7.イェッラ・パイパー
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しとしとと雨が降り続ける夜更に、ジィリアとの約束にあるデジデリ遺跡を、フチとエイリは訪れた。デジデリ遺跡は石積みの古い建物が半壊したものがいくつも寄せ集まった遺跡であり、観光地だと言うのに静かで冷たい不思議な空気を持つ場所だった。夜更なので当然のように人はいない。ジィリアが待っているような雰囲気どころか、生きているものすら何もいないような、そんな不気味さがあるような気がする。
フチはエイリに何度も外套をもっと深くかぶれと言っているのに、彼女はしょっちゅうフードをずり下げながら、髪が濡れるのも構わずに遺跡のあちこちを見回している。
仄白く見えるその顔には緊張が隠れているのを、フチは知っていた。
「意外と明るいね。観光地だから色んなところに灯りがついてるね」
「迷路みたいだな。エイリは方向音痴じゃないな?」
「……フチってほんと、笑えない冗談言うよね」
笑ってほしいだけなのにな、とフチは少しだけ落ち込んだ。
『……フチは、今度はエイリさんのために生きていくのね』
別れ際、寂しそうにジィリアはフチを手の平に乗せて告げた。再三の説得にフチが応じなかったので、半ば嫌味のように彼女は言葉を選んでいる。
『アンリのためには生きてくれないのね』
フチは頷いた。
アンリもジィリアも大切な仲間だとは思っている。だが彼にとって、エイリと別れてイースの王宮に戻る自分は、どうしても想像できなかった。エイリがどこへ行きたいと言うのかはわからない。彼女にはたくさんの可能性があった。そしてそれを手伝いたいと、フチは心から思っていたのである。
だからこそ、逆境に挫けずに自分のやりたいことを見出し、その方法を模索したエイリに、フチは少なからず驚いていたし、反面、この娘はそういう娘だったと、改めて思う気持ちも強かった。好きだと思った。エイリの強さが。
「もうすぐ約束の時間だね」
「俺は引っ込む。……何かあったら教えてくれ。俺も気づいたことがあればすぐに伝える」
「うん」
エイリは外套を口元まで引き上げ、フチはその中に外からは見えづらいように隠れた。
エイリは遺跡の中で、大きく開けた広間の近くに、壁に背をつけるようにして立っている。
緊張に固まったエイリの冷たい首筋に、フチは温度を与えるように寄り添った。
「……」
痛いほどの静寂が、どれほどの時間、経っただろうか。
「!」
広間に人影が現れた。女性にしては背の高いその姿は、間違いなくジィリアのものだ。
「エイリさん」
「ジィリアさん……?」
外套を被ったジィリアは、虚ろな目でエイリを見ている。
フチはゾッとした。あんなジィリアは見たことがないはずだ。
「来て……くれたんですね」
「ええ」
エイリも異変を感じ取ったのか、喉を鳴らしながらも平静を装い、壁から身体を出してジィリアに相対した。
「フチの失ったものを知りたいでしょう? ……こちらへ」
フチは盛んに周囲を確認した。とてつもなく嫌な予感がする。この遺跡の静かさが、誰かが息を潜めているような不自然を帯び始めていた。
手招きしたジィリアに、エイリは首を振った。
「いえ、その前に、私は……貴女がそれを私に教えてくれると言う理由を、知りたいですわ」
「……それも、こちらへ来れば教えて差し上げましょう」
「……」
「早く来い!!!」
ジィリアの金切り声に、エイリはびくっと身体を揺らした。
フチは素早く声を上げてエイリの外套にしがみついた。
「エイリ、飛べ!」
「!」
エイリは反射的に身体を壁の後ろへ移動させ、それと同時に爆発音に地面が揺れる。
「……!?」
「しくじった……」
どこかから聞こえる知らない男の声に、フチはエイリのいた地面を見て息を呑んだ。
陥没した石の床の中央から、煙がシュウと音を立てて空中に揺らいでいる。
誰だ!?
これはもしかしなくても、国が使う規模の爆弾だ。こんなところで見られるものではない。
「エイリ! 大丈夫か!?」
「……」
「エイリ?」
エイリの身体が先程とは比べようもなく硬直している。その視線の先は、ジィリアの後方の物陰から出てきた男に注がれていた。
「誰か連れてきたのか? エイリ。また身代わりにする気だなあ」
線の細い、眼鏡を掛けた中年の男だった。茶色い髪に赤銅色の瞳ーーシナン人だ。黒い外套を被り、何か長い棒のような物のを右手に抱えている。
何故こんなところにシナン人がいるのかという疑問以前に、フチはエイリの様子に驚愕した。
「……」
がたがたと震え、エイリは呼吸も忘れたかのようにその男を見つめている。
「驚くよなあ。忘れたかったよなあ、エイリ。僕はずっと会いたかったよ」
「……ガク」
エイリの震える声に、ガクと呼ばれた男はにっこりと微笑んだ。
「なんで……」
「なんで? 探したに決まってる。ずっと殺してやりたいと思ってたんだからなあ」
フチは唇を噛んで素早く頭を回転させた。
なんだ、こいつは。どうやって爆弾なんて爆破させたんだ? ーーエイリとどんな関係だ?
ガクという男は優雅にすら見える仕草で、痩せ細った手を掲げた。そこでようやく、彼が持っていた細長い棒の正体が判明する。
笛だ。縦笛。
フチがそう認識した瞬間、エイリがああ、とかうそ、とか認識できない高い声を出した。
「なんで、なんで!」
「エイリ?」
「なんで貴方がメルンの笛を!」
ガクの表情が、口の端がキューッと釣り上がった不気味な様相を呈した。
「メルンがお前を殺したいと思ってるからだ。だから彼女は、愛する僕に力を与えてくれた……」
「ちが、」
「黙れ!!」
「!」
「どの口が言うんだ、この殺人者!!」
エイリの呼吸が過呼吸かと間違うほどに荒い。彼女にはもう、フチの声など聞こえていないように見えた。
唾を飛ばして叫んでいたガクは急に笑い出した。その様に反応しないジィリアも、目を剥いて食い入るように見つめるエイリも、誰も彼もが異常だとフチは思った。
「は、ははははは!」
「……!」
「メルンが俺を遣わした! 俺を愛していたからだ! お前を殺せと! 今やっと!」
そう言ってガクは、すっと笛に唇をつけた。
エイリは動かない。
何かがとてもまずいと、フチが総毛立った瞬間。
「ーーぐっ!?」
ヒュッという空を着る鋭い音とともに、ガクが縦笛を取り落とした。
フチはその手に羽のついた矢が突き刺さっているのを見た。今だと、本能のままに声を上げる。
「ソル!」
『はいよ! あんまり保たねーけど!』
ソルの白い羽根が舞うのと同時に、物陰から人影が飛び出して、エイリを抱いて遺跡の影に隠れた。
「シータ!」
矢筒と弓を背負ったシータは、眉間に皺を寄せて素早く遺跡の奥まで駆け出した。
『コイツやばいわ。イっちゃってるわ。早めに退散!』
ガクの視界を撹乱させたソルの声が聞こえて、フチは早くその場から離れるようにソルに呼びかけた。
『はいはい、しばらく飛んでからそっち行くけど。ここやべえよ、フチ。……いつのまにかオスがいっぱいわらわらしてるわ。出口塞がれてんぞ』
……やっぱりか。
フチは嫌な予感が的中してしまったことに頭を抱えそうになったが、今はそんなことより。
「……とりあえずここでいいな」
エイリを抱えたシータとフチは、遺跡の奥まったところに身を潜めて息を整えた。
ここは三方を壁に囲まれて薄暗い。誰かが近寄ってきたらすぐに気づくだろうと、偵察に才能があるシータが言う。
「……助かった、シータ」
「お前のためじゃねーよ」
礼を言ったフチに吐き捨てるように言ったシータは、エイリからなんの反応もないことに気づき、その顔を俯けた。
「エイリ?」
「……シータ、あ、ありがと」
これ以上ないほどに蒼白になったエイリは、瞳をぐらぐら揺らしながらシータを見上げる。
シータは何を思ったか、横抱きにしたエイリの頬に急にキスをした。
「!」
「!?」
その唐突さにぎょっとしたフチと、飛び上がってシータの腕の中から逃げ出したエイリ。
シータは2人に向かってしかめ面をした。
「なんだよ。元気だろ」
「あ、あん、あんた……!」
「しっかりしろよ、エイリ。次は口にするぞ」
「……」
頬を抑えたエイリは、信じらんない、とぶつぶつ呟いた。いつものエイリだった。
フチはエイリの肩から飛び降り、突き出た石の側面に降り立った。腰元から剣を引き抜き、ソルから聞いた情報を2人に共有する。
「……状況は最悪だ」
「なんで俺に剣を向けてるんだよ」
エイリとフチだけでここに来ようと思うほど、フチは楽観的ではなかった。不測の事態が起きたときに備えて味方は多い方がいい。
そう考えて頭を下げたフチに対して、シータはその前までの件もあり相当にブチギレたが、渋々と承諾してくれた。
本当に良かったと、フチは思う。シータがいなければ今頃どうなっていただろうか。
「ていうかあの笛なんなんだ? 嫌な予感がしたから射ったけど」
「……」
「ていうかあいつ何なの? シナン人だけど……イカれてるだろ」
喚き立てるように言うシータに、フチも同感である。あのガクという男の血走った目と感情の振り幅と、……なにより、あの人形のようなジィリアの様子。操られているようにしか、フチには思えない。
「そう……だよ」
エイリは壁に背をつけ、ぐっと両手を握りしめた。俯いた顔には、悲壮感が滲んでいる。
エイリを殺人者と呼んだあの男とエイリに、一体何があったのだろう。
「あの笛は……メルンの笛だったの。メルンは笛で、音色を聞かせた人間を操ることができた」
「なんだって?」
「……メルンとは……」
聞いたフチに、エイリは頷いた。
「シナンの近衛騎士で、私の教育係というか。……恩人だったの。私が12歳のときに、死んじゃったけど」
シータが腕を組んで、目を細めてエイリを眺めている。
「思い出したぞ。近衛騎士に変わった人がいるって聞いたことがあった。そうだ、笛で人を操れるって……」
「多分、それがメルンだと思う。メルンはあの笛をいつも使ってたけど、別のものでも操れるって言ってた。多分……メルンは、シフォア人だったんだと、思う」
フチは驚きに目を見張った。エイリはフチ以前にも、シフォア人と出会っていたことがあったのだ。
上方で雨除けになっている石から、ぽつぽつと雨が垂れている。
エイリは肩を抱えるようにしてから、ぐっと一度だけ顔を引き締め、滔々と語り始めた。
「私がメルンにしてしまったことは、人殺しだとガクは言ったけど、私も本当に、そう思う……」




