第十一話
それからオクタヴィアンは幾つかのことを知った。
伯爵令嬢たるソフィアが姿を消したこと。セレッソ伯爵はそのことを言及するつもりはなく、探すつもりもないこと。
ソフィア・コントゥート・セレッソという存在がいなくなったこと。ソフィアの身分がセレッソ伯爵令嬢ではなくなったことで、繰り上げて嫡子には彼女の五つ下の妹であるルクレツィアがなること。伯爵家の後継も予定していたようにソフィアの子ではなく、彼女自身がなるのだとも聞いた。
その時初めて、オクタヴィアンはソフィアが伯爵夫人の子ではないことを聞いた。どこかそれを納得することもできた。だから彼女は家族に遠慮していたのだろう、と。
そんな話を耳にしたらしい者には、「純粋な貴族ではない彼女を娶らず済んで良かったな」などと遠回しに言われもした。
けれどそれがなんだというのだろうか。
オクタヴィアンはソフィアがソフィアらしく隣にいてくれるだけで良かった。それだけで何もいらないはずだった。けれどソフィアがいなくなる原因を作ったのは自分。オクタヴィアンは己を責め、そして打ちのめされた。
それ故にオクタヴィアンはソフィアを探すことすらできないまま、屋敷に篭った。オクタヴィアンは自分の犯した罪が誰かに知られることにただ怖かったのだ。
けれどそれからどれだけの日が経とうと、オクタヴィアンの罪は誰の口にも乗らなかった。
勿論ソフィアの最後の姿を見たのがオクタヴィアンであることは知られていた。だが、彼女の出自と、あまりにも普段とは違うオクタヴィアンの憔悴ぶりにそれが違うのだと周囲は認識された。好いた女に逃げられた男などと囁かれもしていた。
日が経つごとに周囲は醜聞を立てた伯爵令嬢よりも、別のことに興味を移し、次第にソフィアの噂は誰の口にも乗らなくなった。そうしてオクタヴィアンの隣からいなくなったソフィアの痕跡は次第に消えて行ったのだ。
誰も語らなくなったそれをつい昨日のことのように心に留め置くのはオクタヴィアンだけ。己の罪に囚われたオクタヴィアンは目指していた次期宰相への道ではなく、騎士の道を歩み始めた。
いつだって隣にいた存在をなくし、何も手につかないほど憔悴したオクタヴィアンにできたのは、己の未来を決め直すことだけ。
一人屋敷に篭る中、自分は死ぬべきかもしれないとも考えた。だがそれを実行できるだけの勇気もなかった。罪を犯した自分を、自分で罰することも罪になる気がして、これ以上の罪を犯すことに躊躇したのだ。だからこれまでとは真逆の道を歩もうと決めた。
漫然と日々を過ごすのではなく、夢見ていたもの全てを投げ打って自らを痛めつけることで多少なりとも罪が雪がれるのではないかと期待したところもある。いつだってオクタヴィアンの心にはあの時の光景が焼きついたままであったが。
オクタヴィアンはただ怖かった。
己の罪は自覚しているが、それを白日の下に晒すことが。
誰かに非難されることが怖かったのではない。罪が知られ、ソフィアが戻れなくなることが怖かった。
もう自分の隣に彼女が現れないだろうことは理解していた。だが、それでももし彼女がこの国に戻ったその時に証明できるようにしたかった。その身が清いままであることを、彼女に瑕疵はないのだということを。
彼女を穢した自分がなにを思っているのかとは考えたが、それでもオクタヴィアンはこの国、アウローラにソフィアがいることを願った。
願うだけで行動を起こさないオクタヴィアンに、イヴァンやナタニエルは歯噛みしているようで、何度も彼女の話をされたこともある。探すべきだと詰め寄られたことも。けれどセレッソ伯爵が探さないものを、ただ幼馴染であるだけだったオクタヴィアンが大っぴらに探せるわけもない。それが王太子の言葉であったのだとしても。
それにあれほどオクタヴィアンが痛めつけたソフィアが一人で国を出られるはずがない。きっと誰かの手を借りたはず。そう思えばよりいっそうオクタヴィアンは動けなくなった。
巷に溢れる噂ではソフィアは貴族ではない誰かと恋仲になり、出奔したのだというものもあった。それはソフィアの隣に誰かが立っているかもしれない可能性を示唆しているようにしか思えない。
オクタヴィアンにとって息のつけるソフィアの隣が、自分だけのものではなかったのかもしれない。そんな可能性の真実を知りたくなかったことも理由の一つだ。
ソフィアの隣は自分だけのものだなど、今更言えやしない。けれど嫌だった。ソフィアが自分の特別であることは、どれほど悩み、忘れようとしても変わらないことであったから。
心の底ではソフィアを求めながらもそれを認めず、オクタヴィアンは宰相ではなく騎士となるべく、その身を痛めつけ続けた。その鍛錬が過酷なものになるごとに、オクタヴィアンは人を寄せつけぬようになった。
ただソフィア以外の隣に立つことが嫌で堪らなかった。誰かが隣に立てば、余計にソフィアがいないことを思い知らされる。それは己の罪を薄めさせる行為としか思えなかったのだ。
そうして昔以上に無表情になり、昔以上に人を遠ざける。そんな彼に近づくのはイヴァンやナタニエルくらいになった。できるのならばその二人とも疎遠になりたかったが、それはできなかった。騎士になることにはしたが、主と従うべきはナタニエルである。そして宰相を目指さなくなったオクタヴィアンの代わりに、イヴァンがそれを目指した。そんな二人を無碍にできるはずもない。
けれどその二人にすら自分から近づこうとは思えなかった。何故なら彼らは幼馴染である。彼らとの会話の端々には、ソフィアを思い出すものが散りばめられているのだ。彼女を思い出し平静を保てる自信がなかった。
そうして独りでいることに何の躊躇いもない、はずであったオクタヴィアンの心には大きな穴が空いていた。その穴を埋めるものがなんであるかはわかっていたが、それを求めることはできない。だからこそ、忘れるためにより厳しい鍛錬を行ったオクタヴィアンはある日倒れた。
当たり前だろう。
夜もさして眠らず、食事も満足に摂らず、ただ体を酷使する。魔力を持つ者が、持たざる者よりも強靭であるとはいえ、人であることは変わらない。まして成人して間もないオクタヴィアンは、元々体を常に動かすような子供でもなかった。体力は元より、魔力も枯渇する勢いで使い潰したのだ。
そうして倒れたオクタヴィアンは、夢を霞ませるための鍛錬もできぬまま、寝台で一人心の穴を埋める存在を求めた。
体が弱れば、その分心も弱るのだろうか。狂おしいほど求めるものの名を呼べぬまま、夢に魘される日々。次第に夢と現の区別もつかなくなったオクタヴィアンの元にイヴァンが現れた。
それまでオクタヴィアンが見たことのない、気遣わしげな表情で自分を見るイヴァン。そんな彼もまた、夢の中の住人なのだろうかとオクタヴィアンは彼をぼんやりと見た。
「これはオクタヴィアン、君のものです」
そう言って差し出されたのは、手のひらに収まる小さな石。
複雑な模様を描くその石が孔雀石であることは知っていたが、それが自分のものでないことも理解していた。
「知らないよ、こんな石」
「いいえ、これは君のもの。ソフィアからオクタヴィアンに渡して欲しいと頼まれていた、君の誕生の祝いに用意した魔石です。セレッソ伯爵領で算出される最高級の魔石を、彼女の魔力で磨き上げた品──この意味はわかりますか?」
「──知らない……。僕は何も知らない」
オクタヴィアンは頑是ない子供のように何もかもがわからない振りをした。
知っていたからオクタヴィアンはソフィアの十五の誕生祝いに魔石を一つ贈った。ソフィアが知ってるといいと思っていたことも確かだ。自らの魔力で磨いた魔石を差し出し、相手からも同じものを贈り返されるその意味を。
古式に則る妻問い。魔石を交わせば、婚約することなく夫婦であると古来なら認められる。今では形式上であって、法的に認められるものではないけれど、それでもいつか妻にと思っていたからこそ、オクタヴィアンはソフィアに贈った。
ソフィアを妻にできないはずがない、と思っていたオクタヴィアンは愚かだったのだろうか。
「この石の石言葉は『再会』です。──持っていなさい、オクタヴィアン」
そんな命令口調のイヴァンの言葉にオクタヴィアンは視線を上げて、睨み返そうとした。けど、できなかった。
もう一度オクタヴィアンがソフィアに会えるとでも言うのか──そう言う代わりに睨もうとしたはずであるのに、できなかった。あまりにもイヴァンの目が真剣で。
「どんなことがあっても、真実所縁ある者同士は、望む望まざるに関わらずいつか必ず再び出会います。君がどう思っていようと、その石言葉のようにオクタヴィアンとソフィアは必ずまた会うことになります」
「会えるはず、ない」
「いいえ会えます。それがオクタヴィアンとソフィアの運命。会えないはずないのです」
「それでも──それでも僕はこの石を持つ資格がない」
「資格? そんなものが必要あるわけないでしょう? これは運命なのですから」
「それでも受け取れない」
オクタヴィアンは頑なに魔石を受け取らなかった。
受け取れるわけがなかった。
一方的に痛めつけた自分がどうして彼女を求められるのか。これ以上彼女を縛りつけてはいけないのだ。そんな思いの上で。
「相変わらず頑固ですね、オクタヴィアンは。ではこれは僕が預かっておきましょう。然るべき時が来たら君の元に戻るでしょうから、その時は必ず受け取るのですよ」
ため息を一つ吐いて、そう言ったイヴァンは部屋から消えた。無駄に魔力を持つイヴァンだからこそできる転移魔法。ぼんやりと最後にソフィアに会ったのはイヴァンなのかもしれない。ソフィアの手助けをしたのもイヴァンなのかもしれない。
イヴァンは自分の罪を知っていてなお、黙っているのだろうか。オクタヴィアンは彼がどれほどソフィアを大事に思っていたかを思い出し、そして打ちのめされた。
ただ罪に囚われる自分とは違い、ソフィアがいないことを受け入れているであろうイヴァンの姿。オクタヴィアンはもっと、もっと強くならなくてはいけない。罪を知られているのだとしても、それを他の誰にも気づかれないように隠さねばならない。そう強く思った。