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八八艦隊1934 第三章・F.R.S plus  作者: 扶桑かつみ
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Episode. 5:1991年1月 ビクトリー・ロード(湾岸事変) ●Phase 5-1:イラン・イラク戦争

 ドイツ帝国は自壊し、先進諸国間の全面戦争という脅威は大きく低下したが、それまで先進国の強大な軍事力により抑圧されていた途上国間での紛争の危険は上昇、いや実際多数の戦争が勃発する事となる。

 その最大級の戦争の一つが、最後の代理戦争の舞台の一つだったイラン・イラク戦争の延長線上にあるとされる『湾岸事変』だ。

 ここでは日本も深く関ったこの『湾岸事変』について見てみたいと思うが、その前にイラン・イラク戦争から順番におさらいしておこう。


 イラン・イラク戦争は、1980(昭和55)年9月22日、イラク軍のイラン国内への侵攻によって開戦された。だがこれは単なる国境紛争ではなく、非常に根の深い戦争だった。

 1970年代、イスラム世界は二つに分裂していると言える政治的状況になっていた。と言っても彼らの意思だけで自主的に分裂したわけでも、教義的・宗派的な対立が直接原因でもなかった。

 要するに、欧州帝国と海洋国家連合の対立がここにも持ち込まれていたのだ。そして、石油という極めて重要な戦略資源の世界最大の産地であるという事がこの地を深い対立へと誘う事になる。

 1940~50年代中東での覇権を争ったのは、欧州の覇者となり英国の勢力のかなりを中東から軍事的に排除したドイツと、戦争間のどさくさの各種謀略工作で足場を作り上げ、アメリカの後押しを受けた日本、そしてそれまで大きな権益を持ちそれにしがみついていた英国だった。

 ドイツは、エジプトからイラクに至る主要部全域の支配を確立し、その孤島のような位置にイスラエルという名の人工国家を作り上げ、欧州問題の面倒な人種問題をここで解決すると同時にここで今後半世紀に関る問題を発生させていた。日本は、イランの改革勢力へ肩入れして当地に親日政権を樹立させ、大東亜共栄圏の防波堤と石油の安定した大供給地を手に入れる事で中東へ頭を突っ込む事となり、一時の退勢からそれなりに立ち直った英国が、持ち前の政治力といまだ強い世界規模での金融力、情報力にものを言わせてアラビア半島での勢力を復権させていた。そして、世界一の経済力を誇るアメリカが、日本と英国の双方の間を時には泳ぎ、時には間を取り持ち、後には直接介入でこの地域へと深入りしていく事になる。

 なお、かつてはあれ程の蜜月状態だった日英の対立解消が1970年代までもつれ込んだ最大の原因は、石油の大産地であるイランを日本が自らの勢力圏として英国資本の石油産業を締め出したからだとも言われており、全てではないにしてもかなりの部分で事実と言えるだろう。

 軍事力を背景にした欧州(独仏露)の中東支配、英米の経済力を背景にしたコントロールについては今更述べるまでもないだろうから、ここは日本のイラン政策について見ておこう。


 イランは1953年8月19日、完全に英国に支援されたパフラヴィー朝を完全に追放してしまい、イスラムにあっては珍しい民主国家への道のりを歩むことになるが、この裏には10数年の間この地域での工作を行っていた日本の支援によって達成されたものだった。そしてこれが日本とイランの正式な友好関係の始まりとなる。

 日本としては、年々増大する自国と近隣地域の経済発展を維持するために新たな安定した石油供給国を必要とし、さらにアジアの防波堤として分断後パキスタンと対立状態にあるインドではなく、このイランに目を付け、国家社会主義の防波堤として確固たる国を作るべくこの国への肩入れを決定したのだ。また、大東亜の盟邦たるインドの国家社会主義に対する防波堤としての役割も強く持つという側面ももちろんある。

 1940年代半ばから様々な手段を以てイランの改革派支援し、英国のコートの下の短剣を巧みに躱しつつ、10年の歳月をかけて実質的なクーデターにまで持ってきたのだ。

 このイランでの政変に対して、日本が求めた将来のイラン国家像は、マレーシアなどのようなゆるやかな民主的イスラム国家であり、そのため急進的な改革や独裁政権はご法度と考えられていた。これは、日本がこの地域を単なるコントロールしやすい経済植民地として欲したのではなく、先述した通り安定した防波堤としての役割を求めた事に起因している。

 イランの近代改革プログラムは四半世紀というタイムスパンを以て作られ、日本などアジア諸国の支援のもとゆっくりとした近代化と国家の開発が図られた。それは、日本が自らの明治御一新から昭和に至までの改革プログラムを東南アジアで実験した上での経験が活かされた、日本政府の誇る優秀にして悪名高い官僚たちが自ら「世界最良の近代国家製作要項」と揶揄している改革計画を叩き台として行われた。もちろん、イスラム社会に可能なかぎり適合させてという付帯条件も日本人の視点からなら十二分に盛り込んでという念の入りようだ。

 日本が友邦の発展途上国での近代化で重視したのは、アメリカのようなある種楽天的なまでの自国産民主主義の輸出と無尽蔵の物資支援ではなく、自らがそうであったように行政主導型の政府の確立と近代教育の普及だった。途上国の財政負担を悪化させる元とされる軍事に関しては、日本自身が自らの足の届かない地域には手を出していない事から、最初は最低限度の軍備以外は日本が「警察官」としての役割を果すことで代行することとされ、この事で自陣営内での日本の位置をより確かなものとする事とされていた。影響下におかれた国でも、それが健全な国家であれば軍隊に無駄に金をかけることなど進んでしたい事ではないので、余程特殊な心情か国家事情を抱える国以外は概ねこれを受入れ、当時ロシア以外それ程脅威を持っていなかったイランも大筋においてもそれまで通りとなっていた。

 日本がこのように、将来発展を見越した開発を衛星国各国に押し付けた背景には、アメリカ、欧州に対して自ら単体では非常に弱体であり、伝統的に近代日本がアジア合従連合をもって対抗する政策を選択していたからに他ならず、別に慈善事業をしてまわっていた訳でない事を忘れてはいけないだろう。これを表すように、日本にとって半ばどうでもよい地域の同盟国の支援は、世論がうるさくなる1980年代後半まではかなりおざなりにされている。

 そしてイランは日本にとって、政治的・経済的に極めて重要な地域だった。このため、多数の援助資金と技術・人材が提供され、イラン国内の石油産業についても日本との共同運営とはされたが主導権はイランのものとされた。これについては、樺太、満州、インドネシア各地の油田を持ち世界的に見てもそれなりの規模を持つようになった日本の石油資本(帝国石油)にとって愉快な事ではなかったが、政府レベルでの決定として引き下がらせられている。また、この点では『今日の十圓より明日の百圓』という実に日本的な商業風土も影響している。また、石油という偏った1つの産業だけを育成をする事は、貧富の差を増大させる事につながりやすいので、あくまで石油によって得られる外貨を国内の社会資本の整備と教育の普及、農地改革を基本とする地方の開発に投入させ、日本の官僚達の指導のもと丹精込めてという表現が似合う程の根気強さでイランという近代国家を作り上げて行くことになる。

 そうして、教育と殖産興業という基礎プログラムを経てイラクとの戦争が発生するまでに、イラン国はイスラム国家にあっては、巨大な石油資源の上で胡座をかいているサウジアラビアについで豊かな大国と認識されるまでに発展していた。しかも、イスラム社会にあって大国と呼びうる国の主権が王や皇帝、首長にではなく民衆の手にある事は一種の奇蹟とすら言われ、欧州連合の国からすら称賛が寄せられていた。

 だが、これを快く思わない国があった。

 ただこれは、基本的にはイスラム社会の近代化の最大の癌と言われる偏狭な視野しか持たない一部のイスラム原理主義を押さえ込むには、未熟な近代的体制でしかないイスラム国家の大半が王権や独裁国であるので、大半がそうとも言える。

 そしてその中でも最も先鋭的だったのが、ドイツ指導の元イランとはまた違った道筋で近代化の道を進んでいたイラク共和国だった。この国も欧州諸国の支援を受けながら表面的には大統領制を取入れたり、文化習慣も西欧化が進むなど、アラブの中では近代化の進んだ国とされていたし、事実一部はその通りだった。

 ただしこのイラクにとってイランが脅威だったのは、単純な人口差からくる国力差ではなく、自国民の三分の二がイランでは過半をしめるイスラム・シーア派の存在だったと思われる。イラクは少数のイスラム・スンニー派が国家中枢を独占しており、イラク国内のシーア派の存在はイラクとイランの関係にとって憂慮すべきものとなっており、民衆レベルにおいてイランの方が豊かであるという現実は、イラクを支配する者たちにとって脅威以上に映ったのだ。

 そして、イラクにとってさらにダメージだったのが、ロシアのアフガニスタン侵攻に対して、隣国だったイランがイスラム世界の少数勢力であるシーア派であり近代的民主主義を持っていながら、政治的な主導権を手にした事だった。

 イランのロシア・ドイツに対する「ジハード」宣言は、それまで宗派の違いとその政治体制によりイランに一定の距離をおいていた様々なイスラム国家、特にアラビア半島の国々をイランに接近させ、イラクを政略的に半包囲する事態にさせたのだ。

 そしてイランのアフガン援助を何とかしたいドイツやロシアが、このイラクの焦燥に軍事援助を与える事で対抗させようと考え、十分な軍事力を得たと考えたイラクが(事実イラクは中東一の軍事大国化する)ドイツを後ろ盾にもつ中東各国のいくつかの国からの内密の了承を受け、チグリス・ユーフラテス川での領土問題を半ば口実に、1980年9月22日の開戦へと傾いていく。

 なお、イラクを支援した国々がイランへの戦争開始を認めた背景には、やはり政体・宗派の違いによる脅威感情が存在しており、特殊な事情で動く中東情勢の側面を見せていると言えよう。


 イラン・イラク戦争そのものについては、比較的最近の戦争であるだけに少し調べれば分かる事なので概要だけとするが、開戦当初はドイツ式軍隊を建設しそれなりの装備と練度を持つイラク軍の優位に進み、民主国家としてそれなりの軍備しか持たないイランはアフガンに強く肩入れしていた事も重なって大きな後退を余儀なくされたが、国力差と人口格差からくる動員後兵力差から次第にイランが戦況を覆し、1982年以降は逆にイラン軍がイラク領内に侵攻を開始した。これに対してイラン、シーア派の台頭を懸念したアラブ諸国とアフガンの泥沼にはまっているドイツがイラクを強く援助。本格的な戦争状態に突入した。

 だがイラクはこの戦争で国際法を無視し大量の生物化学兵器を使用し、イラン側とその使用地域に多数の死者を出している。その上国際社会はドイツを中心に事態を黙認、結果としてイラクの製造した化学兵器が紛争地帯に拡散する結果にもなっていた。そしてドイツの支持とそれら非人道的とされる兵器の使用によりイラクは状況を打開。再びイラン領土を占領下に納めていった。

 しかし、戦争はさらに二転三転し、アジア諸国からの援助などもあり軍事力を再建させたイランが再度反撃、ついには領土の全てを奪回し、1988年にはイラク領内に再度侵攻する気配すら見せていた。

 この頃になり国連は、この戦争に対し1988年即時停戦の国連採択を決議し、すでにグロッキー状態の両国はこれを受け入れようやく停戦が実現した。


 もっとも、一般の日本人にとってのイラン・イラク戦争とは、ペルシャ湾でイラクがフランス製の対艦誘導弾でイランなどに原油を買い付けに来る海洋国家連合のタンカーを攻撃し、これの護衛のために帝国海軍が出動した事ぐらいだろうか。

 だが、日本(軍)そのものにとってこの時大きかった変化は、友好国のイランを支援するためペルシャ湾での戦争から日本の国益を守るためとして、インド政府のご機嫌ととりつつも「遣印艦隊」の常設が決定され、シンガポールやイランを拠点として空母機動部隊が常時インド洋に遊弋する事になった、という事だろう。つまり、中東問題に物理的にも深く足を踏み入れていたという事だ。


 足掛け8年にも及んだイラン・イラク戦争は1988年に終了したが、それで問題が解決したわけではなかった。問題はむしろ悪化したと言って良いだろう。

 幸いにしてイランにとっての二正面戦争が終了した事は、この時点でのアジア陣営の最大の恩恵だった。アフガン紛争も一応の終息を見、イラクとの長期の消耗戦も何とか終り、イランとしてはようやく正常な国家建設が再開できるようになった事は大きな福音だった。だが、楽観すべき問題はその程度で、オイルマネーを用いて行われたイランとイラクの戦争は、双方に巨大な軍備を建設させていた事は大きな憂慮となっていた。しかも、これにつられる形でイラク近隣の国々も大きく軍事力を増強させており、かつて欧州のバルカン半島が『火薬庫』と呼ばれたように、多少条件は違ったが、中東地域が新たな世界の『火薬庫』となっていた。

 イランについては、四半世紀の間に作られた政府が思いの外堅牢だった事から、戦後は不必要な軍備の削減や軍事から民需への産業の転換が順調に行われたが、対戦相手だったイラクは大統領制とは名ばかりの独裁政権を戦争の間にさらに進行させ、しかも宗主国たるドイツ帝国が実質的に崩壊した事から大国のコントロールをほぼ完全に離れていた。

 そして、依然不健全な経済状態であるイラクが暴発するのは時間の問題だった。


 発端は世界、特に先進国にとっては半ばどうでもよい事だった。

 イラク隣国のクウェートがOPEC合意を破って原油生産増加を決定した事が原因だった、とされている。これをイラクのフセイン大統領が「クウェートはイラク経済の破壊を企てている」と批判し、さらに実力行使としてイラク軍先発隊クウェート国境へ移動。

 後は、ボールが坂道を転げ落ちるという表現すら甘い、リンゴが木から落ちるような速度で事態が急転した。

 1990年7月27日に米連邦議会、イラク制裁決議を可決、8月1日、イラク、クウェート間のジッダ会談決裂、その翌日のイラク軍のクウェート侵攻。

 日本が、同じくクウェートの原油増産で苦い顔をしているイランなど同盟産油国をなだめている間に事態が進展してしまい、この時点で日本の対応は後手後手に回る事となる。

 そして出遅れた日本をしり目に、国内の石油資源に不安を抱えているとされるアメリカが、8月8日に大統領がサウジ防衛を名目に議会承認を経ずに4万人の兵力のペルシャ湾派遣を発表、「砂漠の盾」作戦の発動を決意。それに応じるかのようにイラクはクウェートの併合を発表、「アッ」と言う間にイラク対自由主義世界への戦争へと発展していた。


 この頃日本は、日本の近代史上最大級と言われる好景気の絶頂期にあり、その好景気を背景に当時の内閣は長期政権を運営していた。だが、この当時の首相はこの頃ひどくなっていた年功序列的な政治力学により首相の座になれた凡百な調整型政治家に過ぎず、この難局を乗り切る能力は乏しいと見られていた。

 それを表すかのように、アジア同盟内や国連での決議にこそ慣例通り迎合していたが、イラクに対する自らの派兵となるとどうにも腰の定まらない対応を数日とる事となる。事が英米主導で運びつつあったので、なおさら腰は定まらなかった。

 そのような事もあり、鎌倉で隠居生活を送っていた私のもとへ進退伺をしてくるという事になっていた。この頃私は、議員時代と自分自身で絶頂と見ていた首相時代において、国内的に戦時宰相としての認識を受けていたらしく、西欧の軽率なメディアは『東洋のチャーチル』というニックネームすら贈っていたらしい。特殊なキャリア官僚から政治家に転向したに過ぎない身としては過分な評価という事だろう。何しろ私はかのチャーチルのように軍隊経験も従軍記者経験もなければ、銃弾の下をくぐったことすらない。ましてや、ブルドック顔でもないのだから。この称号は灰汁の強さとその容貌の点から、中華動乱を乗り切った宰相吉田茂の方がまだ相応しいだろう。


 さて、とにもかくにもこの時は目の前にいる現首相に元首相としての教訓を垂れてやらなくなったわけだが、一応首相としてもブレーンたちが考え出したのであろう腹案をいくつか持ってきてもいた。

 要約してしまえば、これ以上の軍備の派遣(イランに対する防衛的なもの以外)は行わずに、米軍主導の多国籍軍となるであろう連中に、戦費の援助と講和の仲介だけをするという中立案と、自らも多国籍軍の一員として巨大な軍備を派遣して、日本の存在を国際的にアピールすると共に、自国の権益の保持・拡大につとめようと言う積極介入案だ。

 私は、彼に何と『助言』してやるべきだろうか。


 

________________


 1.多国籍軍派遣を精力的に行う

  (Phase5-2 へ進む)

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 2.財政援助のみにとどめる

  (Phase5-e1 へ進む)

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