37 変化
焔さんの体調は、あの後崩れることもなく平穏無事を維持していた。
あの日以来、私たちの関係はまた少しだけ変わったように思う。
「蛍」
「はい?」
「散歩に行く。ついてくるか?」
焔さんは、私を探して、私に声をかけるようになってきた。
そしてそれは逆も然りで。
「焔さん」
「どうした?」
「庭の石蕗、こーんな大きいのがあったんですけど、見に来ませんか?」
ささやかなことなのに、なんとなく、そのささやかを共有したくなったりなんかして。
気づいたら焔さんを探して、焔さんに声をかけるようになっていった。
この変化の意味を、私はまだ知らない。
けれど、悪くないとだけ、思うのだ。
また、別の方面でも変化がある。
「じゃあ、焔さんは定期的に山の状態を殿様に報告するのがお仕事なんですか?」
「山の怪や小鬼が増えるようなら、間引くのも仕事だが…。滅多にそんな機会はない。主に、外国からの侵入者や国抜けの方が問題視される」
「くにぬけ?」
「許可なく山を越え、外国へ向かおうとする者たちのことだ」
「へぇー」
焔さんの仕事や生き方を、少しずつ見聞きして、体験を交えて理解する。
如何に自分が周囲に興味がなかったのかが浮き彫りになって、毎日のように恥の上塗りを更新し続けているわけだが。まああれだ。菊は一時の恥、聞かぬは一生の恥、だ。菊じゃねえよ、聞くだよ。
多くのことを許容という名の無関心で過ごしてきたのは認める。が、自分がこんなに無知だとはちょっと思わなかった。
自分の認識の甘さを、これでもかと痛感している。
そんな私に呆れることなく付き合ってくれる焔さんは、やっぱりいいヒトだ。
そんなふうに過ごしているうちに、いつの間にか季節を跨いでいた。
私がここに嫁いだのは炎の月。初夏だ。だが、まもなく夏がやってきた。
山の夏は過ごしやすく、麓にいた時よりも快適だった。だが、山の夏は短い。
日が暮れるのが早くなりだすと、途端に風が冷たくなって、草木は紅葉を見せるようになった。
ひゅうと吹き荒ぶ風の音が鋭くなってきたらもう、寒さに震える朝が来る。
「……」
珍しく私の自室までやってきた焔さんが、私を見て目を丸くしている。
焔さんはあまり表情が変わらない。だから、割と珍しくわかりやすい変化だった。
「どうしました?」
用事があって来たはずの焔さんが沈黙を守っているものだから、こちらの方から話しかける。
そんなささいなことが、当たり前にできるようになってきた。これはきっと、良い変化だと思う。
焔さんはかすかに困ったように眉を下げて、いや、と言い淀む。
彼は存外考え過ぎる節がある。そのため、言葉を飲み込むのは良くあることだ。
が、ここで飲まれてしまうと何のためにここに訪れたのかという話になってしまうので、できれば話すことを整理してからこちらに来て欲しいと思う。
「さむい、のか?」
一拍遅れて、おずおずと問われる。
寒いか寒くないかと問われればまあそこそこ寒いが、何をそんなに気遣わしげになるのだろうか。
なんだか腑に落ちないものを感じつつ、「そこそこ」と答えると、焔さんの眉間にきゅっと皺がよった。
…なんでよ。思わず慄く。焔さんて、表情ひとつで簡単に迫力が変わるのだ。
「…」
無言で部屋を出て行ってしまった。なんだったのよ。
首を傾げながら、定期的に書いている実家への手紙の続きを書こうと向き直る。
ちなみに、返事が来たことはない。
焔さんの話では、間違いなく実家に届いているらしい。
が、一般の人間が仮にも『神』の名を冠する一族に、容易く手紙は出せないんだとか。
なんでよ。もう親族でしょ。私は嫁だぞ。嫁の実家ぞ。
と、駄々をこねても焔さんが困るだけなので押し黙ることとして、返事は早々に諦めている。
まあそもそも、私は嫁という名の生贄ですので、私の実家と焔さんの家との繋がりは無いことになるのだとか。
もういいよ。おっけおっけ。了解です。
とはいえ、生存報告と「楽しくやってるので気にすんな」という旨を伝えたいので。あと、まあ、日記の延長のようなもので。
気づけば定期的に両親へ手紙を書くのが楽しみになっているのだ。
…考えてみれば、私は嫁として仕事が何一つないのだから、暇をもてあませば筆も進むというものだ。
「そら」
焔さんの声と共に、背中がふんわりと暖かい。
お? と顔を上げれば、眉根を寄せた焔さんのお顔が。だから、そのお顔は迫力が増すんですよ、旦那様。
背中にかけられたのは焔さんがよく来ている羽織だ。
「…あったかい…」
「冷えは大敵だろう。ちゃんと暖かくしておけ」
「ありがとうございます、なんだかすみません」
思わず恐縮してしまえば、焔さんは鼻で笑う。
気安くなったからか、気持ち私の扱いが雑になたような気がする。
違うか。気安くなったから、焔さんのよそ行きの表情が、どんどん剥がれてきているのだ。
実際、焔さんが私の扱いをぞんざいにしたことはない。今だって、こうやってわざわざ羽織をくれたのだし。
季節をひとつ跨いでなお、私は彼のことをほとんど知らないままだ。…逆もまた、然りなんだろうか。
「鼻の頭と、頬が赤くなっていたからな。一瞬、風邪かと思うた」
「あぁ、それで…」
あの顔は私が風邪を引いたかと思って驚いていたのか。納得。
と、いうか。
「何かご用事があったのでは?」
「ああ。領主への書簡を書いていたのだが、墨がなくなってな。蛍のところに余ってないかと相談に来た」
「あらやだたいへん」
とても大変とは思えない口調でのんびり墨のストックを探す。
頻回に文を綴る焔さんと違い、私はたまの手紙くらいにしか使わない。
なのに、加減がわからない焔さんはまだ、多めに墨をくれるのだ。
「これでよければ…」
「すまない、助かる」
「足りますか?」
「ああ。霜の月の頭のうちに、補充が来る」
霜の月は来月だ。そして今は月半ば。
「まだ彩木の月は半月も残ってますよ」
「ああ。だが、何とかなるだろう」
楽天的な返答が返ってきた。
まあ、焔さんが言うならそうなんだろうと結論づけて、それ以上は聞かないこととした。
墨を持つ私の手ごと、焔さんがつかむ。
あ。と、情けない声が漏れた。
これも、変わったことかもしれない。
目を丸くして驚く隙に、焔さんの指がするりと私の手を撫でて離れる。器用に墨の壺だけ持っていく。
こそばゆさに、いつもどんな顔をしていいか悩む。
ほんの数秒にも満たないふれあいで、私の心臓は飛び跳ねてしまう。
焔さんが、私に触れる機会が増えた。
といっても、ほんの些細なことばかりだ。
指先が少し触れる程度とか、顔の横にかかる髪を耳にかけてくれたりだとか。
こうして、ものの受け渡しの際に、ついでのように撫でられたり、とか。
…。普通に、照れる。
自慢じゃ無いが、こういうことは前世を含めても経験がないのだ。つまり、耐性もない。
焔さんのそういう方向の経験や過去などを聞いたことはないが、あのヒトはどことなく余裕そうというか、手慣れているというか…。頭を抱えたくなる。
それでいて床入りは(当然)まだだ。…まだというか、やる気は多分ない。と思っている。私は。
うーん。そっちも嫁のお勤めのような気がしないでもないが、正直そういうことは恋愛以上に未知なので、さっぱりぽかんなのである。
つまり、お手上げ状態で放置している。焔さんがそういうことを仄めかしたり、求めたりしてこないのをいいことに、全力で見ないふりをしている。
…嫁というより、娘としてここに来たのではないだろうか…。と、割とマジで思う。
「蛍」
「あ、はぇぁ」
間抜けな声が出た。間抜けすぎる声だ。焔さんが目の前にいたのに、ぼうっとしていたのが悪いのだろう。いや、悪いとは思う。いや、違う。ちょっとまて。
焔さんの影が降りて来て、視界がぼやけて、焔さんの息遣いを、近くに、ふに、と、やわい感触が唇をかすめて、離れていくご尊顔が見えて初めて、視界がぼけた理由に気がついて。ちがう。なに。は?
離れていった焔さんの目が、目が。どろりと溶けて、 。
思考停止。




