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親指ナイト  作者: 真中39
◆4章:廃墟と笛吹き、断罪と消滅
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9.

 


 シナンはまず、隣国のネドでもイースでもない国と戦争を始めた。シナン城の中は一気に慌ただしくなり、兵士や女中が焦った顔で走り回るのが常になった。

 戦争の詳しい状況なんてエイリには分からない。ただただ、エイリはメルンが心配だった。シナン王の傍らに立っているメルンを見かけることがあったが、彼女はエイリを見かけるたびにニヤッと笑うばかりで、どうやら元気そうであると見えるだけだった。


『どきなさいよ、この余所者の子供が!』


 シナン城の中庭はそんな中でも静謐で、エイリは時間が余るたびにここへ逃げ込むようになっていた。

 だが、シナン王の寵姫達は戦争の真っ只中だというのにお茶会を開催して、お互いに牽制をし合うことは変わりなかった。

 メルンの嫌う停滞を招くだけの行為を、エイリも好きにはなれないでいる。


 そんな彼女達は相変わらず、エイリを見つけると罵詈と扇子を飛ばしてきた。

 エイリは足元に落ちた扇子を踏みつけて、彼女達を睨みつけてから中庭を後にしようとした。


『ほんと、可愛くない子!』

『寵姫の役目も果たさないなんてほんと、金食い虫ね。わざわざ隣国から連れてきたって言うのに』


 聞こえてきた声にエイリはカッと頭に血が上るような思いがした。

 エイリの意思なんてそこには一つもない。ただ勝手にシナン王が連れてきて、勝手に大人になるのを待っているだけだ。


『……良き寵姫になるように』


 シナン王は背が高く痩せていて、白茶っぽい髪と色素の薄い様子で、どこかに溶けていきそうなほど影の薄い男だった。養子として連れてこられたエイリに初っ端にこれだけ言って、マントを翻して後は目も合わせずに立ち去った。

 今思うと、なに神妙な顔して言ってんだ!悪趣味男が!とエイリは怒鳴りつけてやれば良かったと思う。その時は男女のことなど分からない5歳の子供だったのだけど。


 エイリはすっと息を吸い込んで、振り返らないまま、怒りを怒鳴り声に反映した。


『うるさい! 金食い虫はお前らだ! ……くだらないお茶会なんてやめればいいのに!』

『……まあ』


 寵姫たちが言葉を失ってからまた悪態をつく前に、エイリは中庭から逃げ出した。胸がドキドキした。

 本当はエイリは、彼女たちにこんな風に言い返すことは初めてだったのである。エイリは何もかもに怯えながら城の中で生活していたが、最近はそんなことも少なくなってきた。体が大きくなったからではない。自分にはメルンという味方がいるからだと、エイリは気づいていた。






 シナンの戦績は良くないらしい。城の中は次第に剣呑な雰囲気が満ち始めた。

 いっそうと忙しくなる城内で、華やかな装いで浮いていた寵姫たちは、最近お茶会を開催するのをやめたらしい。

 エイリにとっては小さな僥倖だった。これで思う存分中庭で過ごすことができる。後はメルンがいれば、それで完璧なのだけど。

 あれから会えていない近衛騎士に想い馳せたところで、エイリは月の明るい夜の中庭に移動を始めた。


『……』


 エイリはメルンに倣って、城内の誰も通らない細い廊下や城壁に沿った道などを発見するようになった。シナン城は奥まった造りで、本当に誰も知らないような抜け道がたくさん存在していた。単純に冒険しているのが楽しいのと、子供の身体は淑女らしく静々と動くような昼間の教育には辟易していたからだ。

 小さな部屋のくり抜いた窓に足をかけて、また奥まった廊下の端に身を飛び出したところだった。


『いやああああ!』


 女の甲高い声がきこえ、エイリは小動物のように身を縮こめて壁の隙間に隠れ込んだ。

 なんだろうと、息を潜めて壁からひっそりと頭だけを出して悲鳴の方に視線を飛ばす。


『……!』


 遠くの廊下の角から、裸の女が飛び出してきた。

 エイリは目を丸くした。裸の女は目の周りが青くなっており、肉付きの良い身体は所々ぶたれたように真っ赤になっていた。


『ひっ!』


 女は走ったが、すぐによろけて石の廊下に転がった。そのあとからすぐに、シナンの近衛騎士が出てきて彼女を捕まえた。


『逃げるな!』

『いや!』


 エイリは心臓が口から飛び出しそうになっていた。そしてさらに、角から現れた裸の男に呼吸を止めるほど驚いた。


『いや……許してください……やめて』

『……』


 シナン王だ。だが本当にそうなのか、瞬時には判断できなかった。それほどの変わりようだった。

 骨が浮くほど痩せた身体に、こそげたような頬。身体中の力が全て目にいってしまったかのように、目だけを爛々と輝かせている。

 女の髪を急に引っ張り、シナン王は来た方に戻っていった。女は引っ張られながらすすり泣いて、時折悲鳴をあげ、廊下の角に消えていく。近衛騎士はその後を慌ててついていった。


『……』


 再び静寂が戻ったシナン城の一角で、エイリは動けないまま呼吸だけを荒くしていた。

 今見た光景を、勘の鋭いエイリは一瞬で理解していた。


 あの人は……前、私に扇子を投げてきた寵姫の(ひと)だ。


『ううう』


 気持ち悪さと恐怖でエイリは縮こまった。寒くないのに身体の震えが止まらない。

 寵姫の役目とは、あれなのか。あんな風に人としての尊厳もなく虐げられるものなのか。子をなすためのものではなかったのか。

 エイリは寵姫の役割について、自分なりに理解していたつもりだった。シナン王は好きになれなかったが、短い時間、我慢して過ごせば良いと思っていた。子をなすだけの役割であるのならば、最低限果たして後は、メルンの言う通り、自分の好きなことができるように努力をすれば良いだけだと。

 だめだ、と思った。自分には到底出来そうにない。


 ……でも、いずれ、私はああなるんだ。


 諦めの感情に喉の奥がピリピリと痛み、エイリはその場で嘔吐した。それほどまでに、11歳の少女に今の光景は強烈だった。

 自分の運命の悲壮さに、メルンに会いたいと、エイリは思うだけしか出来なかった。






 戦争は激化の一途を辿った。城内の人間は見るからに少なくなっていき、皆から覇気が失われた。行き届いていた城内の掃除は滞り、埃と薄暗さは皆に良くない予感を感じさせるのを助長させた。

 エイリは再び怯えながら城内を過ごすようになり、極力人に合わないように行動するようになった。

 けれども、皮肉にも、エイリの存在は忘れられているわけではなかった。


『話があります』


 教育係のユエに呼び出された時、エイリは嫌な予感に従うまま、城内の奥まった廊下に逃げ出した。シナン王が一旦城に帰還していると言うことが決定打だった。

 膝が震えてうまく走れない。吐きそうだ。


 次は私の番だ!


 ありえないと思ったが首を振って打ち消した。エイリは初潮も迎えていない。だがそもそも、あの夜の男はあの寵姫に子供を孕ませる気があったようには思えない。つまりエイリでもきっと、良いのだ。


『エイリ!』

『!』


 そこで何よりも聞き慣れた声に、エイリはびくっと足を止めた。廊下の端から、蒼白な顔をしたメルンが飛び出してきた。


『メルン!』


 彼女の胸の中に泣きながら飛び込んだ瞬間、彼女の温かさを感じる間もなく。

 エイリは身体を引っ張られて廊下に引き倒された。


『やっと見つけたぞ!』


 複数人のシナンの兵士に抑えられる。彼女を見下ろすメルンに、エイリは頭の芯が冷え切ったように感じた。

 エイリはメルンに誘き出されただけだったのだ。


『……』


 エイリの絶望の表情を見て、メルンは顔を歪めて何かを言いかけたが、その前にエイリは引っ立てられた。

 イライラした兵士たちに乱暴に床に転がされた時には、すでにそこはシナン城の大広間だった。


『……見つかったか』


 赤い絨毯の先に、げっそりと痩せたシナン王が立っていた。あの夜見た光景に、エイリの身体が恐怖に縮こまる。

 大広間にはエイリを引っ張ってきた兵士と、女中が数人と、教育係の初老の女性であるユエがいた。


『お手間をかけさせて申し訳ございません』

『……寵姫はこれで最後か』


 エイリの腕を左右からそれぞれ引っ張り、兵士は彼女をぐっと上に向けさせて謝った。

 シナン王は話しながらゆっくりと近づいてくる。


『お言葉ですが、王』


 ユエが汗をかきながら手を揉んだ。


『正しくは彼女は未だに寵姫ではございません。貴方様の養子でございます』

『ではこの時から寵姫と変えろ』

『……は』


 一瞬で首を垂れたユエは、エイリの目には入らなかった。

 エイリはただメルンに裏切られた絶望と、寵姫が全員いなくなってしまったという事実への恐怖に、目の前のシナン王を見上げるばかりだった。


『今夜私の寝所に連れてこい。……逃げるようなら同じく引っ立てろ』

『……は』


 シナン王は一瞬だけエイリと目を合わせた後、踵を返してその場から立ち去ろうとした。

 エイリがぎゅっと目をつぶって諦めようとした瞬間、エイリの目の前に人影が飛び出した。


『ーー大丈夫だ、エイリ』


 メルンだった。

 彼女はぎょっとした兵士の腕を抑え、兵士が腕を離すまで毅然と彼らの腕を離さなかった。


『メルン……?』

『大丈夫だ、エイリ。きみはわたしが守ると言っただろう』


 兵士が離れ、床に崩れ落ちそうになったエイリをメルンが抱きとめた。

 エイリは何が起こっているのか理解できず、混乱した頭で周囲を見回す。

 異変に女中は口元を抑え、シナン王は足を止め、無表情のまま振り返った。


『エイリ、良く聞くんだ。きみはまだ子供だ。こんな仕打ちを受けていいはずがない』

『……メルン』


 呆然としたエイリを待ってくれるほど、メルンには余裕がないようだった。その仕草が示す通り、周囲は慌ただしく動き出した。

 ユエが肩を怒らせてメルンを糾弾し始める。


『メルン! 貴様はまたエイリ様を甘やかして……! 貴様がその様子だからエイリ様がつけ上がるのだ!』

『いいか。エイリ?』


 メルンはエイリの肩を掴んだ。


『きみの代わりに、わたしが今夜王の寝所に行くと伝えるんだ』

『!』


 エイリは目を剥いた。

 メルンはエイリに力強く笑いかけた。彼女はどうしようもなく大人だったのだと、頭のどこかで声がした。


『大丈夫だ。わたしは大人だ。きみよりずっと上手くやる』


 口がカラカラに乾いた状態で、エイリはそんな、とただそれだけ言った。混乱で頭がおかしくなりそうだった。

 ぐるぐる巡る思いの中で、あの月夜に見たシナン王の顔だけが、強く頭に浮かんだ。


『……メルンは何を言っている』


 静かな声でシナン王がエイリに問いかけた。

 エイリは目だけを動かして、メルンの肩越しにいる男とメルンを交互に何度も見上げる。

 周囲も張り詰めた様子でエイリの言葉を待っていた。メルンの言葉を伝えることができるのは、今この時においてはエイリだけだった。


『なんと言っている。答えろ、娘』

『……おい、答えろ!』

『エイリ』


 エイリは泣きそうになりながら首を振った。


 そんな、こんなのって、あんまりだ。


『エイリ。わたしは大丈夫だから』

『エイリ様!』


 こわい、こわい。


 エイリの頭の中はただそれだけに埋め尽くされた。


『……め、メルンは、私の代わりに自分が王の寝所に行くと言っています』


 震える声で、エイリは言った。


『なんと?』


 そこで初めて、シナン王は意外そうに片眉を釣り上げた。

 女中は互いに顔を見合わせ、ユエは頭を抱えて溜め息をついた。


『いいだろう。無表情な女というのもたまには悪くない。恐怖で震える者は見飽きた』

『……は』


 そう言って今度こそシナン王は退出した。兵士は彼に付き従い、残された女中たちはヒソヒソと言葉を交わしている。

 ユエが苦虫を噛み潰したような顔で、ゆっくりとエイリとメルンに近寄った。


『では、メルンよ。支度をするぞ。分かっているが、楽器の類は特に寝所には持ち込ませないぞ』

『分かった。……と伝えてくれるか、エイリ』


 エイリはガタガタと震えて、虚ろな様子でメルンに従った。

 ユエたちを待たせておいて、メルンは再度エイリを抱きしめた。


『大丈夫だ、エイリ。ほら、前に護身術を教えた時、きみはわたしに絶対に敵わなかっただろう。わたしは大人だから、絶対大丈夫だ』

『メルン』

『すぐに帰ってくるから、そうしたら中庭でケーキでも食べようじゃないか。用意をしておいてくれ』


 メルンはくしゃくしゃとエイリの頭を撫で回して、振り返らずにユエと共に大広間から出て行ってしまった。


 わたし、なんてことを。


 今更自分のしたことの重大さを頭が理解して、エイリは今度こそ涙をボロボロとこぼして立ち上がった。


『メルン!!』


 女中に数人がかりで押さえつけられ、エイリが喉が枯れるまで叫び続けた。

 メルンは聞こえているはずなのに、決して振り返ることも、反応することもなかった。


 メルンはすぐに戻ると言ったが、エイリと彼女が再び会えたのは1年後。

 シナンは戦争に負け続け、他の国、特にイースとの関係が悪化し始めた頃だった。




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