#75 変化(へんか)
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あの夜──漢詩大会から一月ほどが過ぎた。
ここのところ毎日、お母さまとお爺ちゃんは各地の諸侯や、都の有力者たちの下へ挨拶回りをしている。
せっかく巡ってきた機会だ。人との繋がりは大切にすべき。お母さまの強い主張もあって、そういうことになったのだ。
「え。今日もか? わしは今日こそ身体を動かして……」
「何を言っているのですか? お父さまの身体は逃げませんが、諸侯は忙しいのです。領地に帰る前に少しでも交流を深めておかないといけませんのに……。はっきり言って、お父さまは人脈作りが下手すぎます。あんな絶好の機会をみすみす棒に振るなんて……」
お母さまが額に手を当てて小言を吐く。
でもお爺ちゃんはまるでよくわかっていない。
大会の夜はあんなに頼もしく堂々と見えたお爺ちゃんも、お母さまに言わせればまるで出来の悪い大型犬だ。
「ぬぉ!? ……どうしてじゃ? あの夜は霊帝さまも“大いに楽しめ”と言うておったではないか」
「だからって、その言葉をそのまま真に受けてどうするのですか! 私たちの働きが、全く水の泡です!」
「私“たち”? じゃが詩を詠んだのは赤麗、お主だけじゃろう?」
「ええ、そうですとも。でも小紅はあの日、私のお化粧をお手伝いしてくれたのですよ。それに蔡琰は何週間も私に詩を教え、蔡邕なんて、わざわざ出席者の事前調査までしてくれていました。
それなのにお父さまときたら、あの夜ご挨拶しておくべき諸侯の一覧まで受け取っておきながら……」
「ぐぬぬ……いやでも、わしもあの夜は緊張して……」
「全っ然! まったくそうは見えませんでしたわ! ほら、言い訳はもういいので早く準備をしてきてください!」
お母さまに言われ、渋々という風にお爺ちゃんは部屋に戻っていく。
あれだけ漢詩大会でお母さまが目立ったというのに、お爺ちゃんは宴席でも韓遂と二人、ずっと酒を酌み交わして盛り上がっていたらしい。私たちが先に屋敷に帰ってからも、そうだったみたい。
いまのお爺ちゃんには、“涼州の牙”や“西方無双”なんていう肩書きがある。でも、それだけだ。
諸侯からは、お爺ちゃんが本当はどういう人物なのか、はっきりとは認識されていない。
だからあの見た目と豪快な性格も相まって、初見の人から必要以上に怖がられてしまう。これも、お爺ちゃんが後世で大悪党と誤解されている大きな理由の一つだろう。
「今日も挨拶回りですか?」
「ええ、ごめんね。だけどもうあと少しだけ。せめて秋になるまでには長安に帰れるといいのだけれど……」
私の問いにお母さまが答える。
でも、私たち董一族の滅亡を回避するためには、こうした地道な活動こそ必要なのかもしれない。
実際、最初に予言書で書かれていた通りにもし茶会で毒を盛られていたら、お母さまはこの先ずっと館に引き篭ることになっていた。それが私の知る“歴史の真実”なんだとしたら……お爺ちゃんの性格だ。一人ではろくに人脈作りなんてできなかっただろう。
「いいの。“友達”が大切だっていうことは、私もよくわかりましたから」
そう返した私に、お母さまは少し驚いたような顔をした。
「あらまあ……それは、最近できた新しいお友達のことかしら?」
「えっ!? あ、ち……違います! ……違わなくもないんですけど、そんなんじゃないですから!!」
「ふふ。小紅ったら、どんどん大きくなっていっちゃうんだから」
「お、お母さま!? 私はまだまだ子供です!!」
「ええそうよ。……不思議ね。ずっとそうであって欲しいって願う気持ちもあるわ」
お母さまはそう言って、まるで悪戯が成功した子供のような顔で笑う。
母親の気持ちってのは、私にはまだよくわからない。
でも、洛陽の西にある古都・長安へ帰るのは、もう少し先に伸ばしてもらってもいいかも。
私だってまだ、この都でやりたいことがある。
まずは、劉辯にちゃんとありがとうを言いたい。それと、李儒にも。
あの夜から何度か行政宮には行ってみたけれど、私はまだ彼らに会えていない。
そう思うと、なんだか自然に言葉が漏れた。
「今日は……会えるかしら」
「なら私もお供します! 李儒さんとは会えるでしょうか? 一度、ちゃんとお話ししてみたいなぁ!」
いつの間にかすぐ背後にいた文姫が、私の独り言を拾って抱きついてくる。
この娘とも、ずいぶん距離感が近くなった。こうして抱きつかれても、もう前みたいに戸惑わない。
「ええ、もちろん。一緒に行きましょう」
私はそう言って文姫の頭を撫でる。
竹簡の予言は、気が付かないうちに変わっていた。
『この予言は回避された』──第二巻・『毒』の最後には、いつの間にかそう書き加えられている。
前に書き変わった時みたいに、胸を締め付けるような痛みはなかった。
むしろ、不思議と胸の奥に刺さっていた小さな棘が一つ抜けたような、そんな気さえした。
でも、完全に不安が消えたわけじゃない。
だって破滅の予言が書かれた竹簡は、まだあと“六巻”も残されているのだから。
そして、私は知っている。
破滅とは、時に“友達”のような何食わぬ顔をして、私たちに会いに来るんだってことを……。
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