09:腐敗と発酵と
『お主、何者だ?』
頭の中に直接響く問いに、私はまだ心臓をバクバクさせながらも、何とか答えた。
「私はルシル。見ての通り、しがないシスター、ううん、料理人よ。あなたこそ、一体何者なの?」
私の問いに、黒猫の金色の瞳が悲しげに揺れる。
彼の心からの声が、今度は重たい響きとなって私の頭に届いた。
『吾輩は、腐敗の魔獣。触れるもの、近づくもの全てを腐らせ、朽ちさせてしまう、呪われた存在だ』
その言葉は、冬の終わりの空気よりも冷たく響いていった。
『吾輩の力は、命を育む自然の摂理とは真逆。ただ破壊と終焉をもたらすだけの、不要なもの。生命は命を終えれば、体は腐って崩壊していく。つまり腐敗とは、死の象徴。だから吾輩は、自ら消えるために食を断っていたのだ。そして死ぬ前に、人間たちの町というものを見てみようとやって来た。この町はどこか懐かしく、惹きつけられたのだ。……倒れてしまったがな』
黒猫は静かに首を振った。
『おぬしの料理は、生まれて初めて美味いと感じたものだった。だが、これ以上は危険だ。吾輩の力が、お主とその素晴らしい料理さえも腐らせてしまう前に……さらばだ、人の子よ』
そう言って、彼は私に背を向けた。その小さな後ろ姿は、長い長い孤独と絶望を物語っているようだった。
彼は、路地の闇に消えようとしていた。
◇
「待って! 待って待って、待ったぁー!」
私の絶叫に、黒猫がびくりと振り返る。
私は目をキラキラ輝かせて(ギラギラしていたかもしれないが、それは置いておく)、満面の笑みで黒猫に追いすがった。
黒猫はビクッとした。尻尾がぱんぱんに膨らんでいる。
「腐敗!? それってつまり『発酵』ってことよね!? すごい、すごすぎるわ! 発酵があれば、お醤油、お味噌、チーズに生ハム、お酒類全般ッ! 何でも作れちゃう! 私のヨーグルト問題が、まさかこんな形で解決するなんて!」
『は……?』
あまりに的外れな反応に、黒猫の思考が完全に停止しているのが、心なしか伝わってくる。
私は彼に駆け寄り、ぎゅっと抱きしめた。彼は一瞬身構えたけれど、私が腐る気配がないことに、さらに混乱しているようだった。
◇
「いい? よく聞いて!」
私は混乱する黒猫を前に、前世の科学知識に基づいた熱弁を振るい始めた。
「『腐敗』も『発酵』も、目に見えない小さな生き物――微生物の働きによる、同じ現象なの!」
人間にとって有害な菌が育てば、食べ物は「腐敗」する。
でも、有益な菌、例えば酵母菌や麹菌、乳酸菌が育てば、食べ物をより美味しく、栄養価の高いものに変える「発酵」になるんだと、私は力説した。
「あなたの力は、その微生物たちの働きをものすごく活発にする力なのよ! どの菌を働かせるか、ちゃんと選んであげれば、腐敗は最高の『発酵』になるの! ヨーグルトだけじゃない、お醤油、お味噌、パン生地、チーズ……。お酒全般も! 全部作り放題じゃない! くぅぅ~っ、夢のようだわ!」
私の言葉を、黒猫は呆然と聞いていた。
自分の呪われた力が、破壊ではなく、新たな価値を生み出す「創造」の力にもなり得る。
その事実は、彼の長い孤独な人生に、初めて差し込んだ希望の光だったのではないかと思う。
『吾輩の力……腐敗と、発酵。目には見えぬほど微細な生き物たち……』
彼は自分の肉球を見下ろして、不思議そうに呟いている。
「実感、掴めそう?」
私が聞けば、彼は目を伏せたまま考え込んでいた。
『……そうだな。言われてみれば、我が魔力は使えば呼応する存在がある。それがまさか、そのような微細の生き物とは想像の外だったが……』
黒猫はつと目を閉じて、天を仰ぎ見た。
なにあれめっちゃかわいい。前世は食べ物を扱う仕事だったから、犬猫はご法度だったのだ。でも本当は猫好きだった。
SNSで人気の犬猫動画、特に猫動画を見るのが、隠れた癒やしだったっけ。
私が至近距離で黒猫を眺めていると、目を開けた彼はぎょっとしていた。かわいい。
『近い近い』
必死で顔を背けている。このツンデレさんめ。
「いいじゃない、別に。それでどう?」
『……理解できた気がする。今、魔力を介して我が力に呼びかけてみた。そうだな……確かにあれらは命だった。ただの破壊ではない、他者の屍を喰らい最期に大地に還すための、命のサイクルの一つだった』
そう言った黒猫の顔は、安らいでいた。
◇
「理論より実践よね! ついてきて!」
私は黒猫を腕に抱いて、自分の城、『割れ鍋亭』へと急いだ。
『まだ腹が減っている。さっきの肉をもう一つ寄越せ』
「はいはい。香味野菜が入ってるけど、猫が食べても大丈夫?」
『馬鹿を言うな。吾輩は猫ではなく、偉大なる腐敗の魔獣だ。我が腹に入れられぬものなど、何もないわ』
というわけで。まずは腹ごしらえと、猫にもう一つケバブサンドを渡す。彼は夢中で平らげた。
『喉が渇いた』
私は絶対倉庫から余っていた山羊乳を取り出して、小皿に入れた。
黒猫は目を細めてぺちゃぺちゃとミルクを舐めている。
『肉も美味いが、これも素朴でいいな』
そんなことを言っている彼を見て、私はひらめいた。
厨房の隅に置いていた、ヨーグルトの失敗作の壺を彼の前に差し出す。ツーンと腐敗臭が辺りに漂った。
「これを、美味しくできる?」
『む? これは今もらった乳と同じものか?』
「うん、そう。山羊のお乳。ここに遊牧民からもらった発酵種――ヨーグルトのもとになる菌が入ったものね。それを入れたら、こんなことになってしまって」
『ふむ……』
黒猫は壺を覗き込んで、鼻にシワを寄せた。
『発酵するための細菌と、山羊乳の成分が噛み合っておらぬな。これでは普通の腐敗と変わらん』
「上手いこと発酵させて、ヨーグルトにしたいの。できる?」
『もちろんだ』
すると彼の体から放たれた金色のオーラが、壺をふわりと包み込んだ。鼻を突く異臭は消えて、爽やかで芳醇な香りが立ち上ったのである。
中身は、とろりとした極上のヨーグルトに変化していた。
「すごい……! 本物の奇跡、本物の魔法だわ!」
黒猫は、自らが作り出したヨーグルトを満足げに舐める。
舐め終えると、前足で口の周りを拭い、満足そうにちょいちょいとヒゲをしごいた。
その愛らしい姿と、奇跡の始まりとなった「乳」を見て、私は閃いた。
「そうだ、あなたの名前、『ラテ』はどう? 『乳』を意味する言葉から取ったの。あなたにぴったりだわ!」
黒猫――ラテは、その名前を呼ばれると、私の目を見上げて小さく「にゃあ」と鳴いた。
孤独だった魔獣は私を認めてくれたようで、足にすりすりと頭をこすりつけてくる。かわいいなこんちくしょう。
こうして私は、最強の発酵マイスターを相棒にしたのだった。




