第三十四話:金の都
王都商業ギルド本部の、意匠を凝らした重厚な大扉を押し開けた瞬間、龍馬は言葉を失うほどの圧倒的な熱量の渦に呑み込まれた。
そこに広がっていたのは、交易都市ガルガドや港湾都市ガランのギルドとは、文字通り桁違いの巨大な空間だった。
遥か高い天井まで突き抜けた大広間には、魔法の灯火が燦然と降り注ぎ、磨き抜かれた大理石の床を照らし出している。
壁際にずらりと並んだ無数の受付窓口には、手続きを待つ人々が何重もの長蛇の列を作り、その背後の壁一面に掲げられた国別の取引掲示板には、見たこともない国名と膨大な数値が書記官たちの手で目まぐるしく書き換えられていた。
右を向いても左を向いても、様々な民族の衣装をまとった商人が、激しくまくしたて交渉を行っている。
その間を、山のような帳簿を抱えたギルドの職員たちが走り回り、屈強な荷運び人夫たちが額に汗を流して大きな木箱を運んでいく。
「こりゃあ、もう、一つの城じゃのう……」
龍馬は顎が外れんばかりに上を見上げ、呆然と呟いた。その横で、ランセルがどこか誇らしげに、しかし苦笑を交えて応じる。
「ガルガドもガランも、本質はモノを動かす流通の街ですからね。ですが、この王都は違います。ここは――世界中の富とモノが引き寄せられる、集束の終着点なのです」
その言葉に、龍馬の細い目がピクリと反応した。集束の終着点。それはつまり、モノが流れるのを止め、ここに留まるという意味でもあった。
思考を巡らせながら、預けていた毛皮や海産物の登録手続きを進める中、龍馬はふとランセルに尋ねた。
「のうランセル。これだけデカい街なら、わしらみたいな小規模な行商人は、一体誰に品物を売るがじゃ? 街の市場へ持っていって、直接民に売っちゃあいかんのか?」
「絶対に駄目です」
ランセルは真剣な顔で首を振った。
「我々のような個人行商人は、手に入れた荷をすべてこの王都商業ギルドへ一括で卸すのが鉄則です。王都は市場規模が大きすぎますし、何より利権が複雑に絡み合っています。どこの市場も大貴族や大商会の息がかかっており、商会同士の縄張り争いも苛烈を極めます。特殊な税制や関税の計算もありますし、王都で個人が直接モノを売るというのは、自ら破滅へ飛び込むようなものです」
「うへぇ……」
龍馬は露骨に顔をしかめ、懐の手をせわしなく動かした。自由闊達な商いを好む彼にとって、そのガチガチに縛られた仕組みは、どうにも息苦しく感じられた。
だが、ギルドでの取引がすべて終了した瞬間、龍馬の息苦しさは別の衝撃へと塗り替えられた。
提示された金貨の山を見て、龍馬は思わずカウンターを叩いた。
「おまん! こがぁに儲かるがか!?」
「す、げえ……! なんだよこの金額!」
ノイルも目を剥いて叫ぶ。ガルガドで仕入れた魔狼の毛皮、そしてガランの港で安く買い叩いた海水汚れの織物や海産物の干物が、地方の数倍近い高値で買い取られたのだ。
しかし、ランセルは驚く風もなく、至って平然と帳簿を閉じた。
「ええ。驚くことはありません。ここは王都ですから、これくらいは当然です」
懐がにわかに潤った三人は、ひとまず昼食を取るためにギルド近くの、至って大衆的な食堂へと足を運んだ。地方ならどこにでもある、干し肉と野菜の煮込みに黒パンが付いた、ごく普通の定食を三人分頼む。
食事が運ばれ、店員が淡々と言った。
「はい、お待ち。銀貨五枚になります」
ピキリ、と龍馬の身体が硬直した。
「……は?」
ノイルもまた、スプーンを握ったまま完全に固まっている。
「おいおい、ちょお待てよ! この、普通の定食が……銀貨五枚だあ!?」
店員が何を当たり前のことを、と言いたげに困惑した顔をするのを見て、ランセルが慌てて懐から銀貨を出して支払いを済ませた。
「いえ、問題ありません。三人分、これでお願いします」
店員が去った後、龍馬はスープを一口啜り、唖然とした声を漏らした。
「なんじゃこの街は……。地方の数倍でモノが売れると思うたら、飯の値段まで数倍かよ」
「それが王都の経済というものです、龍馬さん」
ランセルは静かにパンをちぎりながら、この歪な都の仕組みを語り始めた。
「ここには、この国のすべての人間、金、モノ、権力が集中しています。何をするにも場所代がかかり、すべての物資にマージンが乗る。だから物価が異常なまでに跳ね上がるのです」
「ほんじゃあ、ここで暮らす大工や職人らはどうなるがじゃ? 生きていけんろう」
「いいえ、彼らの日当もまた異常ですから。職人の日当は、銀貨二十枚が最低ライン。腕が良ければ金貨が飛び交います」
龍馬は絶句した。地方の村なら、銀貨五枚もあれば雇える。
「……ほんじゃあ、何かえ。この街にゃあ、その日の金にも困るような貧乏人はおらんのか?」
ランセルは冷徹な、しかし紛れもない現実の目を龍馬に向け、淡々と返した。
「本当の貧民は、この王都では生きていけません。餓死するか、城壁の外へ追い出されるかです。ここは最低限の生活を維持するコストが、地方とは比べ物にならないほど高すぎる。ですから、ここを歩いている平民の多くは、地方からの出稼ぎ労働者か、一攫千金を狙う職人、あるいは一山当てに来た地方の商人です。彼らが、短期間だけ身を粉にして働き、金を毟り取っていく街。王都は住む街というより、金を稼ぐためだけの街なのですよ」
龍馬は黙って窓の外を眺めた。眼下を行き交う、莫大な人間の群れ。その間を流れる、目に見えないほど巨大な富の奔流。
「……ほんじゃあ、この王都で、今この瞬間も一番激しく流れゆうものは……」
龍馬は少しの間、じっとその光景を睨み据え、そして苦いものを噛み潰したように呟いた。
「金かよ」
命を繋ぐためのモノではなく、ただ数字としての金そのものが、この都の血液として狂ったように循環している。龍馬は、この時初めて、王都という巨大な化け物の異常性を芯から理解した。
午後、三人は王都のさらなる深部へと足を向けた。
街を縦横に貫く巨大な人工水路、そこを進む華やかな小舟。異国の民族衣装を着た商人たち。上空に見える、竜が舞う浮遊島。そして、刻限を告げる壮麗な鐘の音。龍馬はそれらすべてに目を輝かせ、驚きを隠さなかったが、その足が「大神殿地区」へと差し掛かった瞬間、完全に言葉を失った。
「…………なんじゃ、こりゃあ」
ガルガド侯爵の居城すら、足元にも及ばないほどの圧倒的な規模だった。地平を埋め尽くすような白亜の大神殿。天の雲を突き刺さんばかりに天へと伸びる、巨大な尖塔。そして、その門前に向かって、蟻の行列のようにはるか彼方まで続いている、果てしない巡礼者の列。
「この世界の人間の大半は、光の女神を信仰しています。解せぬ話かもしれませんが、この王都の大神殿はこの大陸の総本山。だからこそ、大陸中から毎日、数え切れないほどの巡礼者が命懸けで集まってくるのです」
ランセルの説明を聞きながら、龍馬の視線は、その巡礼者の列の細部へと注がれた。そこに並んでいたのは、きらびやかな貴族などではなかった。
互いを支え合う疲れた老人。
飢えに泣く我が子をあやす子供連れの母親。
神の奇跡を求めて喘ぐ衣服の汚れた病人。
礼装を纏った敬虔な信者。
大枚をはたいて旅をしてきたであろう、若い男女。
神官たちが厳かに施しを行うそのすぐ足元、巡礼者の列の脇から、ハイエナのような鋭い目をした男たちが次々と群がっていくのが見えた。この街の宿の客引きたちだ。
「おい、そこの爺さん! 安宿があるぞ、残り二部屋だ!」
「こっちへ来い! 風呂は無いが、一晩銀貨四十枚で泊めてやる!」
その声を聞いた瞬間、龍馬は文字通り目を丸くし、客引きたちを指差して叫んだ。
「おまんら、正気か!? 風呂も無い薄汚い物置みたいな部屋が、一晩で銀貨四十枚じゃと!? 」
ランセルは悲しげに、しかし諦めに満ちた苦笑を浮かべた。
「……巡礼期ですからね。需要に対して、圧倒的に供給が足りない
」
龍馬は、すっと真顔になった。
この街には金がある。モノもある。だが――歪んでいる。
夜。ランセルが手配してくれた、王都の中くらいの宿へ入る。一晩の宿泊費は、銀貨五十枚だった。
しかし、部屋に入ったノイルは、その設備を見て声を震わせた。
「これで……これで中くらいの宿かよ……!」
そこには、ガランの安宿とは雲泥の差の空間があった。完全にプライベートが守られた清潔な一人部屋。小さく簡素ではあるが旅の疲れを癒やす温かい風呂。そして、柔らかいベッド。
金を払えば、快適さが手に入る。金を払えなければ、路頭に迷って死ぬ。あまりにも分かりやすく、あまりにも残酷な、金の都のルール。
龍馬は風呂を浴びた後、静まり返った部屋の窓辺へと歩み寄った。
窓の外には、深夜であるにもかかわらず、魔道具の街灯で真昼のように眩く灯り続ける王都の夜景が広がっていた。夜だというのに、人々の営みは微塵も止まる気配がない。
遠くから響く馬車の車輪の音。時を告げる鐘。酔客の笑い声。闇に紛れて行われる莫大な取引の気配。吟遊詩人の歌声。
王都は、眠らない。眠ることを許されないほどの循環が街を突き動かしている。
「まっこと……デカいのう」
龍馬はぽつりと呟き、少しの間、沈黙した。その鋭い視線は、夜の闇の中、無数の巡礼者たちが消えていった遥かかなたの大神殿の尖塔へと向けられていた。
昼間に見た、あの異常な物価。金を稼ぐためだけに集まり、去っていく人々。神の足元で並ぶ巡礼者たち。
国中の富が集束するこの都。一見すると完璧に回っているように見えるこの巨大なシステムを見つめ――龍馬の口元が、小さく、不敵に吊り上がった。
「停まった流れが……淀んじょる」




