神の火を纏う者
深夜十一時四十九分。
東京・永田町、首相官邸地下――国家危機管理センター。
地上からの雑音を完全に遮断した強固な防壁の内側には、葬式のような沈黙が漂っていた。
壁一面に設置されたマルチディスプレイには、日本各地で同時多発的に発生した「魔物災害」の戦況が、赤と黄色の警告灯とともにリアルタイムで投影されている。
だが、作戦室に集まった閣僚や統合幕僚監部の面々が感じていたのは、単なる危機の到来ではなかった。
冷や汗が背筋を伝い、喉の奥がカラカラに乾く。
誰もが、これまでにない「異質な恐怖」を本能的に察知していた。
これまでの魔物災害であれば、自衛隊が誇る近代兵器の暴力――圧倒的な火力によって、被害を出しつつも最終的には勝利できていた。
人類の築き上げた科学の力は、魔物に対して常に優位を保っていたはずだった。
しかし、今夜は違った。
「――木更津駐屯地周辺地区に展開していた第三普通科中隊、全無線、途絶しました!」
通信士官の張り詰めた声が、静まり返った作戦室に響き渡る。
防衛大臣が、弾かれたように席から身を乗り出した。
「木更津だと……!? あそこは首都圏防衛の要石だぞ! 周辺には大型の商業施設も住宅街も密集している。現地部隊の被害、現在の状況は!?」
通信士官は青ざめた唇を血が滲むほどに噛み締め、モニターを見つめたまま、か細い声で答えた。
「……生存者を示すバイタルサイン、すべてロスト。現地部隊は――全滅です。」
室内の温度が数度下がったかのように、空気が凍りついた。
誰も言葉を発しない。
国家の防衛を担う最高幹部たちが、現実を受け入れられずに硬直している。
統合幕僚長は、ただ苦渋に満ちた表情で静かに目を閉じた。
内閣総理大臣が、組んだ両手の上に深く顎を乗せ、地を這うような低い声で命じた。
「現場の記録映像を、メインスクリーンに映せ!」
「了解……映像、出します。」
暗転したスクリーンが切り替わり、ザザッとノイズを伴いながら「現場の真実」を映し出す。
それは、派遣された隊員のヘルメットに装着されたウェアラブルカメラの映像だった。
夜の静寂に包まれた住宅街。街灯の青白い光がアスファルトを照らし、パトカーの赤色灯が虚しく回転している。
避難誘導を行う警察官たちの背後――光すら届かない闇の奥に、それは「浮いて」いた。
人の形を模した、黒い何か。
だが、肉体があるようには見えない。
輪郭が絶えず陽炎のように揺らぎ、霧、煙、あるいは純粋な闇そのものを乱暴にかき混ぜて固めたような存在だった。
「仮称『レイス級』。物理的な実体を持たない、精神生命体に酷似した新種の魔物です。」
統合幕僚長が、押し殺した声で解説を加える。
映像の奥から、現地指揮官の悲痛な叫び声が鼓膜を震わせた。
『撃てッ! 撃ちまくれッ! 射撃開始ッ!』
乾いた銃声が一斉に炸裂した。
八九式小銃による怒涛の一斉射撃。
毎分数百発という速度で放たれた5.56ミリ小銃弾が、夜の闇を無数の曳光弾となって切り裂き、レイス級の身体へと吸い込まれていく。
しかし。
『な……っ、弾が通り抜けてる!?』
『命中してるぞ! 確かに当たっているのに……!』
銃弾は、黒い霧のような身体を完全に透過し、背後のコンクリート塀を虚しく削り取るだけだった。
熱量も、運動エネルギーも、何もかもが「素通り」している。
『馬鹿なッ! 重機関銃はどうした! 撃てッ!』
映像が乱れ、今度は車載の12.7ミリ重機関銃の爆音が轟いた。
肉体を引き裂き、コンクリートすら粉砕する鉄の嵐。しかし、それすらもレイス級の輪郭をわずかに揺らすことすらできない。
対戦車ロケット弾が直撃し、視界を覆うほどの爆炎と熱風が吹き荒れた。
だが、煙の向こうから現れたのは、傷一つ負っていないレイス級の不気味な姿だった。
まるで、存在する世界そのもののが違っているかのようだった。
『退却――いや、うわあああああああッッ!?』
黒い霊体が、すう、と腕らしき影を伸ばした。
瞬間、隊員の喉から血を吐き出すような絶叫が上がる。
レイス級の手が胸元に触れた瞬間、隊員たちは外傷もないまま、まるで魂を抜き取られたかのようにバタバタと崩れ落ちていった者達や。
あらぬ方向へ曲げられ絶命していく者。
ノイズ、絶叫、耳を塞ぎたくなるような骨の砕ける音。
そして、砂嵐。
自動的に切り替わる別部隊の映像も、同じ絶叫と絶望を繰り返すだけだった。
やがてスクリーンは静かに暗転し、室内に元の明かりが戻った。
だが、そこに漂う空気は先ほどよりも遥かに重く、冷たかった。
防衛大臣が、すがるような目で統合幕僚長を見つめる。
「……戦車砲は、どうだった?」
「十数発の榴弾が直撃しましたが、煙を払うことすらできませんでした。」
「地対地ミサイルは?」
「効果なし。完全に透過しました」
「……航空支援による爆撃も、か?」
「はい。精密誘導爆弾による超高温の熱源をもってしても、あの個体を消滅させることは叶いませんでした」
総理が深く息を吐き出し、親指で眉間を強く押さえた。
「つまり、我々は……」
彼の言葉は、作戦室の空気を更に重たくさせた。
「初めて、現代の軍事力のすべてをもってしても、傷一つつけることすらできない敵と遭遇した。そういうことだな?」
統合幕僚長は数秒の沈黙の後、覚悟を決めたように視線をまっすぐ総理に向けた。
「……その認識で、間違いありません。現在の我が国の、いや、人類の持つ通常兵器では、あの『レイス級』を止める術はありません。」
誰も反論できなかった。
国家の誇る最高峰の武力。
血のにじむような訓練を重ねた隊員たち。
数億、数十億円を投じた最先端の兵器群。
それらすべてが、ただの「霧」に完敗したのだ。
その時、危機管理センターの防音扉が乱暴に開かれた。
「新規映像です! 木更津駅前のライブカメラ、および上空の報道ヘリからの中継を繋ぎます!」
全員の視線が、再びスクリーンへと釘付けになる。
映し出されたのは、地獄そのものの縮図だった。
炎上する駅ビルの黒煙が、夜空を汚している。路上には乗り捨てられ、ひしゃげたパトカーや自衛隊の装甲車が転がり、瓦礫と化したアスファルトの上を、十数体ものレイス級がゆらゆらと、獲物を求めて徘徊していた。
そして。
その破壊の嵐のただ中に、一人の影があった。
「……民間人か?」
「なぜ避難していない!」
「まだ子供じゃないか!」
作戦室が騒然となる。
そこに立っていたのは、紺色のブレザーを着た高校生だった。
年齢は十七歳前後。
黒い髪に、細身の体格。
どこにでもいる、ごく普通の、日常の象徴のような少年。
だが、少年は逃げなかった。
それどころか、両手をポケットに突っ込んだまま、十数体のレイス級に向かって静かに歩みを進めたのだ。
レイス級が一斉に「気配」を察知し、その不気味な輪郭を少年に向けた。
獲物を見つけた魔物たちが、滑るような動きで一斉に少年に襲いかかる。
その瞬間だった。
少年の周囲の空気が、熱を帯びて歪んだ。
彼の足元から、パチパチと火の粉が舞い上がる。
それは次の瞬間、深紅の鮮やかな炎へと姿を変え、彼の身体を包み込んだ。
猛烈な熱量が発生しているはずなのに、少年のブレザーは一枚の繊維すら焦げる様子がない。
それどころか、炎は彼を守るオーラのように、優しく、そして神聖に揺らめいていた。
「な……んだ、あれは……?」
防衛大臣が、唖然とした声を漏らす。
少年の背後の虚空。
そこに、光り輝く幾何学模様――巨大な『魔法陣』が展開された。
それは精緻な金細工のように複雑に回転し、周囲の闇を圧倒的な光で塗りつぶしていく。
世界が、朱色に染まる。
レイスたちが一斉に牙を剥き、少年に向かって躍り出た。
少年はポケットからゆっくりと右手を引き抜き、それを天へ掲げ、そして――静かに振り下ろした。
――轟音。
官邸の高性能スピーカーが、ビリビリと音割れを起こすほどの絶叫のような風切り音を放つ。
少年の手から放たれたのは、紅蓮の超巨大な奔流。
それは「火災」などという生易しいものではなかった。
まるで夜空そのものが燃え盛る津波となって押し寄せたかのような、圧倒的な神秘の熱量が、駅前広場をなめ尽くした。
近代兵器のすべてをあざ笑うように透過したレイス級が、その「炎」に触れた瞬間、激しく身悶えした。
『ギ、ギ、ギギヤアアアアアアアアッッッ!!!』
スピーカーから響く、耳を塞ぎたくなるような、魂を直接爪で引っ掻くような絶叫。
初めて、敵が苦痛を感じている。
初めて、こちら側の攻撃が「干渉」している。
「効いて……いる……?」
誰かの呟きが、祈りのように漏れた。
一体。二体。三体。
炎に包まれた黒い霊体は、物質としての体を持たないはずなのに、焼き尽くされ、灰すら残さず、美しい光の粒子となって世界から融解していく。
わずか数秒。
自衛隊の一個中隊を文字通り屠り去った十数体のレイスは、少年が放った一撃によって、跡形もなく消滅していた。
後に残されたのは、静まり返った瓦礫の街と、アスファルトの上でゆらゆらと揺れる、神聖な残り火だけだった。
官邸の国家危機管理センターは、完全な静寂に支配されていた。
統合幕僚長は言葉を失い、防衛大臣は腰を浮かせたまま固まり、職員たちはスクリーンを見つめたまま呼吸を忘れていた。
あまりの超常。
あまりの非現実。
だが、それは今、この東京のすぐ隣で行われた紛れもない事実だった。
「……今のは、何だ?」
総理の、低く掠れた声が静寂を破った。
内閣情報調査室長が、震える手で極秘扱いの赤いファイルを展開し、報告を始める。
「……インターネット上の都市伝説、および一部の未確認報告として処理されていた存在です。『神々より超常の力を授かった者たち』。ネットや当事者の間では――『加護・スキル保持者』と呼ばれています」
「加護、スキル……保持者だと?」
「はい。我々も、震災後の精神的パニックによる集団妄想の類として静観していましたが……どうやら、完全に実在していたようです。」
スクリーンに、内調がデータベースから瞬時に照合した少年のプロファイルが映し出された。
氏名、年齢。近隣の公立高校に通う、ごく普通の二年生。十七歳。
「高校生が……。」
防衛大臣が、まるで信じられないものを見るかのように呟いた。
「我が国が誇る精鋭、一個中隊を瞬く間に壊滅させたあの化け物を……近代兵器の総力を尽くしても傷一つつけられなかった化け物を……たった一人で、それも一撃で消滅させたというのか?」
誰も笑わなかった。
あまりにも圧倒的な現実の前に、沈黙だけが肯定を意味していた。
総理は長い沈黙の後、椅子の背もたれに深く体を預けた。
彼の視線は、まだスクリーンに映る少年の背中に向けられている。
その瞳からは驚愕の色が消え、代わりに、一国の指導者としての冷徹な「覚悟」が宿りつつあった。
「……我々は、認識を根底から改めねばならん!」
総理の言葉に、室内の全員が背筋を伸ばし、その顔を見つめる。
「これはもはや、単なる災害や軍事の問題ではない。国家の在り方、そのものの変革だ!」
誰も反論できなかった。
現代の物理法則を超えた敵が現れ、そして、一個人が国家の総火力を遥かに凌駕する「武力」を持つ時代が始まったのだ。
これまでの社会秩序、法律、防衛概念は、今この瞬間を境に完全に過去のものとなった。
「直ちに法整備を進めろ。加護保持者の登録制度、保護制度、教育制度のガイドラインを最優先で構築する。彼らを社会的に定義し、国家の守護者として迎える土壌を作るんだ!」
「了解しました。直ちに関係各省庁と連携し、特措法の起草に入ります」
官房長官が、緊迫した表情で手元の端末に猛然と入力を開始する。
防衛大臣も、身を乗り出すようにして声を上げた。
「防衛省としても、既存の組織枠組みに捉われない『対魔専門部隊』を緊急創設します! 彼のような加護スキル保持者を中核に据えた、新たな防衛組織を構築しなければ、この国は維持できません!」
総理は即答した。
「認めよう。必要な法改正と予算は、私が責任を持って通す」
作戦室が、新たな時代への第一歩を踏み出すための熱気に包まれる。
総理は、再びスクリーンに視線を戻した。
そこには、自身の引き起こした奇跡に背を向け、燃え盛る残り火を背に、静かに闇の中へと歩み去っていく制服の少年が映っていた。
「……時代が変わる。」
総理がぽつりと呟いたその言葉を、否定する者は誰もいなかった。
今夜、日本は身をもって理解した。
世界を脅かす未知の魔物の恐怖を。
そして、それに対抗し得る「神の力」を持つ者たちが、自分たちの暮らす平穏な世界のすぐ隣で、確かに息を潜めて生きているという事実を。




