■64.暗雲低迷。
中国人民解放軍東部戦区空軍による洋上迎撃を潜り抜けた鈍色の弾体――空中発射型巡航ミサイルである4発のAGM-158Dは、上海市上空を通過して無錫市内に至ると、海岸線から百数十km内陸に位置する官民共用空港・蘇南碩放国際空港に突入した。
市街地に発砲音が轟いた。亜音速で迫る弾頭を無力化すべく、3000メートル級滑走路の東側に展開した近距離地対空ミサイルや機関砲が一斉に火を噴いたのだ。当局によって“平穏な日常”を演出するように強いられている人々は、反射的に身をすくめた。国際空港の西方にある小学校では、運動場にいた児童たちが一斉に動きを止め、顔を見合わせた。
「伏せて!」と教師が怒鳴るとともに、約900kgを誇る2発の弾頭は蘇南碩放国際空港の滑走路と、駐機場直上で炸裂した。
……被害はそれだけに留まっていない。
迎撃の近距離ミサイルによって撃破された1発は、火焔の塊になって空港東方にあるショッピングモールに激突した。さらに空中に投げ出されたまま、目標を捉えることが出来なかった機関砲弾――その弾道の終端は高速道路の高架であり、飲食店街であり、新興住宅地であった。破片でも容易に人体を切断しうる機関砲弾が人口密集地に飛び込めば、どうなるかなど著すまでもない。それも1発や2発ではなく、1000発は下らないのだ。
同様の光景が、嘉興官民共用空港(浙江省嘉興市)や大水泊国際空港(山東省威海市)、曲阜空港(山東省済寧市)でも生起した。
アメリカ空海軍は日本列島周辺空域の航空優勢確保を狙い、まず中国人民解放軍北部戦区空軍・東部戦区空軍の航空基地を叩き始めた。このアメリカ軍の狂奔によって南西諸島方面の航空優勢は、自衛隊側に傾いた。
「今宵の虎徹は血に飢えている、といったところか」
「なんすか、それ」
「近藤勇だよ」
「……豹ですけどね」
中国人民解放軍による弾道ミサイル攻撃が止まったことで、九州地方の航空基地の復旧が進み、航空自衛隊第8航空団のF-2A/B戦闘機は戦闘態勢を整えた。早速、東シナ海を遊弋する中国人民解放軍東部戦区海軍の水上艦を打撃することになり、黒豹を部隊マークとする第8飛行隊に白羽の矢が立った。
その一方で、中国人民解放軍東部戦区空軍もまた必死であった。
東シナ海の航空優勢がなければ、アメリカ軍は南西諸島という名の“回廊”を渡り、容易に台湾本島東海岸に上陸するであろう。
幸い、空軍が有するH-6爆撃機隊は江蘇省南京市や安徽省安慶市など、海岸線から数百km離れた航空基地に配備されているためほとんど無傷であり、これを巡航ミサイル・キャリアーとすることが可能だった。
またアメリカ空海軍といえども、大陸沿岸部に数多く設けられた官民共用空港を一気に叩き潰すのは無理な問題である。航空攻撃を免れた、あるいは損害軽微につき即座に復旧できた航空基地から戦闘機部隊を出撃させ、迎撃戦をやらせることに決めた。
しかしながらこの段になると、もう中国人民解放軍空軍の航空作戦はほとんどうまくいかなくなっていた。緒戦とは立場が逆転している。中国人民解放軍空軍は航空基地を打撃されたことで、作戦機数が局限されている。東シナ海にはアメリカ軍の電子戦機と早期警戒機が進出し、あらゆる空域にF-22A戦闘機、あるいはF-35戦闘機が浸透している可能性があった。
自軍に不利な電波の海と戦場の霧に飛び込んでいく戦闘機部隊は、1機、また1機と被撃墜機を増やしていき、少しずつ溶けていく――。
急速な戦況悪化に動揺した中国共産党首脳陣は、アメリカ軍の台湾本島入りは近いと判断。ようやく澎湖諸島の占領に成功したばかりの中国人民解放軍東部戦区共同作戦司令部に対し、台湾本島強襲上陸を急ぐように指示を下した。
その同日――与那国空港を固守していた蔡谷秋海軍中尉が指揮する与那国島攻略部隊は、陸上自衛隊第22即応機動連隊に降伏した。
「負傷者の後送はともかく、武器弾薬や食料の補給さえ続かないなら負け戦じゃないか……」
ついに蔡谷秋海軍中尉が音を上げたのだった。
与那国島攻略部隊の士卒は航空爆弾や迫撃砲弾で一方的に打撃され、遮蔽物から一歩外に出れば狙撃されるような絶望的状況においてもよく耐え忍んだ。1時間後には、1日後には、増援がくると信じていた。信じたまま、死んでいった。
蔡谷秋海軍中尉はその光景に耐えられず、その“信仰”を断ち切り、部下たちの生命を守ることに決めたのである。
中国側の降伏の申し入れを第22即応機動連隊の隊長、志生野克己一等陸佐は受け容れた。
中国兵の武装は速やかに解除され、武器はすべて与那国島空港の一角に集められた。
「誠に申し訳ないのですが……」
と、蔡谷秋海軍中尉は降伏に際しては、日本側にひとつだけ条件を提示していた。
武装解除後の遺体の収容と、遺品の回収がそれである。中国兵らは自衛隊員の監視の下、与那国空港周辺における戦死者の氏名・身元の確認や、遺品の収集を行った。
現役兵の多くは一人っ子政策下である90年代の出生だ。子どもが何人いようとも、子を失う親の悲歎が変わることはないだろう。が、それでも“一人っ子”が失われることは――。
(……)
蔡谷秋海軍中尉は党が、事の重大さを理解してくれていることだけを願っていた。




