで青火を使った」
エイラは静かに答えた。
「春戻りの泉は詰まっている。逃がし道も塞がっている。底穴は不安定。なら、上から季節水源を少し起こし、少量の水で分水路を湿らせるしかないと思った」
「少量?」
「そうだ。測りながら、少量ずつだ」
ユオたちがやったこととは違う。
青火を持ち込み、一気に起こそうとしたわけではない。
だが、記録が欠け、道具が壊れ、役目同士がつながっていなかった。
その結果、青火は危険な形で持ち込まれた。
カナタが苦しそうに言う。
「あなたが、ユオたちに青火の記録を渡したんですか」
エイラは目を伏せた。
「写しを渡した。全部ではない。危険な部分は抜いた」
コピが淡々と言う。
「危険な部分を抜いたことで、条件が伝わらなかった可能性があります」
エイラは何も言わなかった。
その沈黙が、答えだった。
ネーヴェの歌には残っていた。
ユオの写しには欠けていた。
観測塔には何もなかった。
それぞれが、少しずつ足りなかった。
その足りなさが、高原の水を狂わせた。
リリィは言った。
「エイラさん。燃やすのではなく、注釈を付けてください」
エイラが顔を上げる。
「注釈?」
「ここは危険。ここは条件不足で使ってはいけない。ここは失敗した。ここは未確認。そう書いて残す」
カナタが続けた。
「正しい記録だけじゃなくて、危ない記録として残すんです」
シオンも言う。
「隠されると、こっちは何が危ないか分からない」
エイラは三人を見た。
火は少しずつ弱くなっている。
やがて、彼女は膝をつき、燃え残った紙を一枚拾った。
「……遅すぎると思っていた」
誰も口を挟まなかった。
「観測塔も、牧草地も、谷下も、古い役目も、もう一緒には動けないと思っていた。だから、誰かが勝手に使う前に、危険な道を消した方がいいと」
カナタが静かに言う。
「でも、消しても水路は残ります」
エイラは目を閉じた。
「そうだな」
その声は、疲れていた。
だが、少しだけ重荷を下ろしたようにも聞こえた。
「逃がし道の場所を教える。ただし、近づくなら全員で行け。観測塔だけでも、雪室番だけでも、湖底番だけでも、底守りだけでもだめだ」
リリィは頷いた。
「全員で見ます」
その時、コピの端末が鳴った。
「春戻りの泉、濁度上昇が加速。三番耳石周辺で再び圧力偏り」
カナタが顔を上げる。
「耳石を戻さないと……!」
さらに別の警告。
「中置き台、底押さえ石の共鳴が増加。下層抜け谷側の圧力も上昇」
シオンが舌打ちする。
「同時かよ!」
エイラが厳しい顔になる。
「逃がし道が塞がっているせいだ。圧がどこにも抜けない」
リリィは地図を広げた。
春戻りの泉を起こすには、耳石を戻す必要がある。
耳石を戻すには、圧力の逃げ場が必要。
底押さえ石は中置き台で一時安定しているが、長くは持たない。
なら、次に見るべき場所は一つ。
高原道の旧石橋下。
春戻りを起こすための逃がし道。
「行こう」
リリィが言った。
「燃え残った記録も持って。今度は、消さずに使う」
エイラは小さく頷いた。
旧測候小屋を出ると、空は夕方の色に変わっていた。
遠くで春戻りの泉が、ぽこ、と鳴った。
さらに下から、ごおん、と眠り湖が応える。
そして、南東の高原道の方角から。
聞こえるはずのない場所で、水音がした。
ざあ、と。
一瞬だけ。
すぐに消えた。
コピが即座に反応する。
「旧石橋下で水流反応。逃がし道が完全閉塞していない可能性があります」
カナタの表情が明るくなる。
「生きてる?」
だが、コピは続けた。
「同時に、橋脚下部で空洞化を確認。逃がし道を通水すれば、旧石橋が崩落する危険があります」
リリィは南東を見た。
水を逃がす道は、まだ生きている。
けれど、使えば橋が崩れるかもしれない。
次の選択は、そこにあった。
第118話では、旧測候小屋で記録を燃やしていた人物、エイラと接触しました。
エイラは旧測候小屋の最後の記録補佐であり、青火による上部起動を提案した人物でした。
ただし、彼女は高原を壊そうとしたわけではありません。
春戻りの泉、眠り湖の底穴、下層抜け谷、逃がし道のすべてが不安定になっていると知り、危険な記録が悪用されることを恐れていました。
しかし、危険な部分を抜いた写しをユオたちへ渡したことで、条件が伝わらず、青火の扱いがさらに危険なものになってしまいました。
リリィたちは、記録を燃やすのではなく、危険な注釈を付けて残すよう提案します。
そして、春戻りの泉を安全に起こすために必要な「逃がし道」が、高原道の旧石橋下にあることが分かりました。
ただし、その逃がし道は完全には塞がっていないものの、橋脚下が空洞化しており、通水すれば旧石橋が崩落する危険があります。
次回は、旧石橋下の逃がし道をどう扱うか、そして水を戻すために何を残し、何を使わないかの判断へ進みます。
原案・構想:マスター
物語構成・本文作成・文体調整:G(ChatGPT)




