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お盆初日。
霞と結花は身支度を済ませて、玄関で靴を履いている。敏朗、明美、エマがその姿を見守る中、誠が言う。
『じゃあ、駅まで送ってくるら。』
誠が玄関を出ようとした時、エマが誠を止めた。
『わたし、おくる!』
誠は一瞬きょとんとした顔をして聞き返した。
『エマも一緒に行くら?ゴー・トゥー・ステイション・ウィズ・ミー?』
『いっしょにいくら!』
『よし、じゃあ行くぞ。』
まだ朝8時だが、外は相変わらず蒸し蒸して暑い。
車の中の熱気を急いで逃すために、誠は車の窓を開け、冷房を全開にする。
そして、誠の車の助手席に霞、後ろには結花とエマが並んで座った。
結花は車の窓から外に乗り出すようにして、敏朗と明美に手を振った。
『行ってきまーす!』
『あ母さん、お父さん、では、行ってきますね。』
『気をつけて、いってらっしゃい。』
明美も、霞と結花に手を振って返し、敏朗も軽く手を挙げて見送った。
まだ早い時間だからか、温泉街には人気がそんなにない。いつもなら観光客が歩いているペースに合わせて、ゆっくりと車を走らせるのに、その必要もなかった。
山の麓にある狩野川橋を渡り、茂のレストランの前を通った。開店時間まではまだ3時間くらいあるので、お店のシャッターは閉まっていた。
赤信号を待っていると、大きなリュックを背負ったジャージ姿の学生達が、車の前を通り過ぎた。
そして、学生達が通り過ぎるのを見ながら誠が言う。
『おっ、修善寺中学校の学生だな。エマも、もうすぐああなるんだな。』
『がくせい?』
『そうそう。スチューデント。』
『But, They are not on なつやすみ??(でも彼らは今夏休みじゃないの?)』
誠が答える前に、霞が答えた。
『部活よ。夏休みでも、部活にはいかないと行けないの。』
『Everyday?? In this crazy hot summer?(毎日?この暑さの中??)』
『休みはあると思うけど、基本はエブリディじゃないかしら?』
エマは驚きと同時に、クラブ活動に入ろうか迷った。カナダでは中学校でもクラブはあったが、夏休みは基本的に休みだ。
『Why do they take club activities so seriously? Isn't school supposed to be for studying?(なんで部活にそんなに一生懸命なの?学校は勉強するところでしょう?)』
『えっと...』
霞は英語がうまく聞き取れず、どう答えたらいいか考えていた。
信号を越えると、駅まではほんの15秒ほどで着くので、霞が答えを考えているうちに修善寺駅についた。
誠は改札口近くのロータリーに車を停める。
『ありがとう。』
霞が誠にそっとお礼を言い、みんなは車を降りた。
エマが修善寺に来てから、駅に訪れたのはこれで3回目だが、今日の修繕寺駅はいつになく賑やかで、これから仕事に行くであろう人々が早歩きで改札に入っていく。
誠はトランクのドアを開け、霞のハンドバッグ、お土産の入った紙袋を取り出す。そして誠はエマに、結花のリュックを渡した。
『それじゃあ、気をつけて。お父さん、お母さんによろしく。』
誠は霞に荷物を渡しながら言った。
『すぐに戻るわね。』
霞は優しく返事をして、荷物を受け取る。
エマも少し気まずそうにしながらも、両手で結花にリュックを渡す。
『いってらっしゃい。』
すると、結花は少し照れくさそうに答える。
『行ってきます!』
リュックを両手でしっかりと受け取ると、列車の出発のアナウンスが流れた。
『まもなく1番線から、三島行きの電車が発車します。』
『それじゃあね!』
霞と結花は誠とエマに手を振りながら、急足で改札に向かう。
霞たちが電車に乗り込むのを待っていたかのように、2人が電車に乗り込むとすぐに扉が閉まり、電車は出発した。
結花は電車の窓越しに、こちらが見えなくなるまで手を振り続けていた。誠と結花も電車が建物の影で見えなくなるまで、手を振って見送った。
列車が完全に見えなくなったところで、誠がエマに声をかけた。
『じゃあ、帰るか。レッツ・ゴー・ホーム!!』
『うん!』
エマは少し寂しそうにも見えたが、明るく返事をすると、2人は車に乗り込んだ。
帰りの温泉街は、さっきとは違って人気が増えていた。お店はまだ閉まっていたものの、おそらくホテルからチェックアウトした人や、朝食を終えて朝から観光に出てきたのだろう。
誠はエマを家に送り届けると、そのまま車でどこかへと出かけてったので、エマは1人で家の中へ入った。
霞と結花の靴が無いことを確認すると、なんとなく家が広く、そして寂しく感じた。
廊下から居間の前を通ると、居間では明美と敏朗ニュースを見ていた。エマの帰りに気づいた明美が言う。
『おかえり。』
『ただいま。』
『あら、誠はいなら?』
『あ、くるま、えっと、He went somewhere.(どっかに行ったよ。)
『どっか出かけたのかしらねぇ。』
エマは勉強道具を取りにそのまま2階へと向かった。
階段を登った正面にある結花の部屋の扉は閉まっていて、物音ひとつしない。なんとなく結花がいないことを意識しながらも、自分の部屋に入った。勉強机の上に置いてあった日本語の参考書とノート、筆箱を取ると、また1階へと降りていった。
そして居間で勉強を始めようとするエマに、明美が話しかける。
『こんなところで勉強して、集中できるら?』
居間ではテレビが付いているし、敏朗や明美も時々話している。それが勉強の妨げにならないか明美は気になった。
『しゅうちゅう、しゅうちゅう...』
結花はスマホでわからない言葉を調べる。
『あ、うん。しゅうちゅうする。No problem!(問題ないよ。)』
『ならいいけどねぇ。』
エマにとっては、聞き取れない日本語のニュースや、明美達の会話が音として耳に入ってきても、それが耳障りになることはなかった。
エマは参考書のページを開いて、新しいページに進む。
”その3 おつかい”
『店員:いらっしゃいませ。』
『たくみ:すいません。卵はどこにありますか?』
『店員:卵は、飲み物のコーナーの隣にありますよ。ご案内しましょうか?』
『たくみ:いえ、大丈夫です。ありがとうござ....』
いつものようにぶつぶつと音読をする。
エマは買い物には何度か行ったことがあるため、”買い物”での会話は、聞き覚えのある単語も多く読みやい。そして、ひらがなも何度も何度も見ているうちに、だいぶ慣れてきた。
会話文を読みながら、エマはあることを思い出した。
それは、お店に入ったときによく耳にする「いらっしゃいませ」というフレーズだ。これを言われると、いつも何と返事をすれば良いのか分からず、モヤモヤしていた。
参考書のたくみは「いらっしゃいませ」に直接何か返事をしていないが、気になったエマは明美に質問した。
『おばあちゃん。いらっしゃませ。』
『え?いらっしゃいませ?』
『うん。いらっしゃいませ。How do you reply to いらっしゃいませ?』
『リプライ?なんだら?』
エマはスマホで日本語訳を調べる。
『えっと、どういらっしゃいませにへんじする?』
『あーー、いらっしゃいませって言われても、私は何も言わないかね。』
『No?』
『そうねぇ。爺さんは?』
明美に聞かれた敏朗は、宙を見て少し考えた後、一言で返した。
『なんも言わんな。』
『I see. ありがと。』
そうしてエマのモヤモヤは瞬時に解消された。
日本で暮らし、毎日日本人と会話していると、「伝えたいのに言えない。」ことの連続でストレスを感じることがある。ただ、参考書で日常会話を学んでいると、「あのとき、これが言えなかったんだ。」と思い出すような場面によく出会う。ただ使うかどうかわからないフレーズを暗記するだけでは、なかなか頭には残らなくて効率も悪い気がする。しかし、「これが言えなくて困った。」という実体験があると、その言葉やフレーズは不思議とすっと覚えることができた。それはなんだか頭で記憶するというよりは、心で記憶するような感覚だ。
この感覚を掴んだエマは、日本語の勉強がますます楽しくなっていった。
夕食になるまで時間も忘れて、エマは勉強に集中した。
気づけは会話文も、”その6 給食当番”まで進んでいた。
夕食の頃には、誠も家に帰ってきて、霞と結花のいない食卓をみんなで囲んだ。いつもよりも食器も少なく、人も少ないため、テーブルが大きく見える。
夕食が終わり空も真っ暗になった頃、みんながリラックスしてテレビを見ている時に、誠が口を開いた。
『そろそろ、迎え火やろうか。』
『そうだねぇ、ほんじゃあ準備しよ。』
と明美は腰を上げ、台所へ何かを取りに向かった。
『むかえび?』
エマがそう聞くと、誠が答える。
『うん。まぁ見たほうが早いかな。とりあえず、外行こっか。』
そうして玄関の外にみんなが集まった。明美は平たい皿をコンクリートの地面に置き、誠はその上に軽く丸めた新聞紙を置いた。次に、それを囲むようにおがらを丁寧に重ねていく。組み木が完成すると、誠はそっとマッチで火をつけた。炎はすぐに新聞紙に燃え移り、組み木をゆっくりと燃やし始め、煙が夜空に向かって立ちのぼっていった。
『これ、むかえび?』
火を見つめながらエマが尋ねると、明美が優しいトーンで答える。
『これはね、お母さんが家に帰ってこられるようにする合図。遠くからでも、すぐにわかるようにね。』
エマの理解できていない様子を見て、誠がたどたどしく英語で通訳した。
『えっと、ユア・マザー・ファインド・ファイアー・アンド・カム・ヒアー。」
『あ、うん。わかった。』
しばらく会話はなく、みんなは炎を静かに眺めていた。迎え火の時折パチパチと放つ音と、田んぼから聞こえるカエルの声だけが響いている。
すると誠がポツリと呟いた。
『姉ちゃん、帰ってこれるかな。』
それに明美がそっと返事をする。
『そうねぇ、実際、私の母ちゃんも父ちゃんも一度も帰ってきては無いけどねぇ。』
『まぁ、死者が蘇るってことはあり得ないからなぁ。』
『でもね、こうやって死んだ人を思い出す時間があると、心の中に帰ってきたような気分になるんだよ。』
誠と明美の会話に続いて敏朗も口を開く。
『俺は、死後の世界なんてもんは信じてないけどな。あるって信じたほうが、心に拠り所があっていいんじゃねぇか?』
『私は信じたいけどねぇ。ただ確かめようが無いんだよね。』
『母さんも親父も両親を亡くしてるからなぁ。会話に重みを感じるよ。』
誠がそう言うと、会話に入れていないエマを気にして、今度はエマに聞いた。
『エマはどう思う?えっと、ドゥー・ユー・ビリーブ・ヘブン?』
『ヘブン?You mean, like, do I believe in life after death?(死後の世界を信じてるかどうかってこと?)』
『ライフ・アフター・デス?あぁ、イエス・イエス!』
『うん。I think ある!!』
『そっか。そうだな。』
誠は優しく返事をした。
やがて火が消えると、誠たちは先に家の中に戻った。エマだけがその場に残り、炭の熱が完全に消えるまで、しゃがんで空に広がる無数の星々を見上げながら、考えごとをしていた。
(I wonder if my mom is somewhere out there in this huge universe. And if she is, could she see this tiny light from all the way out there?(この広い宇宙のどこかに母はいるのかな?もしそうなら、この広い宇宙から、この小さな光を見つけられたかな?))
その時、夜空にパッと流れ星が見えた。あまりに一瞬の出来事だったので、エマは見間違いかと思ったが、それはたしかに流れ星だった。そして、なんだか自分の心の問いに、母が答えてくれたような気がした。
奇跡のようなタイミングで驚きもあったが、それよりもやっぱり、しんみりとする気持ちがエマを襲った。
エマはグッと歯を噛み締めて、手の甲で目の当たりを擦った。
それから炭もすっかりと冷え切った頃、エマはゆっくりと立ち上がった。そして玄関に向かって歩きかけた途中でふと立ち止まり、くるりと回って庭へ向かった。
灯りがひとつ、またひとつと落ちていき、竹田家は眠りの中へ入っていく。寝支度を終えた明美が寝室へ入ると、美香の仏壇には、ふっくらとした食べ頃のトマトがひとつ供えられていた。