5.
文字を頭に詰め込み始めたのだけれど、音がわからないものって、こんなに覚えるのが難しかったんだ。なんてつい私が半泣きになってしまっていれば──実際には泣いてなんていないので、何かを感じ取ったのだろう──きゅーん、と。慰めようとしてくれたのか、ベッドに前足を乗せた狼が鼻先を押し付けてきてくれたので、ありがたくぎゅーっと抱き締めさせてもらった。
そうしていれば、男が何かを持って戻ってきた。
片方の手には黒い……何か? が二つ乗った皿と布を持ってきた。椅子に座った男はそれを膝の上に置き、黒い物を手に取ったと思えば、ぱかりと半分に割って、布の上に置いてから私に差し出してきた。
あったかい。
定位置に戻って大人しく寝そべった狼を横目に、条件反射で受け取ったそれの中身は薄い黄色で、芋のように見えた。匂いこそ殆どなかったけれど、ほくほくと湯気を立てるそれを見て、ぐぅ、と自分のお腹が鳴ったのが理解できた。
そう言えば、家を出てから何も食べていなかった。
食べて良いのだろうか……? でも、どうやって食べれば良いのかわからない。周りが黒くて固いのは、焦げている? それとも皮的なナニかなのだろうか。そのまま食べるのか、剥くなりするのか……と私が悩んでいれば、ぱかり。更に男が芋と思わしきものを割った。
四等分になったそれの黄色い部分に齧りつき、こうやって食べるのだとばかりに男が実演してくれて、なるほど、この黒い部分は避けて食べるらしい。
真似して半分に割って、片方を膝の上に布ごと置いてから──ぱくり。一口食べて、芋だ。と確信できたと共に、口の中に広がる優し気な味に私はほっとした。
言葉は全然違ったけれど、食べ物は同じらしい。思っていたよりも黒い部分が分厚くて食べられる部分が少なかったけれど、満足感を得られるものだった。
実演のために手に取ったものを男が平らげた一方、私はゆっくりと食べていた。
何せ芋である。食べ始めてすぐ、そう言えば水分を取っていなかった事に気が付いた。口の中にあったなけなしの水分が、無慈悲に芋に奪われていくのがわかる。
美味しいけど、喉が渇く。案の定、ごほ、と喉につっかえて小さく咳き込んでしまった。
別に身体が弱いのでも何でもない。森に来てからどれくらいの時間が経っているのかわからないけれど、少なくとも半日は水分を取れていないのだから、大目に見てもらいたい現象だった。
うぐぐ、と喉に詰まらせるという子どもみたいな失態を犯してしまった私を前に、慌てたように男がコップを手に取った。
ああ、水を入れてくれるのか。そう思った私の予想は外れる事になる。
「◆%%〇」
何かを男が唱えたかと思えば、差し出されたコップの中に水が満たされた。
水が?
たぶん、いやきっと、私の目は驚きによって人生で一番真ん丸としているに違いなかった。
だって、水は入っていないと私は知っている。そりゃあ半日何も飲んでいないのだから、喉は乾く。でもいくら用意してもらった物とはいえ、流石に勝手に使うわけにはいかない。
だから男が戻ってきてから、指差して首を傾げるなりしてお伺いを立てようと思っていたから、コップの中に水が入っていないのは確認済みだった。
「×■◎%?」
これまた反射的に受け取ってしまったコップの中身は透明で、手品? いや、魔法……? いやいやいや、と疑問に溢れる中、ええいままよ。と一口飲んでみる。
うん、水だ。やっぱり水だった。
水差しを覗き込んであれ? と男が首を傾げる中、私は二口にしてコップの中身を飲み干してしまった。
それを見た男が今度は水差しで──やっぱり中身は水で合っていたらしい──コップの中を再び満たしてくれた後、水差しとコップを交互に指差してから、今度は目に見えるよう水差しの中へと水を、これまた先程と同じように何かを唱えて男が注いだ。
種が一切わからないそれは、やっぱりどう考えても魔法としか思えない。
それと同時に、どこかすとん、と私の中に納まるものがあった。
実際の中世ヨーロッパは違うと言われているけれど、そう言われて想像できるような生活感。通じない言葉。そして極めつけの魔法。
どう考えても、ここは私の知らない世界──異世界だとしか思えなかった。
そう驚いていたとしても、世界は私を待ってはくれない。
じっと手に持ったコップを私が眺めていれば、男が声を掛けてきた。
「◎%、●?」
狼を撫でるために横に置いていた、文字表と思わしき紙を私が良く見える向きに置き直し、一つ一つの文字を声に出して男が読み上げてくれたのだと思う。
一通り終わって、一つ残っていた芋を男が手に取ったかと思えば、空いた方の手で紙を指差し、
「%〇」
と繰り返し文字を二つ指差す。
これはもしかして、文字を教えようとしてくれているのだろうか?
思ってもみなかった、でも心の底から望んでいた幸運に、沈みかけていた私の単純な思考が一瞬にして舞い上がった。
言葉は声が出ないから無理だけれど、男が差し示した文字を同じ順番でなぞった後、男が手に持っていた芋を指差せば、男がにこりと笑った。
嬉しくなって私が口元を緩めれば、続いて男はコップを手に取った。また新しい文字達が指差され、私はそれを繰り返す。
「%%」
上に向けた男の手のひらの更に上、というか空中に、水で出来たボールのようなものが浮かんだことに関しては、もうツッコむのをやめた。
たぶん水を表しているのだろう。その後存在を忘れてしまいそうになったくらいに馴染んでいた狼と、布、水差し。私が目覚めてから関わったものを一通り教えてくれた後、紙にその文字を書いて男が手渡してくれたおかげで、一筋の光が見えたような気がした。
手に取った文字表をじっと睨みつけ、男の袖を引っ張った。流石に一度聞いただけで覚えられる脳は持っていない。こちらに彼が注目してくれたことを確認してからもう一度文字表を指差せば、ああ、と察した彼がもう一度読み上げてくれる。
その対応に邪険にされなかった事にほっとしながら、一文字一文字聞き逃さないように、目当てに近い音を持った文字を聞き分けようと私は耳を澄ました。
先程とは違って二度読み返してくれた男に紙を見せる。
そうして、
「……%、りぃ。……まりぃ?」
私の指に示された二文字を男が読み上げたあと、ハッとしたように男が私を見た。
指し示すのはそう、自分の胸元だ。
真莉、まり、まりぃ。
発音が少し違うけれど、間違いなくそれは私の名前だった。
「マリィ」
その単語に私が笑みを浮かべれば、男も嬉しそうな笑みを浮かべた。
「……×、お。セオ」
続いて男が丁寧に読み上げながら文字を指差し、自身を指差した。
セオ。これが男、改めセオの名前。
顔を見合わせて笑い合う。
芋やコップという生活感あふれる単語達に続いて見本に書かれた『マリィ』と『セオ』の名前。間違いなくこの瞬間、声もなく、言葉も違った私達が初めて通じ合った瞬間だった。