#82 火花と水鏡
***
夕暮れ。
私と文姫は馬車に乗り、行政宮を離れて屋敷に向かっている。
私の懐には小瓶と、二本の巻物がある。
その内容は、私と文姫。それぞれに劉辯から与えられた新たな仙術だった。
ガタゴトと揺れる馬車の中で、文姫は両手を合わせて五行を循環させている。
その顔は真剣で、どこか暗い。
「文姫……? いまはまだ良いんじゃない? もっと落ち着いた場所でやらなきゃ、ほら。変な癖がついちゃうわよ?」
それを見た私は文姫にそっと声をかける。
「あ、すみませんつい……」
顔をあげた文姫は、無理したように笑う。そして窓の外を見てため息をついた。
この子が考えているのは、仙術のことだろうか。それとも、もう顔も覚えていない母親のこと……?
尋ねていいものか、私は迷う。
「いいのよ、焦っても仕方ない。大丈夫、今度はあと三年もあるんだもの。なんとかなるわよ」
そう言って文姫を抱き寄せた。
「……はい」
小さく震える肩に、また重い責任が乗っている。
やがて小さく寝息を立て始めた文姫を膝に乗せたまま、私はあの劉辯から告げられた言葉を思い出していた。
***
「新しい術……と言っても、天候を操作する術はもうずっと使い手が失われていてな。急に言われて、教えられるものではない」
私たちにそう告げた劉辯は、李杏から二本の巻物を受け取る。
「まずは、これを覚えるんだ。これを使えるようになることが、この先最低限お前たちに必要になるはず」
劉辯が差し出した巻物は、赤と青。
「これは……」
私たちはそれぞれ差し出された巻物に目をやると、李杏が手を組んだままそっと告げる。
「“火花”と“水鏡”の術です」
火花と水鏡……
そう心の中で繰り返していると、劉辯の指先に小さな火が起こった。
まるでマッチみたいに指先で燃える炎に、私と文姫は感嘆の声を上げる。
「ああ、火花は火行の仙術で最も初歩的なものの一つだ。本来は、これを最初に覚えるべきだった。だが反転の手相を持つ董白が使うために、少し調整が必要だったからな。李杏に頼んでようやく……ということだ」
そう言って、劉辯が炎を消す。
「ごめんね。かなり特殊な例だったから、大昔の書物をなんとか見つけ出してようやく」
李杏が優しく告げる。
私はこの時、李杏はまだ私と出会う前から、ずっと裏で私のために動いてくれていたことを知った。
「そんな! 私なんかのために……ありがとうございます」
私は李杏に頭を下げる。なんて伝えたらいいか咄嗟には思いつかなかった。
ただ素直に、感謝しかない。
「いいのよ、私にできるのはこれくらい。もう少し、何か力になってあげられたら……って、いつも思うわ」
李杏の視線が少しだけ、扉の前で私たちに背を向けている李儒の方に揺れた。
李儒はこちらを見ていなかった。でも、私には李杏の言いたいことが少しだけ伝わった気がした。
「必ず使えるようになってみせます」
そう答えると、李杏は寂しそうに目を細めて笑う。
「ええ、小紅ちゃん。そうしてもらえると、私も嬉しいわ」
次に劉辯は、青の巻物を文姫に差し出した。
「そして文姫、お前には水鏡を覚えてもらう」
「水鏡……」
巻物を両手で受け取った文姫が、小さくそう繰り返した。
「水鏡は、水を通して遠く離れた者と心を通わせる仙術。水そのものを産むわけじゃないから、いまの文姫ちゃんの仙力でも、頑張れば使えるようになると思うわ」
遠く離れた者と心を繋ぐ……。
どんな仙術かと想像していると、今度は目の前に水瓶が置かれた。
劉辯は懐から小瓶を取り出すと、水瓶に一滴だけ雫を落とす。
「玄武よ。遍く川のせせらぎに、声を。水鏡」
劉辯が水瓶に手を翳して唱えれば、水面が揺れてそこから声が聞こえてくる。
『もううんざりじゃ! わしはもっと、身体を動かしたいのに!』
『……ダメですよ、お父さま。今月中にあと十軒は回っていただかないと。それにそもそも……』
水面を見れば、そこに映っていたのは私がよく知っている顔。
お爺ちゃんとお母さまだった。
「こ、これは仲穎様と赤麗様!」
水面を覗き込んだまま、文姫が口に手を当てる。
「ああ、董卓の執務室に水瓶を置いておいた。水鏡は、水面を通して声と光を繋ぐ。ただ、あちら側に使える者がいなければ、こちらの声は届かないが」
そう答えた劉辯は、少し疲れたように手を水瓶から離した。
水はまた、静かに透明に戻る。
「水鏡は、一度交わった水を使えばかなりの距離でもこうして連絡が可能です。ただし時が経ち、あるいは濁ってしまうとそれも難しくなるのですが……」
李杏が補足する。
「だが、これが使えるようになれば余と話すのも少しは楽になるだろう。お互いに通じた水を持っていれば、もういちいち探し回らなくたっていいんだからな」
そう言って笑った劉辯は、小さな小瓶を差し出した。
「ここにほんのごく僅かだが、余の血を混ぜた水が入っている。霊水で清めてあるから、腐りはしない。使い方は簡単だ。これを、今のように水瓶にほんの一滴だけ垂らせばいい」
「え。血……ですか」
そう聞くと、何故だか少し嫌な感じがした。
「仕方ないだろう! もし変なところに繋がって、それがお前たちの危険に繋がったらどうするんだ!」
その反応に劉辯は気を悪くしたようで、少し顔を赤くしながらそう言った。
「す、すみません」
確かに、劉辯の言うとおりだ。こうした術を扱える人間の全てが、味方であるとは限らない。
そのことをもう、私たちは知っているのだから。
「とにかく、今日はここまでだ。詳しいことは巻物に書いてある。何かあったらここにくるか、水鏡を使え」
劉辯はそっぽを向いてそう言った。でも、李杏はそれを見て笑いながら付け足した。
「本当は、すぐにでもまた来てほしいんですよ? でも、高貴な方々は思ったことをそのまま伝えないのが癖になっていましてね」
劉辯はそのまま、その言葉を肯定も否定もしなかった。
ただ彼の耳だけが少し熱を持ったように赤く、その答えを映していた。
***




