1 鬼嫁になるんです?
鬼嫁 (おに-よめ)
鬼のように怖い嫁。夫にとって恐ろしい嫁。
残酷で無慈悲な嫁を指す言葉。
脳内の限りある辞書を引っ張り出して反芻する。
そして、目の前に座る男女を見る。
2人とも壮年といったところか。よく手入れされている黒髪には白いものが混ざるが、それは2人の生きた時間の長さをそのまま表したようだった。
隙のないきっちりとした服装は、親しんでいたというより忘却に近かった和装。
黒に近いこげ茶の目が、申し訳なさそうに伏せられている。
前世の記憶というモノを、中途半端に何となく抱えて生まれたのがもう19年前。
おぎゃあと泣いたその時から、いや、それよりももっと前から、私のそばにいてくれた人たち。
「今、なんと…?」
か細くなった声は私のものだ。
縋り付くような心細さがそのまま現れた。
いつもなら飛んできたかもしれない説教はなく、目の前の夫婦は膝に置いた己の両手を固く握った。
普段から弱みを見せることを嫌った母が、痛みに耐えるかのように下唇を噛んで、さらに目を伏せた。
優しくても厳格な父が、心を鎮めるかのように、長くて細い息をついた。
「おまえが、鬼嫁となるのだ」
絞り出された父の声は低かったが、しっかりとしていた。
硬質な声は感情を押し殺したまま、私の耳朶に触れる。
目の前の両親が胸を痛めている事はこれでもかと言うほど伝わってくる。
一方で私ときたら、その言葉の真意が分からぬまま、静かに呆けているのだから始末が悪い。
「おによめ、ですか…」
どういうことなの…。
困惑のままに呟いた言葉をどうとったのか、母がぐすりと鼻を鳴らした。
え、なんで鬼嫁? ならなきゃならんもんか?
第一私には彼氏も彼女も恋人も婚約者も許婚もいない。
いきなり神妙な顔で「大切な話がある」とか言われて呼び出されて言われたのが「鬼嫁になれ」とは…。
話の流れがサッパリ見えない私はどこかおかしいのだろうか?
19年より前にサヨナラグッバイした世界は、平和の皮をかぶった混沌とした社会だった。
それを地球と呼ぶべきか日本と呼ぶべきかはわからない。
星に名前はついていても、世界そのものには名前なんて無かった。
そこでの記憶を中途半端に断片的に、ひどく適当に持ったまま、19年前にコンニチハナイストゥーミートユーしたのがこの世界。
前世ではモンスターと呼ばれた生き物が、動物という名で生きていて、前世ではファンタジーと呼べる摂理が、事実として息づいている世界。
やはり世界そのものに名前なんてないけれど、ムトンと呼ばれる星の、ニブフイエという国。
そこで私は生まれて、今現在を生きている。
名前はともかくこの国は、日本に近い習慣と歴史を持っていて、中途半端とはいえ前世の記憶を持った私には馴染みのある国だった。
この世界には国同士の諍いーーつまりは戦争なんてものはなく、そのかわりのように魔物と呼ばれる生き物との生存競争がある。
魔物と動物の違いは、一口に言えば魔を宿すか否かであり、有り体に言ってしまえば、魔力を持つか否かできまる。
魔。それは前世の科学ではきっと説明できないこの世界のエネルギー。
炎、水、大地など、属性が存在し、力として発現されるまでは大気に溶け込んでいたりする。という。
全ての生き物が持っているわけではなく、だからこそ魔物と動物に分類される訳だ。
ちなみに人類はほんの一部を除いて魔を持つ事はなく、ほんの一部を除いて動物に分類される。
もちろん除かれる人類は分類学上は魔物となる。
私も当然というべきか、魔というものとは縁がない。しっかり動物である。
異世界チートなど存在しなかった。はっはっは。
魔物と動物、人類と動物の組み合わせは特に難がないのに、魔物と人類は馬が合わないのだ。
いや、目が合うどころか見かけるだけで殺しにかかってくる魔物を馬が合わないの一言で片付けていいかどうかはわからないが。
同じ大地を踏むモノ同士、どうにか折り合いがつけばいいが、彼らと意思疎通できたという試しはなく、また彼らの一部は人類を餌にするというのだから、生存競争になるのは最早必然かもしれない。
けれど、動物が全て同じ習性を持たないのと同じように、魔物も様々いる。
人間に危害を加えないモノは大人しければペットや家畜、どうかすれば伴侶となることさえある。
そういうことを考慮するなら、魔物との生存競争というのは語弊があり、より正確に表現するなら『一部の魔物とほぼ全人類(+α)との生存競争』というべきだろう。
いや、話が脱線している気がする。
兎にも角にも、中途半端に前世の記憶なんかあって、中途半端に前世に近い習慣の中で生きていても、結局中途半端なので、この世界に生きている人たちと根本的にズレてることがある。ということが言いたいのだ。
目の前で断腸の思いだと言わんばかりの両親の表情を見るに、今回もそのパターンなんじゃないかと内心冷や冷やする。
え、でも、この世界には小鬼や大鬼はいるけど、鬼はいない(はずだ)し、小鬼も大鬼も人間の女を娶るというのは聞いたことがない。
なら、ある意味では言葉通りになるだろう鬼の嫁というのも違うだろう…。
そうすると私には何一つ該当する事柄もなく、そうなればやはり、当初私が感じた通り、鬼のような嫁になれ、ということなのだろうか?
…………。さっぱりわからない。
長く重々しい沈黙ののち、ようやっと私は口を開いた。
「ワカリマシタ」
全然全く一個も解ってないのだが、怒るとそれこそ鬼より恐ろしいだろう両親を思えば、私に『意味を問う』という選択肢はなかった。
静かに肩を落とす両親を見て、それが哀しみや諦めの篭ったものだと察して、そこで初めて『断る』という選択肢を思いついた。が、それは全て後の祭りだ。
私が嫌だと言えば、もしかしたら両親が憂う『鬼嫁』などにならずに済んだかも知れないのに。
両親は厳しいが、とても優しい。
私に関わる両親の行動は、全部私を想っての物だ。
だからきっと、彼らのこの悲しげな顔と仕草、声は、私を想えば、了解しない方がいいということを物語っていた。
だって考えてみれば、鬼嫁なんてどんな意味があるにせよ、響きからしてよろしくない。
だのに、私ときたら後先考えずに、しかもコトの重大さなど1ミリも解らないくせに、ワカリマシタとか言っちゃって…。ああ、祭りだ。全く後の祭りだ。
ああ、確か前世にこんな諺があったなぁ…。
聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥。
「…式は炎の月の二週目の火日になるわ」
母が震える声で言った。
え? しき? 何の??
とは今更聞けず、思わず瞬き一つ。あぁ、恥が上塗りされていく…。
炎の月は来月だ。暦は前世と大差なく、呼び方だけが違った。
ちなみに今日は樹の月の最終の星の日だ。
…え、明日の火の日が炎の月の一週目の火の日になるから…。…ややこしいな。
……来週じゃん。
「…支度などはどうしたら…?」
ぼかしながら何をすればいいか尋ねたら、母はついにほろりと涙をこぼした。
え、まさかとは思うけど鬼嫁ってイケニエとかそういうのだったりします?
唐突な思いつきに血の気が引く。
もしそうだったら、ちょっと……どうしよう…。
今更どうしようもないだろうが、思わず縋るように両親を見た。
「支度は全てあちらがしてくれます。貴女は何もしなくて良いそうよ…」
母は再び震える声で答えてくれた。
それは大変ありがたいけど、あちらってどちら?
「当日まではいつも通り過ごしなさい」
父の声は冷たかった。
私の視線を振り払うように立ち上がった父は、そのまま一瞥もくれないまま部屋から出て行った。
え、寂しい…とか思う歳は過ぎたけど、流石に不安が募る。
「学校へは私から連絡します。父さんは当日までと言ったけど、今週末で自主退学とするわ。いいわね?」
この世界では20歳までが教育期間だ。
正確には16歳までが義務教育で、17歳から20歳までの人間が通うのが高等学校と呼ばれ、より専門的な知識や高度な教養を身につける。
多くの人が16歳までの義務教育で就学を終え、高等学校に通うのは暇な金持ちか専門家を目指す者か変人だと言われている。
私は植物学の専攻の為に、高等学校に進学していた。
だが、どうやら残りわずかだった青春さえ謳歌できないらしい。
というか、そんなに切羽詰まったスケジュールがあるなら、私が嫌がろうが喜ぼうが結果は同じだったってコトでは?
遠い目をしそうになるのを堪えながら、「はい」と物分かりの良い娘のように返事をした。
母はそれ以上の涙を見せず、静かに退室した。
結局、鬼嫁の意味するところは解らないままだ。
毎日更新とはいきませんが、頑張りたいと思います…。