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八八艦隊1934 第三章・F.R.S plus  作者: 扶桑かつみ
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Phase 4-3:欧州帝国崩壊

 1989年(平成元年)11月10日、ドイツが総統制から大統領制へと移行、呆気なく自由主義へと転向してしまった。

 ドイツ第三帝国そのものの正式な終焉は、1990年8月19日のナチス党・一般親衛隊の一部によるクーデター未遂に端を発する1990年のクリスマスでの第三帝国の完全消滅、欧州共同体への移行が1991年12月8日だったが、実質的な滅亡はこの時だ。

 総統という第三帝国の精神的支柱を否定した時点で欧州帝国は崩壊していたのだ。

 

 1933年からたった半世紀で、20世紀の半分の時代を震撼させた帝国は、まるで静かに老衰死を迎えたように消え去ってしまったのだ。

 

 私が政治家として俗に言うところの「元老化」しつつあったこの頃、世界に突然平和が訪れてしまったのだ。

 まあ、何とも苦労の多い時期に私は在位していたという事だろうか。

 とにかく、少なくとも先進諸国間の全面戦争の危険は大きく低下したのは喜ばしい事だった。

  

 問題がないわけではなかったが、この時世界が喜びに満ちあふれていたのは間違いないだろう。

 まあ、本当に喜んでいたのは先進国と大国と呼ばれる国、それにこれらの国に密接につながる国々ぐらいだったかもしれない。

 大半の発展途上国やアラブの国々にとっては、あまり関係のない出来事だった筈だ。

 特に明日食べる食事をも知れぬ人々にとってはそうだろう。

 

 だが、少なくともニュークという下品極まりないものによって、人類が滅亡するという可能性が大きく低下した事は喜ばしい事だと思う。

 


 では、ここではなぜ欧州超帝国とまで呼ばれたドイツ第三帝国が、たった半世紀で崩壊したかについて世界(日米)との関りから少し見ておこう。

 

 ドイツ第三帝国は、1934年初代総統アドルフ=ヒトラーがドイツ総統という地位に就任した事がその興りとされている。

 ナチス党創設から遡ってもあまり意味はないので、これは妥当な点と言えると思う。

 

 そしてここからドイツの奇蹟の復興と呼ばれる大躍進があるのだが、実際は軍事・軍需に対する大規模公共投資による不景気脱出策と軍人増大により失業者が吸収されただけに過ぎず、経済原則を無視したこれらの政策により実際は1939年のポーランド戦の直前ドイツ経済は破産直前にまで悪化していた。

 1939年当時彼らは、自国経済を無理やり回転させる為に戦争を始めざるを得なかったのだ。

 状態こそ違うが、常に膨張する事で発展していたローマ帝国のようなものだろうか。

 

 彼らの軍事的冒険は大成功を納め、日本とアメリカが好き勝手に自分たちの近在で遊んでいる間に、「ケース・ホワイト」でポーランドを下したのを皮切りに、翌年の6月にはフランスを含めた西欧と北欧の過半を軍門に下し、その後英本土に対する攻略作戦こそ失敗に終ったが、返す刀とでもいうべき矢継ぎ早の攻勢で、ソ連という途方もない国土と強大な国力を持つ国をたったの2年で叩き潰し、英国に対する判定勝ちで第二次世界大戦をドイツの一人勝ちに持ち込むことに成功した。

 ドイツは危険な賭けに勝利したのだ。

 

 第二次世界大戦が完全に終ったのは1944年、つまり5年もの間戦争をしていた計算になる。

 

 戦争の勝利により欧州の全てを抱え込んだドイツは、その後近隣地域を法制度的に併呑し、1945年5月「大ドイツ帝国」、通称「欧州帝国」の建国を再宣言した。

 また、併呑しなかった地域、英国を除く欧州全土をも含めた経済・軍事同盟を締結し、これは後に「欧州条約機構 (ウィーン条約機構)」へと発展する事になる。

 

 だが、文明世界最高の栄光を掴んだはずのドイツのその後10年は、宇宙開発以外ではそれ程活発なものとならなかった。

 これは、自らが軍靴で蹂躙した欧州地域での人的・物的な損害がそれなりに大きかった事と、当初は自国以外の経済活動を国家社会主義独特の考え方で不自然に抑制した事に起因している。

 また、欧州中が大金を使って戦争を長期間行ったことも無視できない。

 この点では英国も同様で、英国に関してはアメリカに国家ごと身売りした事で明確に分かるが、自分自身が自陣営の盟主にして最強の存在であるドイツは、得意の公共投資と巧みな近隣支配でこれを表面上は見せなかった事から、資料が公開されるまでこの事は判明しなかった。

 

 そして欧州が停滞している10数年の間にアメリカと日本が大きく躍進してしまい、気がついたらアメリカには完全に追い越され、日本アジアとも肩を並べられているという屈辱的な力関係になっていた。

 

 ドイツ人達は、自らの侵略行為によるツケで最も重要な時期を失っていたのだ。

 この点は、第一次世界大戦後の英仏や日露戦争前後の日本財政の影響による経済停滞よりもはるかに悪かったのかもしれない。

 

 つまり、ドイツは戦争を起こしたことそのものが、崩壊の始まりと取ることができる。

 いや、第三帝国が成立したその時から崩壊が始まっていたのだ。

 

 だが、対外的には経済が停滞していた間ですら、派手な事ばかりをしていた。

 まさにドイツ民族こそが成しうる派手さだった。

 

 軍事と宇宙開発がその最たるものだ。

 そして、この二つの非常に金のかかる事業を半世紀続けた事は、ドイツと欧州の財政を常に圧迫し続けていた。

 

 軍事的には、中華動乱に対する介入を行い、キューバ危機でアメリカへ挑戦し、ビルマのジャングルでアメリカと共に辛酸を舐め、泥縄式にロシアと自らの退勢を決定づけたアフガニスタンへの武力侵攻へ傾き、その間に中東に必要以上にちょっかいを出し、その間継続され続けた日米とのあまりにも不利なニュークの開発競争を行い続けた。

 そして、どこか常識を忘れたかのような宇宙開発が軍事的行動と共に平行して行われた。

 ドイツの宇宙開発については書いてしまうと非常に長くなるので詳細については割愛するが、この宇宙開発こそが様々な軍事的冒険と共に、タチの悪い悪性の病気のようにドイツの国力を蝕んだのだ。

 

 要するに、やはりドイツ人は自滅したと言えるという事だろうか。

 

 だが、政治的には大成功を納めたと結論付けてよいだろう。

 彼らドイツ民族は、宇宙を目指す事で欧州統一から鬱屈していたイデオロギーの向け先を見いだし、それに向うことで日米と対抗する以上に、民心をまとめあげることに成功したからだ。

 

 この象徴として、結局果せなかった「火星有人探査」があるが、これが達成できなかったとしても、彼らが帝国を崩壊させるまでに月面に無理矢理とは言え有人基地を造る直前までに果した功績は、特に宇宙開発や宇宙の学術研究において日米など及びもつかない程偉大である。

 

 だが宇宙開発以上に、世界に挑戦し続けることにより大きな自負心を満足もさせていた。

 ドイツは宇宙をイデオロギーの為に目指したが、やはり軍隊の国でもあり続けた。

 

 そしてドイツは、ニュークの開発競争と共に自らの死期を速める事になる事業に1979年から取組む事となった。

 

 ロシアと共謀してのアフガニスタン侵攻と、イラン・イラク戦争へのイラクへの深い肩入れである。

 

 ドイツ人たちは、日米英の海洋国家連合に対して、蜜と乳の流れる大地である中東でさらなる挑戦をすることで、彼らの対ユーラシア包囲網を食い破るという戦略・戦術目標を果すと共に、石油のコントロールによる経済的優位を獲得しようとしたのだ。

 

 イラン・イラク戦争については後述するので、ここではドイツがなぜアフガニスタンという辺境に深く介入したか、その概要を見てドイツ崩壊に関する事柄をまとめたいと思う。

 


 1979年12月、ロシア連邦共和国軍は、自らの数少ない構成国である中央アジア諸国のタジキスタンやウズベキスタン各所から一斉にアフガン国境を突破した。

 

 この侵攻当初ドイツ軍の姿は、わずかな軍事顧問団と観戦武官以外は存在しなかった。

 この時この戦争はロシアにとっての戦争であり、国家社会主義陣営にとっては単なる地方紛争に過ぎなかったのだ。

 

 ではなぜこの時期にロシアがアフガンに侵攻したのか? 諸説ある。

 ロシア伝統の南下政策、ビルマでの失敗を取り戻そうとした、発展途上国での国家社会主義の勢力拡大のさらなる進展を図ろうとした、そして先述の海洋国家陣営に対する挑戦。

 だが、全ては付け足しに過ぎない。

 確かに何事も気宇壮大に考える楽天家達にとってはそういう側面は大いにあっただろうが、ごく一般的なロシア人にとってはそんな余裕のある問題ではなかった。

 

 ロシア軍侵攻の伏線は、アフガニスタンにおける1978年4月のクーデターによるタラキ政権誕生にあった。

 この政権は国家社会主義的な政策を進めようと、盟主のドイツと近隣のロシアと友好条約も結んだが、すぐにもイスラム教徒を中心に反乱が起き、内戦寸前の状態になっていた。

 

 ロシアのアフガニスタン国境沿いにはタジキスタン人やウズベキスタン人が住む地域が広がり、彼らはまた同じ民族がアフガニスタン国内にも住んでいたのである。

 そしてかれらは皆、敬けんなイスラム教徒であった。

 (この状況は今も変わっていない)

 当時、ロシアのブレジネフ政権は、既に記したように連邦内にアフガニスタンと同じ民族、しかも同じイスラム教徒を抱え込んでいた。

 そして隣国アフガニスタンで、イスラム勢力伸張による混乱が長引けば、いつそのイスラムの新しい波がロシア国内にも飛び火するともしれない。

 

 そしてそれはドイツ式国家社会主義を自国流にした独特なイデオロギーで国家をまとめているロシアにとって、到底受入れられるものではなかった。

 

 ロシアは怯えていた。

 79年12月、ブレジネフ政権は、ロシア南部と国境を接するアフガニスタンの安定をはかるためという名目で軍事介入を決行したのだった。

 

 あまり我々が表面的に教えられているロシア的とは言えないが、いかにも多民族大陸国家らしい行動と言えるだろう。

 彼等は恐れるが故に膨張するのだ。

 


 この軍事介入は、当初短期間で終るものと思われていた。

 少なくともロシア人たちはそのつもりだった。

 これは、ロシア軍がロクな備蓄物資の準備もせずに短期間用の兵站物資のみで侵攻した事からも明らかだろう。

 そして、アフガニスタンの首都カブール進駐までは実にスムーズに運んだ事もこの考えが正しかったように錯覚させる事になる。

 単なるデータ上の軍事力格差から考えれば、よく言われる例えで言うと「ハンマーで胡桃を割る」ようなものだったからだ。

 これが、欧米的価値観もしくは資本主義先進国どうしの戦争であったなら確かに短期間で終息しただろう。

 事実、一時期欧州で起こった民主主義運動に対する、ドイツの武力進駐はその通りになっていた。

 

 しかし、そうはならかった。

 予想外の伏兵、ムジャヒディンとの泥沼のゲリラ戦となったからだ。

 これは、アフガニスタンではなくイスラム勢力そのものが、伝統打破を一つの主義としている国家社会主義を敵視した事が原因している。

 また、伝統的に南下を伝統行事としてしまっているロシア人たちは、近隣のイスラム勢力からひどく嫌われていたという事も影響していた。

 

 このため、日本を始めとするアジア同盟各国や英米が乗り出してくる前に、大国の国家戦略を無視してイスラムの戦士達がアフガンへと駆けつけ、またアジア同盟というより、日本の半世紀にわたる近代化プログラムと自らの石油資本の力によりその頃安定した近代的イスラム国家へと脱皮しつつあった隣国のイラン国が独自に大規模な援助を発表、「スンニー派」、「シーア派」を越えての「ジハード(聖戦)」を宣言して、この戦いでイスラム世界の政治的主導権を獲得していた。

 

 また、しばらくするとアジア同盟側も明に暗にアフガニスタンの各ゲリラ組織を援助するようになり、地の利とそれなりの物資、さらには携帯用の優れた火力を手に入れたゲリラに対して、すぐにもロシア軍はおおいに苦戦する事になった。

 

 そして、もともと列強の中では国力に劣り、戦争の準備をまともにしていないロシアはすぐに根をあげてしまい、盟主たるドイツへの援軍を要請するに至った。

 彼らが独力で頑張れたのはたったの1年半に過ぎなかった。

 これに対してドイツは軍事援助でお茶を濁そうとしたが、ロシアがこのままでは2年以内に満州国境線に展開する部隊を転用しなければいけない、そうでなくても当地の備蓄物資を切り崩さない限りロシアは極度の財政難に陥りると今度は脅しにかかった。

 いや、脅しというよりは、すでに開き直りだった。

 

 しかたなくドイツも当地への派兵を開始する。

 1982年夏の事だった。

 この時派遣されたのは、ロシア軍からの報告を聞き、独自の分析もおこない用意された山岳師団と空挺師団の精鋭だった。

 一見彼らは有効に思えたし、実際投入当初はそれなりの戦果と成果を挙げた事から、これでようやく軍事的には安定できると考えられた。

 しかし冬には事態はさらに悪化していた。

 ドイツ人たちもロシア人ともどもアフガニスタンという泥沼にすっかりはまっていた。

 あまりにも陳腐な表現になるが、ミイラ取りがミイラになっていたのだ。

 そして現実はさらに厳しく、この言葉以上の状態にドイツを追いやっていく。

 

 半年後、ドイツの誇る装甲師団までもが投入された。

 兵員数2万人を数え各種装甲車両800両も揃える、世界中の先進国が震え上がる精鋭中の精鋭部隊だった。

 しかし、これをもってしても事態はあまり好転しなかった。

 大食らいの部隊であるだけに、輸送負担が格段に増したため事態をむしろ悪化させたと言ってもよかった。

 

 確かに本格的な重装備部隊の存在は、都市部の安定を確固たるものとしたし、首都カブールは曲がりなりにも安定させる事に成功していたし、日米が裏ルートから供給する歩兵用の対装甲兵器程度では、ドイツの誇る装甲車両は簡単に撃破もされず、それを操る精鋭たちもゲリラに対して少なくとも平地で後れを取るようなことは有り得なかった。

 

 だが、それだけだった。

 世界の屋根と呼ばれる地域に近い場所にあるアフガンの大地は、カブール近辺など一部を除けば切り立った山々が多く、東南アジアのジャングルとはまた違った意味でゲリラ戦に非常に向いており、近代戦で特に有効とされた装甲車両の運用できる場所は極めて限られていたからだ。

 

 また、高い効果を挙げると期待された航空戦力も、それ程大きな成果を達成してはいなかった。

 イスラムゲリラはロクな航空戦力を持っていなかったが、地の利を利用したゲリラ戦と洞窟陣地、そして日米から供給される極めて安価な携帯用対空兵器の活用で対抗し、独露に非常にコストパフォーマンスの悪い戦いを強いていた。

 特に回転翼機の損害はひどかった。

 


 イスラムゲリラと欧州帝国の戦いは、その後もダラダラと続けられた。

 そして侵攻開始から5年もすると、もうロシアはいかなる意味においても撤退以外何もできなくなっていた。

 ロシア帝国やソ連時代と違い豊かなウクライナやベラルーシを持たないロシアにとっては、長期の軍事作戦など手首を切りその腕をぬるま湯に浸しているようなものだったのだ。

 

 現に1984年頃以降は、露満国境・オホーツク海でのスクランブルの極端な低下という目に見える悪影響をもたらしていた。

 

 そしてこれは、ドイツにおいても程度の差こそあれ似たようなものだった。

 ロシアより基礎体力が大きかったが、アフガンの大地は欧州のドイツ人にとっては地の果てのような場所であり、気の遠くなるような峻険な地での陸路による大軍の維持は、ドイツの国家事業である軍備の増強と宇宙開発以上に国家財政を蝕んでいた。

 これについても、1986年に晩年を迎えようとしていたハイドリヒ総統の口から、撤退をほのめかす言葉が公式に出された事から見ることができる。

 もうこの時点でドイツは、名誉ある撤退か見栄を張ったまま国家財政の破綻の選択を迫られれつつあったのだ。

 

 なぜビルマでの英独や日本が補給戦でそれ程苦しまなかったのに、独露が数年で根をあげてしまったかと疑問に思われる方もいるだろうが、これを人的パフォーマンスで簡単に見ると1万トンの積載量の船がそれこそ数十人で運用可能なのに、単純に同じ輸送量を陸路で持たせるには10トンの大型トラックが1000台必要、つまり交替用の運転手を考えるだけで2000人もの人間が必要と言えば、多少はご理解いただけるだろう。

 これらの差のため、一般的には海路と陸路の輸送コスト差は10倍あると言われ、人的資源の疲労度については計数的な差となる。

 

 これを極端に表現すれば、アフガンでの1年は、ビルマでの10年に匹敵するという事だ。

 なんとも、まるで竜宮城のような話しにすら思えるが、実際の統計数値も似たような数字を示している点からも確かな事のようだ。

 


 そしてビルマでのアメリカ人のように選手交代をしてくれる者のいないドイツ人とロシア人のアフガンでの終末は惨めなもとなる。

 

 89年2月13日、ギガント大型輸送機がイスラムゲリラのスティンガー携帯ミサイルを避けるように、ら旋状に急上昇しつつカブール空港を後にした。

 この日、ドイツ人達は何も得るところなくアフガンの大地を去ったのだ。

 

 アフガンでの戦いでロシアは完全に傾き、ドイツも国家財政を破綻に追い込むほどの戦費をつぎ込む事になり、100万人以上のアフガン国民と1万5000人の欧州兵の命を奪っただけが、アフガンの戦いでのこの時点での収支決算だった。

 

 そしてこれが、同年のドイツの大統領制移行と91年の第三帝国滅亡につながったと言えるだろう。

 




■Episode. 5:1991年1月

 ビクトリー・ロード(湾岸事変) 


 ●Phase 5-1:イラン・イラク戦争 ▼



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