3.終わりゆく夏の日に
夕方、わたしは小雨ちゃんと共にいつもの眺めの丘にいた。
沈む夕日はたいして見えないけれど、暮れゆく空を共に眺めているだけで、一日の疲れが少しは紛れるような気がするのだ。
今日は疲れた。ここのところ遊んでばかりだったこともあり、異様に疲れてしまった。しかし、おかげさまでだいぶ課題も終わらせられた。小雨ちゃんに至っては、あとは日記くらいのものらしい。めちゃくちゃ羨ましい。問題は真昼ちゃんの方なのだが、まあ、そちらはどうにかなるということで。
(それにしても、あのあと藍は帰ってこなかったようだな)
竜の言葉が頭に響き、わたしの思考はふとそちらに引っ張られた。
そう、その通り。パピ子に呼ばれていったん席を外すと出て行った藍さんは、そのまま戻ってこなかった。代わりに顔を出したのは銀様で、藍さんと同じようにだいぶ疲れているようだった。
何かあったのだろうか。嫌な予感が頭を過ぎる。
(何があったにせよ、今はまだ気配すら感じない。遠い地域の揉め事に駆り出されている可能性もあるか)
思い当たる前例とかあるんですか、レッドドラゴン様。
心の中で問いかけるわたしに竜は答える。
(あるにはある。だが、だいぶ昔の事で忘れてしまった。この地域の天狗どもの勝手もよく分からん。分からん以上は何一つ断言できることはない……のだがね)
軽く目を閉じると、瞼の裏に考え込むドラゴンの姿が浮かんでくる。
しばらく考え込んでから、わたしの中の赤い竜は呟くように言ったのだった。
(我は竜だ。竜には竜の是というものがある。それは人間どもや天狗どもの道理とは異なるだろう。しかしね、今に限っては恐らく我の是と人間ども、そして天狗どもの是は一致する。我は愛着をもった者を喜ばせたいからの)
どういう意味ですか、レッドドラゴン様。
(つまり、相棒となったそなたがこれからも青春を謳歌したいのならば、我はそれを叶えてやらねばならんということだ)
きっぱりとそう言われ、わたしは惚けてしまった。
レッドドラゴン様が、わたしを気遣っている?
(だからこそ、天狗どもの動きは気になってしまう。ようやくこの町が落ち着いたというのに、今度は何を警戒しておるのか……)
その呟きは、わたしの心を不安にさせるに十分すぎた。
息を飲みながらわたしはそっと、隣に立ったまま空を見つめてボーっとしている小雨ちゃんに話しかけた。
「ねえ、小雨ちゃん」
目線の動きがこちらに返答を示すのを確認してから、わたしは続けた。
「最近さ、天狗さんたち何だか忙しそうだよね」
「……そうね」
「なんでだと思う? 市内の何処かで怪獣騒動でもあったのかな……?」
世間話半分、相談半分といった心持だった。
小雨ちゃんも何処となくその不安はあったのだろう。軽く流すわけではなく、きちんとその話題を拾い、真面目に返してくれた。
「ただのハート回収ではなさそうなのは確かね。九尾騒動の時のような事が起こっているのかは分からないけれど」
そう言ってから、小雨ちゃんは溜息を吐き、わたしを真っすぐ見つめてきた。
「この際だから打ち明けるわ。メガセリオンが言っているの。嫌な予感がするのですって。この一か月の間には感じなかったニオイが薄っすら漂っているって。酷い雨が降ってきそうだって。それがどういう意味なのかを聞いても、メガセリオン自身にもうまく説明できないそうなの」
酷い雨が降りそう。
その言葉に首を傾げていると、頭の中でレッドドラゴン様の声が響いた。
(なるほど、我が旧友はそう言っているのか。ならば、間違いない。我の不安も当たりそうだ。うつつを抜かしていられるのは今の内かもしれぬぞ)
なるほど。怪獣たちにはきっと怪獣たちにしか分からない何かがある。
その言葉を無視するなんて、今のわたしにはとても出来ない。
「レッドドラゴン様も言っている。メガセリオンがそう言うのなら、間違いないって」
小雨ちゃんにそう言うと、猫のような目をこちらに向けて深刻な顔をした。
正直、あまり信じたくはない。だって、今日の日まで本当に楽しかったものだから。普通の女子高生として過ごす夏休みはあともうちょっとだけ続く。その間に宿題をすっかり終わらせて、それからはこれまでのように真昼ちゃんのゲーセン通いに付き合わされて辟易していたかった。
「何にせよ、天狗様たちから話があるまでは落ち着いて過ごさないと」
小雨ちゃんの言葉に静かに頷いた──丁度その時、背後より風が吹いてきた。その途端、前にも感じたことのある異様な気配に引っ張られ、とっさに振り返った。小雨ちゃんも同時だった。だが、反応はわたしと段違いだった。共に振り返り、お互いの視界に彼女の姿が移り込んだ瞬間、小雨ちゃんは反射的にメガセリオンの剣を抜いたのだ。
「小雨ちゃん……」
諫めるように声をかけるも、彼女は全く目をそらさずに敵対者だけを見つめていた。わたしの方は情けなくもおろおろしていた。視線は揺らぎ、小雨ちゃんと小雨ちゃんに睨まれる敵対者──透の姿を行き来する。
何も言わず剣だけを向ける小雨ちゃんを見つめ、透は落ち着いた様子で口を開いた。
「相変わらず良い反応だ、小雨。ますますメガセリオンの持つ警戒心が強まってきた頃だろうか。マナはマナでやはりレッドドラゴンの雄大さが強まってきている。君たちは日に日に怪獣らしくなってきている」
わたしは息を飲みながら、そっと小雨ちゃんの表情を窺った。一人ならばうっかり返事をしてしまいそうだったのだが、幸いにも警戒心の強い野良猫のような眼差しで透を睨む友の存在がストッパーになっていた。
そんなわたし達を前に、透はふと笑みを深めた。
「警戒しているね。それもそうか。天子の死からまだ一か月しか経っていない。ああはなりたくないと思ったことだろう。分かるよ。誰だって死は怖い。破滅は怖い。天狗だって怪獣だってそれは同じ」
「そう、分かるの。それなら──」
小雨ちゃんは冷たい声で言い放った。
「今すぐ帰って。あなたと話すことはない」
強い口調にわたしの方がビビってしまった。一方で、透の方は全く動じていない。動じることなんてないのだろう。だって彼女はわたしたちとは比べ物にならないほど、こういう場面に向き合ってきたはずだから。
「良い警戒心だ。それに良い並びだ」
透はそう言って、わたし達に微笑みかけてきた。
「レッドドラゴンとメガセリオン。これまでも世界各地の至る場所で目覚めては封じられてきた。どの時代であろうと、どの地域であろうと、君たちはいつも隣同士にいた。そして、同じような末路を辿ってきた」
目を細め、透は囁く。
「それがどういう意味か分かるね。目覚めた時こそ、君たちはいつも人々の味方になる。天狗、女神、天使、その他あらゆる名称で呼ばれる有翼の戦士たちと共闘してきた。しかし、その時代はいつまでも続かない。君たちが怪獣になってしまった事からも分かるだろう。そのハートには、偉大なる力と共にこれまで怪獣となった人々の嘆きと悲しみが封じられているのだよ」
聞いてはいけない。
そう思いつつも、わたしは耳を塞ぐことが出来ずにいた。
恐らく小雨ちゃんも同じなのだろう。剣を構えてはいるが、追い払うためにそれ以上、踏み出すことが出来ずにいた。
それを良い事に、透はさらに語り続けるのだった。
「君たちが哀れだ。このまま過ごせば間違いなく、同じ末路を辿るだろう。天子の末路を思い出すがいい。天狗たちの──白蓮の態度を思い出すがいい。彼女らにとって怪獣は消耗品だ。天子だってそうだった。そうだと気づいたからこそ、彼女は反旗を翻し、そして始末されるに至ったのだ」
「それは違う……」
小雨ちゃんが言い返そうとするも、歯切れが悪かった。
わたしもまた返答することすら出来なかった。
代わりに何度も自問自答した。
間違っていないはずだ。間違っていなかったはずだ。人間社会に反する怪獣たちと天狗たちが戦わなければ、この町は確実におかしくなってしまう。それは事実だ。
天子が討伐され、九尾が封印されたのも、話し合いが不可能と判断しての事。だから、わたし達がこの戦いで天狗に味方するのも間違っていないはず。
それなのに、どうして間違っているかのように思ってしまうのだろう。
わたしは怖くなった。天狗たちのことではない。この透という人物のことが、だ。
「違う? 何が違う?」
透の問いかけに、小雨ちゃんが口籠る。そんな彼女を庇うように、いや、どちらかといえば追い立てられるようにわたしは口を開いた。
「その話はもう結構です」
きっぱりと、追い返すように、わたしはそう言った。
「少なくとも今のわたしには必要のない話です。だって、わたしはこの世界を壊したくない。壊したいなんていう理由もない。守りたい日常があるから……」
わたしはまだ怪獣になったことを絶望してはいない。
未来はまだまだ輝いて見えるし、天狗たちに逆らう理由なんてものもない。天子の死に揺らぐものはあったとしても、透の問いかけに同調するほどではなかったのだ。
つまり──。
「夏休みが楽しいから、あなたの誘いはいりません」
きっぱりとそう断ると、透は目を細めた。
そして何かを納得したように息を吐くと、そのまま西風と共に消えてしまった。