#54 李儒
***
夕刻──
私とお母さま、文姫の三人は馬車に乗り込む。
「それではお気をつけて。留守は私たちにお任せください。ご活躍を祈っております」
門前には、見送りに来た蔡邕と華雄が並んでいた。
お父さまはここ数日の訓練に熱を入れすぎたのか、いまは自室で眠りこけている。父……がんばれ。
蔡邕は昔の事情もあって、いまも王宮には入れない。だから今日は、三人でいく。
王宮の事情に詳しく、ここまで一緒にやってきた彼を館に残していくのは忍びない。だけど、私と文姫の二人で蔡邕を包むほどの透過の術を使うことは、現状できなかった。
「ごめんね蔡邕……。不安だろうけど、絶対、うまくやるから」
「私は“三人”を信じております。不安などございませんよ」
そう言って彼は笑った。
「で、赤麗さまはいいけどよ……。なんでお嬢たちまで馬車に乗ってるんだ?」
華雄が首を捻ってこちらを見る。漢詩大会なんて、子供が行って楽しいものじゃない。
それに、招集はお母さまに掛かっているのだから、その疑問は尤もだった。
「宮中の大切な催しよ。側使えの一人くらいは連れて行くわ。それに、小紅の名はいずれ王宮にも届くでしょう。こんなに聡明で可愛らしいのですから。いまのうちに顔を出しておけば、長安に戻ってから都に“蜻蛉返り”……なんてことにならなくて済むわ」
お母さまがすかさず返答する。確かに、もしそんな事になれば面倒なことこの上ない。
で、でも本当は顔見せする予定なんてないから……え、これってフラグ?
「ははっ、確かにそりゃそうだ! そのせいで攫われたんだったもんな!」
それを聞いた華雄は大声で笑った。
「こら華雄。それは笑い事ではありませんよ」
「おっと!? すまねぇお嬢、俺としたことが……」
お母さまの言葉に華雄がこっちを見る。
「あ。いや、全然……もう、大丈夫だから」
実際には本当に気にしていないし、むしろ自分で仕組んだ事なので早く忘れてもらいたい。
少しバツが悪そうな顔でそう言った。
「ほら見なさい。思い出して、怖がってるじゃない」
「う……」
お母さまに叱責された華雄は、項垂れながら少し後退りする。
「さ、もう行くわ。もし開会式に遅れでもしたら、大問題だもの。蔡邕、華雄、帰りはそう遅くはならないと思うけれど、不在を頼んだわね」
「は、お任せを」
揃って礼の姿勢をとる二人。
扉を閉めると、馬車はゆっくり動き出した。
沈黙が落ちる。
馬蹄と、軋む車輪の音だけが、静かに車内に響く。
お母さまはじっと瞼を閉じて、集中力を研いでいるようだった。
文姫もそれに倣い、祈りにも似た姿勢で静かに目を閉じた。その小さな膝が、忙しなく震えている。
「大丈夫よ……」
私は文姫の肩を抱きよせると、視線を窓へやった。
窓の外──
焼けるような茜雲は、まるで今にも天から落ちてきそう。
夕陽を背にして走る馬車の前には、長い影が真っ直ぐに伸びる。
その先に──王宮がある。
霊帝さまと、何皇后と……劉辯がいる。
そして、まだ見ぬ中華の英雄たちも、そこで私たちを待ち構えている。
***
やがて馬車の揺れが止まり、私たちは目的地に辿り着いたことを悟る。
『透過の術──』
それと同時、私と文姫は仙術を使い、静かに姿を消した。
移動間にしっかり呼吸を合わせていたので、術の発動は問題なかった。あとは、バレないように動くだけ。
外から、誰かの近づく足音が聞こえる。
カッ、カッ、カッ……。金属製の鋲が地を撃つような、高い足音。
そして扉は開かれた。
そこに立っていたのは、黒の男性用官服を完璧に着こなした女性──歳は、十代後半くらいだろうか。
凛々しい眉にすっと通った鼻筋。濡羽色の髪は、煌々と灯された松明に照らされて何色にも見える。
一言で表すなら、“男装の麗人”──まさしく、そんな表現が相応しい。
でも……鋭く細められたその黒い瞳に、なぜか身震いしてしまう。どこか底知れない冷たさを、彼女から感じる。
「ようこそお越しくださいました。私は“李儒”と申します。本日、“黒赤蝶”さまの護衛兼ねて案内をさせて頂く女官です。どうぞお見知りおきを」
李儒と名乗ったその女官は短い挨拶を述べた後、ぐるりと車内を見渡す。
その視線が、私たちのいる“何もない空間”を一度だけ撫でた。
「ふむ……“お一人”ですか」
短く、ただそう告げる。そこには何の感情も乗っていない。
「え、ええ……」
やや気圧されるようにしてそう答えたお母さま。大丈夫、私たちは“見えていない”。その答えは正解だ。
「妙齢の女性が護衛も側仕えも連れず……今の都では、なかなか珍しい事ですね」
李儒は、また淡々とした口調でそう言う。
「董家は武官として代々勤めてきた家柄。私とて、身の一つくらいは自分で守れます」
最初こそ狼狽していたものの、お母さまはすぐにいつものペースを取り戻した。
「なるほど、なかなかに気丈な方だ。では、私もそのように立ち回りましょう」
そう言って、李儒は僅かに挑戦的な笑みを浮かべる。
「では、こちらに」
恭しく頭を下げ、下車を促す李儒。
「ありがとう。よろしく頼むわ」
お母さまはそう言って、ゆっくりと階段を降りた。
李儒は頭を下げていたが、その目はお母さまの足取りをしっかりと追いかけている。
……ダメだ。これではお母さまの後ろに続いて降りられない。
そう思った時、お母さまが思い出したように言った。
「あ、少し待って。中で手袋を落としてしまったみたい」
「それはそれは。では、どうぞお探しになってください」
そう言って、李儒は一歩だけ後ろに下がる──“今”だ。
私は文姫を軽く引っ張って、素早く馬車から滑り降りた。
李儒の目は、こちらを見ていない。ただ観察するように、じっとお母さまを見つめている。
(小紅さま……私、あの人怖いです……)
震え声で話しかけてくる文姫。
私も同じ感想だ。
でも、それはただあの“容姿”や“話し方”に対して、というわけじゃない。
私の中にある──彼女の“記憶”。
“李儒”──その名前を私は知っている。
演義では“董卓”の知恵袋として描かれていた“男”。
霊帝さまの死後、董卓に悉く“悪逆非道”な献策を行ったとされている。
その最たるものが、歴代皇帝の墓を暴いてから洛陽に火を放っての“長安への遷都”、義理の父親を裏切らせるという最悪の形での“呂布の買収”……そして、時の第十三代皇帝──劉辯の“暗殺”。
私の背を、何か冷たいものが落ちていく。
ただ、演義は所詮“創作”。本来の歴史は“正史”にある。
でも、李儒が“正史”でどのように記録されているのかを私は知らない。実際、目の前にいるのは明らかに“女性”。情報が足らなさすぎる。
この女、敵か? それとも……。
李儒が、お母さまに静かに歩み寄る。
近づいた彼女から仄かに匂うのは、いつかどこかで嗅いだ“白檀”の香り。
背に当たる光の影になった髪色は、どこまでも深い闇を思わせる──“黒”。
「何か……手伝いましょうか?」
全く感情のこもっていないその声が、ただただ私の胸を不安にさせた。
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