第37話:静かなる北
ヴァルフォードの王都を離れ、北部調査隊の一団はひたすら北街道を進んでいた。
背後に残してきた王都の喧騒は遠ざかり、周囲の景色からは次第に人の気配が失われていく。かつての戦争の傷跡は、この北の地にも確かに刻まれていた。打ち捨てられた民家の残骸や、黒ずんだ荷車の車輪が寒風に晒されて転がっている。
「……なんだか、思っていたほど荒廃していないわね」
馬の歩度を緩め、周囲の静かな景色を見回しながらシアが呟いた。
事前の報告では、今の北方は戦後の混乱が放置された完全な無法地帯だと聞いていた。野盗や難民の群れが行く手を阻む覚悟をしてきたシアは、少し拍子抜けした。
先頭を行くネアルコも、手綱を握ったまま周囲の低木林へと鋭い視線を巡らせていたが、やがて小さく首を振った。
「ああ。少なくとも今は、静かすぎる。小競り合いの跡どころか、不審な影一つ見当たらねぇ」
街道を遮る障害物もなく、視界は奇妙なほどに開けている。風だけが枯れ草を揺らし、鳥の声ひとつ聞こえなかった。その静けさこそが、一団の胸に言い知れぬ底冷えをもたらしていた。
夕刻が迫る頃、調査隊は街道沿いにある小さな村へと到着した。
正体を悟られぬよう旅装に身を包んでいるとはいえ、武装した一団の到来である。通常であれば警戒を露わにするはずの村人たちだったが、彼らを全く恐れる様子はなかった。
「旅の方かい? よくおいでなさった。井戸の水ならいくらでも使っておくれ」
通りかかる老人たちは穏やかに微笑み、彼らを温かく迎えた。北街道の要衝に位置するこの村は、人々が飢えに怯える風でもなく、ごく普通に平穏な日常を営んでいた。
シアは馬を降り、ネアルコを引き連れて情報収集のために広場へと向かった。
「皆さん、とても落ち着いた暮らしをされているのですね。何か、支援が入っているのですか?」
老人はきょとんとしたように笑った。
「ああ、そりゃあ、リーフさんのおかげだよ」
その言葉を皮切りに、周囲の者たちが口々に語り始める。
「あの人は半年前、監査官として赴任されて以来、いつも俺たちの顔を見に来てくださるんだ。崩れていた橋も真っ先に直してくださってな」
「飢えそうだった俺たちのために食料を融通してくださった。『街道を守る皆さんが飢えていては、この土地全体が止まります』って」
「うちの病気の子に薬を届けてくれたおかげで、翌日からはまた元通り、街道の荷車を引く仕事に戻れたんだよ」
一人ひとりが、自分の体験として感謝を語っていく。そこには作られた熱狂ではなく、ごく当たり前の日常があった。
シアの眉が、僅かに跳ね上がった。
「……リーフさん、ですか?」
「帝国軍の他の偉い奴らは俺たちのことなんか見向きもしねぇのに、リーフさんだけは違う。あんなに身分の高い人なのに、ちっとも偉そうにしないんだ」
「あの人がこの半年間、この村を支えてくれなけりゃ俺たちは冬を越せなかった。本当にありがたいことだ」
誰も彼を悪く言わない。
シアは、かつて総督府の廊下ですれ違った際のリーフ・ドーノックの佇まいを思い返していた。常に一歩退いて頭を下げ、争いを好まない温厚そのものの文官。ネアルコも「あの腰の低い男が、赴任早々ここで大層な人徳者ってわけか」と納得したように息を吐く。
しかし、背後で黙って話を聞いていたナスルーラだけは、胸の奥に小さな、鋭い引っ掛かりを覚えていた。
(……違う)
ナスルーラはもう一度、笑いながら語り合う村人たちを見渡した。
誰もが「助けてもらった」という恩義だけでなく、自分がこの地で果たすべき「役割」を誇らしげに語っている。
(誰も命令されていない。それなのに、誰一人としてこの流れから外れようとしない。……善意だけで、ここまで人の営みが揃うものかしら)
誰一人として、疑問を抱いている者がいない。強制された気配はどこにもない。ただ、ごく自然に彼らはリーフの言葉を己の血肉としていた。
(これは慈善ではない。……もっと、別の何かだ)
ナスルーラはそう直感した。誰も飢えていない。誰も帝国を恨んでいない。誰もリーフを疑っていない。それは紛れもなく、民にとって救いそのものであるはずなのに。
「……この人は、人を争わせない」
ナスルーラは誰にも聞こえないほど小さく呟き、少しだけ目を伏せた。
「それなのに……」
呟いたその言葉は、答えを隠したまま、静かな北風に溶けていった。
村の広場から少し離れた、街道沿いの荷積場。そこに並ぶ物資の山を検分していたネアルコは、木箱に押された焼き印をじっと見つめた。帝国軍の正規の兵站紋章。だが、その下にはもう一つ、奇妙な識別番号が刻まれていた。
(王都の正規ルートなら、この時期にこの番号の物資がここにあるはずがない。……にしては統制が取れすぎている)
そこへ、シアがひょっこりと覗き込んできた。
「どうかしたの、ネアルコ?」
「……シア、お前はこの村の物資の『流れ』がおかしいと思わないか」
「おかしい? ちゃんとみんなに行き渡っているし、無駄もないみたいだけど……」
「そこだ」
ネアルコは吐き出すように言った。
「無駄が『なさすぎる』。この北方の豪雪地帯だぞ。王都の兵站部がどれだけ優秀でも、行き届かない空白期間が必ず生まれる。だが、この村の備蓄と流通のタイミングは、まるで天候の崩れを完全に予測していたかのように狂いがない。リーフの奴、ただの人徳者じゃないぞ。政府の『誰か』が超法規的な権限と情報を与えていなければ、こんな真似はできねぇ」
ネアルコが睨みつける物資の山の向こうで、ナスルーラは静かに佇んでいた。彼女の目は、木箱の焼き印ではなく、物資を無駄のない動きで馬車へ積み込んでいく村人たちの姿を捉えていた。
「ネアルコ。彼らの荷運びの役割、一人ひとりの配置が、あまりにも決まりすぎていませんか」
ナスルーラが低い声で言った。ネアルコが視線を巡らせると、確かに誰がどの荷を担ぎ、どの馬車へ積むべきか、まるで見えない指揮者に誘導されているかのように、村人たちの動線が一切交差することなく流れていた。
「彼らは自分たちが『善意の支援』を受けていると思っています。ですが、この完璧な循環図に組み込まれた瞬間から、この村は単なる被災地ではなくなっています」
ナスルーラは、寸分の隙もなく統制された荷積場を見据えたまま、言葉を紡いだ。
「ここは、北への流通を絶対に途絶えさせないための完璧な補給拠点。リーフという男は、優しさで彼らを救ったのではない。この街道を守るための『部品』として、彼らをここに固定したのです」
ネアルコはその言葉に、ハッと目を見開いた。
「……慈善で飯を食わせ、自発的に兵站の一翼を担わせる、か。誰も不満の声を上げず、誰一人として血を流そうとしねぇ。恐怖で縛るより、よっぽど強固な兵站基地の出来上がりってわけだ。あの腰の低い文官は、一体何人の人間を『組み込んで』やがるんだ?」
地域全体の物流も、人々の営みも、特定の方向へと美しく誘導されていた。
誰も襲ってこない。誰も困っていない。誰も怒っていない。
だが、その「檻」が村人たちだけでなく、自分たちをも静かに囲い始めていることには、まだ誰も気づいていなかった。
「――あ、リーフさんだ! リーフさんが来たぞ!」
広場の方から、子供たちの弾んだ声が響いてきた。荷積場にいた村人たちが一斉に作業を止め、笑顔で街道の先へと駆け出していく。
数台の荷馬車を伴った一団が村へと入ってきた。その先頭に立ち、馬の手綱を握っている男の姿を見た瞬間、シアとネアルコの両肩が僅かにこわばった。
どこにでもいそうな、地味な身なりの、穏やかな中年の文官。リーフ・ドーノック。
「皆さん、お変わりありませんか。冬の間の体調はどうですか、お爺さん。……ああ、マルク、また背が伸びましたね」
老人の体調を気遣い、子供の名前を正確に呼び、親身になって尋ねる。その言葉、その眼差し、その佇まいのどこを切り取っても演技の類いは一切見当たらなかった。彼はただ、心から目の前の人々を愛し、慈しんでいる善人そのものにしか見えなかった。
さきほどまで感じていた得体の知れない違和感が、この男のあまりの純粋さを前にして、薄らいでいく。
(……やっぱり、考えすぎだったのだろうか。この人は本当に……)
シアが胸の中でそう迷いを生じさせた、その瞬間だった。
リーフは村人たちと親しげに言葉を交わしながら、ごく自然な動作でシアたちの方へと視線を向けた。どこまでも澄んでいるのに、一切の温度を感じさせない瞳。リーフは穏やかに微笑んだ。
「これは珍しいお客様ですね。こんな北の果てまで、よくおいでくださいました、ロードン卿」
その落ち着いた声音に、シアの肩からふっと力が抜ける。だが、群衆の隙間からその光景を見つめていたネアルコだけは違った。
(……いや、おかしい)
ネアルコの鋭い眼光は、リーフの笑顔ではなく、荷馬車の積荷と周囲の護衛たちの「位置」を正確に捉えていた。積荷はこの村の過不足を完璧に補う量であり、護衛たちは村に入る瞬間、街道の死角と退路を自然な動作で塞いでいた。
(……偶然じゃねぇ。俺たちがここにいることまで織り込み済みか)
ネアルコの背筋に、ねっとりとした冷たい汗が伝う。
彼は手綱に手を伸ばしかけた。
「殿下。一度、村の外へ出ましょう。こいつは俺たちを待っていた」
だが、その言葉を予期していたかのように、リーフは穏やかな笑みを浮かべた。
「もちろん、警戒されるのは当然です」
リーフは懐から一枚の書類を取り出した。そこには、王都で押収されたものと同じ帝国軍の兵站刻印が記されていた。
「皆さんがお探しの武器。その流通記録も、廃鉱山に保管されています」
ネアルコの目が細くなる。
「……自分から証拠を見せるってのか」
「証拠と呼ぶかどうかは、ご覧になってからお決めください」
ネアルコは険しい目でリーフを睨んだ。
「殿下。罠です」
「ええ」
ナスルーラは即座に答えた。
そのうえで、リーフが差し出した書類へ視線を落とす。
「ですが、ここで引けば、王都へ流れた武器の出所は永遠に分からないままです」
「俺が先に入ります。殿下は――」
「いいえ。私も行きます」
ナスルーラは静かに首を振った。
「これは、ヴァルフォードの未来に関わることです。誰かに見てきてもらうわけにはいきません」
シアは腰のプリンスローズへ手を添えた。
「ネアルコ。何かあったら、姫様をお願い」
「最初から、そのつもりだ」
一行は罠の存在を理解したうえで、廃鉱山へ足を踏み入れた。




