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■59.地獄半島。(中)

 中華人民共和国の威信と政経の核心、北京市といえども戦時色を切り離すことは出来ていない。

 どこか靄がかかったようにみえる空を、ジェット戦闘機が渡っていく。

 常に北京市上空は、第21航空旅団(北京市延慶区)と第70航空旅団(河北省唐山市)のJ-10C戦闘機、そして1機以上の早期警戒機によって守られていた。また郊外には対弾道弾迎撃能力を有する、S-400地対空ミサイルシステムが展開している。その他にも市街地の至るところで、中距離地対空ミサイルシステムをはじめとした軍用車輛を見ることが出来た。

 中国側が用意した黒塗りの高級車から降り、再び北京の地に足をつけた李恵姫は、排気ガスと暑気が入り混じった空気を一呼吸して眉をひそめた。目の前にそびえる白を基調とした滞在用高級ホテルを睨みつけ、舌打ちさえしてみせる。


「不愉快だ」


 彼女に付き従う護衛司令部関係者はそれを北京市の空気が悪いせいだ、と解釈した。

 が、実際には違っている。

 後続車輛から降り立った朝鮮人民軍総参謀長の辛光は、李恵姫の傍らに歩み寄ると「これから待っているのは、会談ではなく指示ですな」と低い声で言った。この後の展開を予見している。


――日本政府への脅迫と、東京への核攻撃。


 おそらくそれが、中国共産党首脳陣の指示であろう。

 余人が聞けば荒唐無稽に思うかもしれないが、戦争に踏み切った狂人どもからすれば妥当性はある。もしも今後、膠着した現状を打開するために、まず脆弱な一陣営を脱落させようと考えるのであれば、それは日本国だろう――と中国共産党首脳陣は考えているだろう、と辛光は想像している。

 実際のところ、多くの日本国民にとってこの戦争は、国家の存亡が脅かされているものではなく、中朝台韓米ら周辺国によって半ば巻き込まれた戦争にすぎない。であるから、核攻撃をちらつかせて、あるいはこれ以上の継戦を望むのであればこうなるのだ、という“現実”をみせつけてやることで、いまは朝鮮半島への自衛隊派遣と対中戦を支持する世論が再び大きく動くのではないかと期待を抱く――というのは、辛光でも想像できる筋書きだ。

 そして、朝鮮人民軍はそれが可能なだけの弾道ミサイル技術、核技術の供与を受けている。


(危険な賭けだ――)


 自分の推理が当たっていたとしてそんなにうまくいくものか、と辛光は思う。

 東京被曝によって日本国民が狂奔きょうほんするという事態も十分考えられるではないか。

 が、しかし、すぐに辛光は疑念を払拭ふっしょくした。

 日本国民の反応など、至極どうでもいい。

 彼は特に秀でた能力もない、李恵姫の願望を知った上で彼女に忠誠を誓っている、その一点でのみ朝鮮人民軍総参謀長を任されている人間であった。


 翌日、北京市『中南海』の某所にて中国共産党首脳陣と、李恵姫と朝鮮人民軍高官らは対面した。

 両者はどこまでも対照的にみえた。


(この余裕は、なんだ――?)


 会談に立ち会った孫徳荘国防部部長は疑問を抱いた。

 華鉄一が増大する死傷者数を前に苦しむ一方、白を基調としたスーツを着用した李恵姫はどこか清々しい表情とたたずまいで、まるでこの世の苦悩から切り離されたような雰囲気さえあった。


(韓国軍の頑強な抵抗、アメリカ軍の熾烈な航空攻撃と核報復による損害など、彼女は織り込み済み、というわけか?)


 まさかそんなわけがない、と常識人の孫徳荘は思う。国家と民族の興亡に臨む最高指導者が、国土を猛爆されて平気でいられるはずがない。平静を演じているとしか、思えなかった。


 会談は中国側の要求から始まった。

 辛光の予想はほとんど当たっていた。違っていたのは標的である。東京都心が被曝し、日本政府の機能が麻痺することがあれば、迅速な交渉が出来なくなる。そのため中国共産党首脳陣は自衛隊基地への核攻撃を求めた。


 その瞬間、辛光の心に僅かに生き残っている良識のひとかけらが、他人に手を汚させておいて、自らは核報復を避けようとする中国共産党首脳陣への憤りを叫んだ。

 が、核攻撃。

 彼女と彼女の手足である朝鮮人民軍の前進は限界を迎え、通常兵器による殺戮が概ね終わった現在いま、それが李恵姫の望みであると辛光は知っている。


 辛光の親族は、前体制によって粛清されていた。


◇◆◇


 その翌日、朝鮮人民軍ロケット戦略軍は次なる命令に備え始めていた。

 朝鮮人民軍ロケット戦略軍にとって――否、朝鮮民主主義人民共和国のすべてにおいて、李恵姫や辛光ら李恵姫の腹心たちの命令は絶対である。

 隠匿された陣地の中で、3段式ロケットエンジンを有する長大な大陸間弾道弾を搭載した車輛の確認作業が行われている。弾頭は強化原爆3発を搭載する多弾頭型。中国人民解放軍のDF-31Aに酷似したそれは、いま朝鮮半島に破滅を呼びこもうとしていた。


 中朝国境に近いエリアでの朝鮮人民軍ロケット戦略軍の動きを掴めたのは、中国人民解放軍のみだったが、当然彼らはそれを不審には思わなかった。

 会談の結果を踏まえて、朝鮮人民軍ロケット戦略軍は、日本国内の自衛隊基地を標的とした核攻撃を実施するはずだったからだ。


 しかしながら、恵姫は未来を失った少女で、平凡な家庭を持ちたかった指導者で、自由を奪われた復讐鬼だったから、自衛隊基地になんてこれっぽちも興味がなかった。自衛隊基地を核攻撃したところで、アメリカ軍はそれと同等の核報復しか“してくれない”。だから自衛隊基地には意味がない。彼女は存在価値がひとっかけらもない腐臭放つ体制を吹き飛ばし、虚栄の塊でしかない平壌ゴモラを吹き飛ばしたいのだ。否、平壌だけではない。彼女は狂人だったから、分別ある大人と、癇癪をもつ幼児の精神を両立させていた。だから自らの憤怒を示すために、この朝鮮半島を破壊し尽くしたかった。自分のことをからかい、ときには勝手に憎悪する人々を皆殺しにしたかった。生まれながらにして自身を“李一族”というたがに嵌めた人々を皆殺しにしたかった。罪のない赤子は、罪を犯さないままに消滅するべきで、無邪気な子供たちは、邪な気持ちを持たないまま消滅するべきで、自由な若者たちは、自由のまま消滅するべきであった。自身を大人たちが呪詛する言語を破壊したかった。自分が苦しむ環境を生み出した土壌と民族を破壊したかった。


 だから朝鮮人民軍ロケット軍が発射する大陸間弾道弾の終着点は、自衛隊基地ではない。

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