8.エイリと城の善き騎士
◇
『はじめまして、わたしはメルン。きみの付き添いをすることになった』
5歳のエイリがシナン城に連れてこられてから、3年が経った頃のこと。今日も怖い教育係に叩かれると思っていたエイリは拍子抜けして、豪奢だが薄暗い勉強部屋で彼女を見上げていた。
メルンと名乗った女性は、近衛騎士の厳しい制服を着て、顔つきも厳しい。もっと怖い人だとエイリは一瞬思ったが、メルンが膝をついて目を合わせてきたことに、少しだけ安心した。
『きみがエイリだな。わたしはユエのようにきみに勉強を教える気はない。ちょっと生きやすい方法を教えるだけだ』
『生きやすい?』
『そう。何事も前向きに捉えようって意味だ』
少しだけ蠱惑的に笑ったメルンは、とても美人な人だと、エイリは思った。
それからとても少しずつ少しずつ、時間で言うと1年もの長い時間をかけて、エイリとメルンは距離を縮めた。エイリはシナン人のメルンに対してひどく警戒をしていたが、メルンは子供と話をするのに慣れていた。エイリは、子供向けにやさしく接し、その実対等に話してくれると思うメルンを、ゆっくりと信頼した。
メルンの方針はシンプルで、彼女は常々こう言っていた。
『大前提として。我々は世間的に、わりと可哀想に思われる境遇にいる。そして実際に可哀想だ。ツイてない』
『……』
『だがまあそこで、仕方ないね! と考えるべきだ。可哀想な事実をいくら突き詰めても、結論は自分が可哀想だということでしかないからな。時間の無駄だと考える。……だから反対に、ちょっとでも良くなることを考えて行動しよう』
シンプルだが理屈屋であると、エイリは思った。
そう言いながらメルンは、シナン城の馬舎の前で指を立てた。
乗馬の練習をしようと連れ出されたエイリはとても不機嫌で、対してメルンは無言で抗議するエイリを論破したと勝ち誇っている顔である。
『つまりだ。エイリ。世の中、馬に乗れない女の子の方が多い。ある日急に、馬の速さで逃げなければいけない状況が来るとしよう。その時に生き残れる女の子はエイリ、きみだけだ』
『……屁理屈だよ』
『まあ、そう言うな。わたしは滅多に近衛から離れられないからな。幸運なこの日に感謝し、きみに生きるすべを教えていると言うわけだ』
『私は、メルンと中庭で遊びたかったのに!』
地団駄を踏むエイリは、本当に悔しい思いをしていた。
エイリが唯一シナン城の中で居場所を見出した中庭は、寵姫達が威張り散らしながらお茶会を開いているのが常で、子供は引っ込めと怒られるのがほとんどであった。必然的に、休みの少ないメルンと一緒に中庭に行ける日は、なかなか来なかったのである。
『やああああ!』
『頑張れ! エイリ!』
メルンはわりと他人事のように、馬からずり落ちそうなエイリを応援している。
エイリは歯を食いしばりながら、メルンの言う状況が来ることを願って、ヤケクソになりながらひたすらに馬の首に縋り付いた。
『馬舎長さん。ありがとうございました』
ぼろぼろになったエイリを笑いながらひとしきり撫でたあと、メルンはエイリを伴って馬舎を管理する男性に礼を言いに行った。
と言っても、実際に礼を言うのはエイリである。
『借りた馬は元の場所に繋いでおきました。メルンもありがとうと言っています』
馬舎長は気味が悪そうにエイリとメルンを眺めたあと、『しっ』と言ってから手で払うような仕草をした。
メルンは構わずに、頭をきっちり下げてから踵を返して歩き出す。
エイリは、彼女の手をぎゅっと握って寄り添った。
『いつもすまないな、エイリ』
『ううん』
メルンは、子供以外と意思疎通が出来ない。
彼女の言葉は大人には聞こえず、彼女の表情は大人には無表情にしか見えないのだと言う。ボディランゲージも筆談も、行おうとすると、大人には理解できないのだと。
シナン城の中でこうやってメルンと言葉を交わすことが出来る者は、実はほとんどいなかった。
『笛で人を操れるこの力の、代償だな』
『……』
メルンには普通の人間にはあり得ないことが2つ起きていた。
メルンは腰に下げた笛で、音色を聴かせた人間を意のままに操ることが出来た。と言ってもエイリがその力を見たのは1回だけで、対象はエイリにイタズラをしたシナン兵だった。メルンが笛を奏でると、彼は自分から皆の前で素っ裸になり、踊りながら廊下を走り回って皆を青ざめさせた。
『わたしは笛さえあれば、どんな人間でも意のままに操ることができる。わたしはこの力を買われて近衛騎士になったんだ。正直に言うと、周りの皆がわたしを気味悪く思うのはその通りだと思うが、やっぱりとても辛い。……だがまあ、仕方ない』
『……メルン』
メルンはシナン城の中で浮いていた。無表情のまま意思表示が出来ない、美しい近衛騎士。エイリにあてがわれたのも、メルンの特異な存在故だった。
エイリは最初、メルンを可哀想な人だと思った。周りの人に話を聞いてもらえないことがどんなに寂しいことなのか、エイリは知っている。
『……メルン、あのね、でもね』
『?』
『でも、貴方にその力があったから、私はメルンに会えたでしょう? 私、良かったと思うよ。め、メルンにとっては良くないことかも知れないけど……』
メルンはにっこり笑って、エイリの手を強く握りしめた。
『良い生き方だな、エイリ。それでいい。きみは素直で明るくて良い子だ。きっと幸せになれる』
『……』
エイリは返事をせず、メルンの腰に手を回して、一緒に歩き始めた。
中庭に行こうと言い続けて、大分時間が経ってしまった。
エイリは11歳になり、城の中で時たま、気味の悪い視線を感じることが増えた。除け者にしているくせに、何でそんな目で見てくるのか、エイリには理解が出来ない。
メルンとの交流は相変わらず続いたが、彼女は以前より忙しくなった。城の中も少しずつ不穏な空気を帯び始め、ひたひたと戦争の気配を皆が同様に感じ始めた。
『メルン! ……あれ?』
やっとメルンに会えたと思ったある日のこと。
シナン城の広い廊下の一角で、彼女は茶色の髪の男性を後ろに伴っていた。というよりも、メルンはエイリを探していて、男性に伝えて欲しいことがあるのだと察せられる。
『こ、告白されたんだ』
『え?』
メルンはちょっと頬を染めて、焦りながら顎に手を当てた。
『国王お抱えの楽団員の方だそうだ。笛を吹くわたしがその、綺麗だと言われた』
『こんにちは』
メルンが困ったように話しているのが聞こえない男性が、腰を折ってエイリに目を合わせてきた。眼鏡を掛けた線の細い、どこか優雅な雰囲気のある男性だ。
エイリは恐る恐る頭を下げ、男性は自らをガクと名乗った。
『君がエイリさん? メルンさんの伝えたいことが君にはわかるのだろう? 彼女が僕の告白をどう思っているのか、良ければ教えてくれないか』
メルンを見上げると、難しい顔で、ただ嫌ではなさそうに顔をしかめている。
エイリはメルンがこんなにはっきりしない顔をしているのを初めて見た。
『……こんな無表情女のどこがいいのか、わたしにはよく分からん』
『……メルン』
メルンにも分からないことがあるらしい。
一本気ではっきりした性格の彼女が困っているのを見て、エイリも一緒に困ってしまった。
苦肉の策で、エイリが後日メルンの返事を手紙にしたためてガクに渡すという方法をエイリは思いついた。これならきちんとガクに内容を伝えられる。
メルンは眉尻を下げながら承諾し、ガクは意外にも廊下から飛び上がって「わあっ!」と叫んだ。
「本当かい!? いや、よかった! 鬱陶しがられていると思ったから! 真剣に考えてくれるってだけで嬉しい!」
ビビるエイリの手をぎゅっと握って、メルンには手を振ってから、ガクはスキップしながらその場から去っていった。
『メルン』
『……困った。いや、情けないところを見せた』
メルンは頭をかきながらエイリに謝った。
『なんで謝るの?』
『……』
メルンはややあって、気が抜けたように肩を落とした。
エイリにはその時、メルンが年端も行かぬ少女のように見えて仕方がなかった。
『……きみには見せられない姿だと思ったんだよ。わたしはきみに、よい生き方を教えると言っただろう? ……フォローまでしてもらって……』
『別にいいよ! それよりほら、返事を考えなきゃ』
『いや、後にする』
首を傾げたエイリに、いつもの調子に戻ったメルンは長々と、エイリは護身術を身につけるべきだと語り始めた。
それから、しばらくして。
『なんでよ!』
それからメルンはシナン城の兵舎で延々とエイリに護身術の稽古をつけ始めた。
エイリは全然興味がなかったので、メルンの言う万が一の状況のためにというのは納得できたけど、どうしても不機嫌になった。メルンが割と本気で技をかけてくるのが痛くて腹が立ったのもある。
『ほら! エイリ!』
『やああああ! ……私はメルンと中庭でお茶会がしたかったのに! ガクの返事を一緒に考えようよー!』
ぼろぼろになったエイリを、また笑いながら撫でたメルンは、汗を拭きながら兵舎の壁に寄り掛かって座り込んでいる。
『返事まだしていないんでしょう? あんまり待たせると悪いよ』
『……うーん』
『ねえ!』
怒り出したエイリの前で、メルンはいつのまにか頭を抱えていた。
『返事……しなきゃいけないかな』
『はい?』
『もう忘れてるよ……きっと』
エイリは仁王立ちした。
『何言ってるの! あんなに嬉しそうにしてた人が忘れるわけないでしょ!』
『うう〜……』
『メルン、はっきりしないのはダメだよ。正直に言えばガクさんもきっと分かってくれるんじゃない?』
『ううう』
いつもはあんなにきっぱりした態度のメルンがこんなに情けない様子になるのに、エイリはだんだんと慣れていた。メルンだって大人だからと言って、何でもできるわけではないのだ。
『わかった……考える……次に……』
『メルン!』
『ぜ、ぜったい考える!』
溜め息をついたエイリに、メルンは赤面した。
……可愛い人だなあ。
こんなに可愛いのに、それがあの優しそうな男性には見せることが出来ないのだと思って、エイリはとても残念に思った。
と、そこで、メルンの寄り掛かったすぐ横の壁に、突然弓が突き立った。
『子供がぴーぴーうるせえぞ! 遊びに来てんなら帰れ!』
びくっと跳ねたエイリを庇うように、メルンが素早く立ち上がった。
練習用の弓を放ったシナンの兵士は気が立っているらしく、エイリとメルンを憎々しげに睨みつけている。
『……そうだな、帰ろう。借りていた時間ももう終わる』
メルンは兵士に頭を下げ、エイリも怯えながら彼女に倣って頭を下げた。
『やっぱ気味悪』と呟く声を背中に、メルンは肩を抱いたエイリに言う。
『皆、特に兵士は気が立っている。気をつけよう』
『……メルン』
『?』
『戦争が起こるって、本当?』
エイリは周囲の空気の変化に敏感な子供だった。城内の人間たちから次第に笑顔が消え、ひそひそと国勢を嘆く声も明晰に聞き取っていた。
『せ、戦争が起きたら私はどうなるの? また別の国へ行くの?』
『……エイリ』
『わ、私、どこへ行っても大丈夫だけど、メルンと離れるのは嫌だな。……なんて』
エイリは言ってからえへへ、と頭を掻いて誤魔化したが、メルンは一笑もせずにエイリに相対した。
『エイリ。大丈夫だ。きみはわたしが守るよ』
『メルン』
『……大人を頼っていいんだよ、エイリ。大人は子供を守るものだ』
エイリはちょっと涙が出そうになった。優しいことを言ってくれるメルンだけど、この言葉に、殊更にエイリは安心したのである。
『たしかに、戦争が始まりつつある。城内はもっと余所者に厳しくなり、きみはつらい思いをすることも増えるだろう。でも、自分が一番可哀想だと卑屈になってはいけない。何か現状をより良く進めるために出来ることはないか、常に考え続けるんだ』
『……うん』
『それでも、どうしようもないときもある。そのときはわたしの出番だ』
頼れ、とメルンは胸に手を当てた。
エイリはガクガクと頷いてから、メルンの胸に飛び込む。彼女の温かさに涙がこぼれた。
なんて心強いのだろうと思った。実際にメルンがエイリを守れるかどうかより、そう言葉にしてくれる誰かがいることが、エイリには嬉しかったのである。
『メルン、今度は、絶対に中庭に行きたい。ガクさんにちゃんとした返事を書こうよ』
『わかった』
『あとね、甘いケーキが食べたいの。お茶会は嫌いだけど、可愛いケーキは羨ましい』
『わかった。約束だ』
ぶつぶつと言うエイリを、メルンは抱きしめ返し、穏やかに微笑んだ。
その約束が果たされることはないことをエイリが知るのは、彼女が12歳になった頃だった。




