表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/13

 昨日でお盆も終わり、今日の夕方には千葉に帰省していた、霞と結花が帰ってくる。

 結花にあげる予定だった古いスマートフォンの音沙汰はもちろんなく、希望はもうとっくに捨てていたが、結花にちゃんと謝れずにいたことは、まだ心残りだった。

 朝から誠は仕事へ、敏朗は川に魚釣りへ、そして明美は11時ごろには近所の集まりに出かけたため、家にはエマが一人だけだった。

 エマは今日もいつものように居間で日本語の勉強に励んでいる。ただ、いつもと違うのは、ふと足元を見れば子猫がいることだった。

 気づけば参考書のページも半分に差し掛かっていた。

 ”その12 ごめんね” 

 『たくみ:さくらちゃん、前に借りた消しゴム、無くしちゃったんだ。』

 『さくら:え?あれはお母さんに買って貰った大事な消しゴムなんだよ。...』

 どうやらこのエピソードでは、まなぶが、さくらに借りた大事な消しゴムを無くしてしまったらしい。まさにエマと結花の蟠りをテーマにしたような話に、エマは胸の奥をつかれたような気持ちになる。

 たくみは、無くしてしまった消しゴムと同じものを買いに行き、さくらに新品の消しゴムを渡して返す。しかし、それはお母さんから買ってもらったものじゃないと、さくらは悲しみを拭えずにいた。

 結果的には、たくみの机の引き出しの奥に消しゴムが入っていて、無事に消しゴムを返すことができた。そして、2人はおそろのいの消しゴムを使うという暖かい話で終わる。

 この都合よくハッピーエンドを迎える話と、スマホを無くしたエマの話を対比した時、どこか現実味を欠いているように思えて、エマはふっと嘲笑うかのように笑った。

 ちらりと縁側を見ると、さっきまで足元にいた子猫が、今度は縁側で日向ぼっこをしている。子猫の幸せそうに寝ている姿を見ると、勉強の疲れも何もかも一瞬で吹き飛んでしましそうだ。

 それからしばらくしてお腹が減ったのか、子猫はミャーミャーと声をあげて起きてきた。

 猫用の餌がなかったので、台所にあったツナ缶をあげた。すると子猫は勢いよく食べ始め、1分ほどで平らげてしまった。そして、食べ終わって少しすると、子猫は玄関に置いてあった猫用のトイレへと向かった。誠が昨夜、段ボールに庭の土を入れて作った簡単な仮設トイレだったが、子猫はそれがトイレだと完全に理解している。

 午後2時を過ぎ、明美が近所の集まりから帰ってきた。

 『エマちゃん、ご近所さんに聞いてみたけど、どこも猫は飼えないってねぇ。』

 『ごきんじょさん、ねこはかえない?』

 『そうそう。残念だけど、おばあちゃんの知り合いで、他にあたれるところは無いよ。』

 『ざんねん。ありがとう。』

 エマは明美の言葉のトーンと、知ってる単語を結びつけてなんとなく話を理解すると、残念そうな表情をして返事をした。しかし、内心はホッとしていた。エマとしては猫を手放すのは嫌なので、飼手は見つかっては困るからだ。

 『だからね、帰りに修禅寺に寄って、”飼ってくれる人が見つかりますように”って手を合わせてきたんだよ。仏様も力を貸してくれるといいねぇ。』

 『え?なに??』

 『ごめんねぇ。おばあちゃん英語できないから、説明はできないわ。』

 明美が申し訳なさげに言うと、エマはスマホの翻訳アプリを開いて、音声入力にして明美に渡した。

 『おばあちゃん!はいっ!』

 『え?もう一度言えばいいら?』

 『うん。おなじはなし!』

 『えっと、帰りに修禅寺に寄って、”飼ってくれる人が見つかりますように”って手を合わせてきたんだよ。仏様も力を貸してくれるといいねぇ。』

 翻訳アプリはものの数秒で英語に翻訳し、エマは明美の言いたこと理解した。

 『え?しゅぜんじは、おねがいする?』

 『そうだよ。神社とはまた違うけどね、お寺でもお願いするんだよ。』

 エマは生まれてから宗教とは無縁だった。母親に何か教わったこともないし、カナダに住んでた時も、宗教的な何かに参加したこともなければ、教会に行ったこともなかった。だから、お寺がなんのためにあるのかというのも、よくわかっていない。

 明美が帰ってきたので、エマは猫の餌を買いに自転車でスーパーに向かった。

 いつものように山道を下り、温泉街にある修禅寺の前を通り過ぎる。ところがそのすぐ後、エマは急にブレーキをかけた。そして来た道を引き返し、修禅寺の脇にある小道へと入り、自転車を路肩に停めた。

 エマは修禅寺正面の石の階段を登り、山門をくぐって境内へと入る。門をくぐったと同時に、風がスッと背中を押すように吹き抜けた。

 木々の間を石畳の道がまっすぐに伸び、正面には立派な本堂が静かに構えている。その背後には山がそびえ立ち、堂々とした風景が目の前に広がっていた。脇にある手水舎からは、ちょろちょろと水の流れる音が聞こえ、どこからか漂う線香のような香りが、温泉街の空気とはまるで違う独特な雰囲気をつくりだしていた。

 エマはまっすぐと本堂へと進み、賽銭箱の手前へとやってきた。

 前には、年配の夫婦らしき2人が手を合わせて、何かを静かに祈っていた。数秒後、祈りを終えると、軽く頭を下げ、エマに場所を譲るようにしてその場を離れた。エマは一歩前に出て、賽銭箱の前に立った。

 エマは先ほどの夫婦と同じようにして手を合わせると、目を瞑って心の中でお願い事をした。

 (Please forget what my grandmother said. It's okay if no new owner is found for the cat.)(おばあちゃんが言ったことは、忘れてください。猫の新しい飼手は見つからないで大丈夫です。)

 なんとなくエマは3回繰り返していうと、目を開けてから軽く一礼した。

 お願いごとを終えると、猫が飼えるかもしれないという希望が胸に広がったのか、エマの表情には安心と満足の色が浮かべながら、修禅寺をあとにした。

 それからいつもの修善寺駅の近くのスーパーに行き、大きい袋に入ったキャットフードと、猫の缶詰を適当に買った。トイレの猫砂も売っていたが、自転車で持って帰るにはあまりにも重かったので、今日は諦めることにした。

 エマが家に帰り着く頃には、空は赤く染まり、日もだいぶ傾いていた。それから少し遅れて、敏朗もエマの帰りを追うようにして帰ってきた。

 居間に入ってきた敏朗は、クーラーボックスを肩に掛け、背中には釣竿の入った筒を背負っている。

 『おかえりなさい。』

 エマが敏朗を見て言うと

 『夕飯はあゆの塩焼きだぞ。』

 と敏朗は返して、まっすぐ台所へ向かった。

 『あゆのしおやき??』

 エマは何のことか全く分からなかったが、気になったので敏朗の後についていった。

 敏朗は夕食の準備をしている明美のところに行き、クーラーボックスを開いた。

 中を開けると、溢れんばかりに魚が詰め込まれている。背中が深緑っぽく、お腹のほうにかけてだんだんと白くなり、水にぬれて光輝く体はとても綺麗だった。

 『釣ってこれなかったら、晩御飯は納豆だけになってたよ。』

 明美は冗談まじりにも嬉しそうに言った。

 ”納豆だけ” という言葉に、エマは冗談とは思えないような顔をしていた。

 敏朗は鮎をクーラーボックスから取り出して、台所のテーブルの上に置いた。そして鮎のお腹をつまんで、尻尾の方になぞる。すると、お尻からぶりぶりっと糞が出てきた。

 敏朗は、その光景を物珍しそうに見ているエマに声をかける。

 『やってみるか?』

 『え?....うん。』

 とエマは自信なさげに返事をしたが、いつも無口な敏朗が、珍しくエマに話しかけてくれたことは嬉しかった。

 敏朗と同じようにやってみると、鮎の肛門から糞が出てきたが、敏朗がやった時に比べると、その量はずっと少なかった。

 『もっと力入れんだ。こうやって。』

 敏朗は、エマが処理した鮎にもう一度やってみせた。すると、体内に残っていた糞が勢いよく出てきた。

 敏朗に残りの鮎も任されると、エマは力を入れることを意識して2回、3回とやっているうちに、段々と力加減を掴んできた。敏朗はその間、包丁の先を使って鮎の鱗を丁寧に剥いでいた。

 ひとまず処理が終わると、敏朗は鮎の目の当たりから帯にかけて、体がS字になるようにズブズブと串を刺した。敏朗は一本たけやって見せると、残りはエマに任せるようにして串を渡した。

 エマは恐る恐る串を受け取ると、持っている自分の手を突き刺さないように、慎重に力強く鮎を刺した。何だか残酷なことをしているようにも思えたが、鮎はすでに死んでいたし、1匹できれば、2匹からはそこまで抵抗なくできた。

 敏朗は串に刺さったあゆに万遍なく塩を塗りつけていく。エマが全ての鮎に串を差し終えたところで、エマに塩を塗る役目を任せると、敏朗は台所の裏口から外へと出ていった。

 敏朗は縁側の前で、炭火焼きの準備を始めた。敏朗が、炭に火を起こしているうちに、鮎を両手に一匹づつ持って、エマが台所から出てきた。

 『おいていいぞ。』

 敏朗が人差し指で網の上を指すと、エマは優しく鮎を網の上に乗せた。

 『あと3匹。』

 敏朗が三本指を立てながら言うと、エマはまた台所に戻り、今度は片手に1匹、もう片方に2匹持って戻ってきた。

 網の大きさ的に、一度に焼けるのは5匹が精一杯だった。鮎が焼けてくると、体からジュワッと出てきた油が炭に落ちて、火力が上がる。裏面がこんがりと焼けたらひっくり返すという単純な作業だが、火加減ができないので、鮎の場所を移動させながら、満遍なく焼けるよう常に目を張っていないといけない。

 鮎の焼けた香ばしい匂いが居間にも届いているのか、子猫が目をまんまるにして縁側から見ている。

 鮎がこんがりと焼けると、敏朗は器用にも串を指の間に挟み、5匹いっぺんに持って台所へ。そしてすぐに、まだ焼けていない残りの鮎を5本持って戻って来た。

 『あとはやってみなさい。』

 敏朗は網の上に鮎をのせると、エマに任せてまた台所へと戻った。

 だんだんと鮎に火が通っていき、油が落ちて火力が上がってきた。エマは勢いよく燃える網の前で、汗をぬぐいながらも、塩焼きをひっくり返したり、火の弱いところに移動させたりと、忙しなく動いていた。

 すると、家の塀がライトに照らされ、遠くの方からだんだん車のエンジン音が近づいてきた。そして、ゆっくりと近づいてきた車は、家の玄関の辺りで完全に停まった。

 車のドアがドンっと閉まる音がして、懐かしい声が聞こえてきた。

 『ただいまーー!!』

 霞と結花が帰って来た。

 どうやら誠の仕事帰りに、霞と結花が乗り合わせて来たようだ。

 霞と結花が居間へと入ってくると、それに気づいたエマは縁側の外から

 『おかえりなさい!』

 と声をかけた。

 結花は、外で鮎を焼いているエマに向かって歩いてきたが、縁側にいる猫を見るやいなや、結花の意識は完全に子猫に向かった。

 『あっ猫ちゃん!!かわいい!!』

 結花がそう言うと、霞も続いて言った。

 『あら、本当!かわいいわね!』

 そして誠も、少し遅れて居間に入ってきた。

 『さっきも言ったけど、今はとりあえず保護って形だよ!飼うとは決まったわけじゃないからね!』

 『えーーー飼うよ!!』

 結花はすぐに言い返した。

 『猫なんて飼ったことないんだから、ちゃんと世話できる人を探したほうがいいら?』

 『大丈夫!ちゃんと世話するもん!』

 『とにかく、今すぐは答えは出ないよ!』

 『ぜったい飼う!』

 結花は全く聞き耳を持たない。

 結花がそおっと子猫に手を伸ばすと、体をすりすりと擦り付けてきた。

 『あら、人懐っこい。名前はあるの?』

 霞の質問に、誠はいの一番で答えた。

 『名前なんかつけたら、もう飼うって決まったみたいになるだら?まだ..』

 すると結花も負けじと、誠の言葉に被せながら言った。

 『ねこきち!にゃんた!んーー、にゃん太郎!』

 誠はため息をつきながら、呆れたように肩をすくめる。

 すると、エマと敏朗が、台所からお皿に盛り付けられたあゆの塩焼きを運んできた。

 『すごい!あゆの塩焼きだ!』

 結花は興奮しながら言った。

 『お〜、立派なのが釣れたな!朝から楽しみにしといてよかった!』

 誠も嬉しそうに言う。

 誠も結花も、猫の名前の話なんてとうに忘れたかのように、鮎に夢中になっていた。

 そうして4日ぶりに、家族全員揃っての夕食になった。同じ空間に子猫も1匹増えたが、保護猫なので家族とは言えない。

 エマの焼いたあゆの塩焼きは、敏朗の焼いた鮎と比べると少し焦げすぎているところもあったが、実はプリプリしてとっても美味しかった。

 子猫も鮎に興味津々で、みんなが食べている時に近くで『ニャアニャア』と鳴くので、エマがほぐした鮎を平たいお皿に入れて瞬間、エマの手を押し除ける勢いで食べた。その様子は、初めて建が買ってきた缶詰を食べた時の、あのがっつき具合を思い出させた。

 鮎にかぶりつきながらも、エマは珍しく自分から会話を始めた。

 『きょう、しゅぜんじに行った。』

  それに明美が優しく返す。

 『あら、何しに行ったら?』

 『おねがいごと!』

 『お願い??なんのお願いしたの??』

 と、誠が興味津々に聞いた。

 『あ、Secret!(秘密!!)』

 エマは自分から会話を始めたのは良いが、お願いごとの内容まで聞かれるとは思ってなくて、少し焦りを見せた。

 『シークレット??なんで?』

 誠はさらに聞くが、困ったエマを見た霞が会話に割って入った。

 『いいじゃない。言いたくないなら言わなくても。』

 誠はそれでも気になっている様子だったが、霞は冗談混じりで続けて言った。

 『でも英語でお願い事しら、仏様もわからないかもね?』

 『え?えいご。おねがいした。』

 エマがそういうと、今度は誠も冗談混じりで言う。

 『でも、お賽銭の額によっては大丈夫だら?』

 『おさいせんのがく?』

 エマは意味のわからない言葉を聞き返した。

『ほら、大きな箱があったら?いくら入れた?』

 『おかね?』

 『もしかして、お賽銭してない?ディド・ユー・スロー・マニー?』

 『No...』

 エマはお願い事をする前に、お賽銭することを知らなかった。前にいた夫婦を見たと時は、すでにお賽銭をした後だったので、全く気づかなかった。

 『あー、これはバチがあたるかもしれないなぁ。』

 誠が神妙な顔つきで、エマを怖がらせようとする。

 『バチ??』

 『そう。パニッシュメント。』

 その誠の不気味なトーンに、エマは一気に不安が込み上げてきた。

 『それ、なに?So what's my punishment?(どんな罰を受けるの??)』

 『それはね..』

 誠が続けようとした時、霞が止めて入った。

 『ほら、もうやめなさいよ。エマちゃん、バチなんてないわよ。』

 すると誠が霞に言い返す。

 『ないなんて、なんでわかるんだら?』

 『お賽銭入れなければ、願いが叶わないだけじゃない?仏様だってそんな暇じゃないのよ。』

 それが正論なのか空論なのかはわからなかったが、霞の堂々とした言い方に、誠はなぜか妙に納得してしまった。

 『えっと、おさいせん、いくら?』

 エマが漠然と問いかけると、明美が答えた。

 『特に決まりはないけどねぇ、私はいつも5円だけ入れるよ。』

 『5えん?That's it!?(それだけ!?)』

 あまりの安さにエマは驚いた。

 『仏さんも、大変だなぁ。』

 敏朗がぼそっと呟くと、みんなも同感した様子で頷いた。

 正直なところ、エマにとっては”バツ”よりは、願い事が叶わない方が嫌だった。そして、もう一度修禅寺に行って、今度はお賽銭を忘れずにして、ちゃんと日本語でお願い事もしようと心に決めた。

 夕食もとっくに済んで、家族が各々寝る準備をしている頃、居間では一人結花が子猫を優しく撫でいた。

 『名前、色々考えたんだけど、男の子だから、タマってのはどうかな?タマ?』

 結花が子猫に話しかけていると、玄関で猫のトイレ掃除を終えたエマが、居間に入ってきた。

 エマと結花は目が合い、少しの沈黙の後、エマが先に口を開いた。

 『あの、スマホ..』

 すると結花はエマの言葉を途中で遮って言った。

 『気にしてないよ!大丈夫!』

 『え?』

 『それよりも、子猫の名前、”タマ”ってどう?』

 エマはきょとんとしたが、それ以上スマホの話を続けるのはやめた。

 『え?たま?なに?なんで?』

 『えーとーー、ほら見て。』

 結花は子猫のお尻を指差して言った。

 エマは結花の指さす先にある”タマ”の正体がわかると、反射的に言った。

 『Nooooo!!』

 それから、お互いに名前を考えるのに盛り上がって、気づけば2人の中に蟠りがあったことも忘れてしまっていた。そうしてまた竹田家には、賑やかな日常が戻ってきた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ