その一 開幕
――――頭の上のどこかで、目覚まし時計が鳴り響く。
瞼を持ち上げ見回すと、背後に時計を見つけ、叩く。
が、アラームは依然止まらない。鳴っているのは別の時計のようだ。
まぁいいや、とりあえず起きよう。体を起こすのも面倒なので、ベッドから這うようにして抜け出す。すると途端に、僕の体は地面に向かって急速に加速し出した。
……というか、落ちた。どういうことなんだろう。
僕のベッドは二段ベッドの一段目だから、大して痛くはないはずなのに、不時着した脇腹が断末魔に近い悲鳴を上げている。
しばらくさすっていると、不意に洗面所の方からドライヤーの音が聞こえてきた。
アラームは、いつの間にか止まっていた。
「……何してんの?」
頭上から声が降りかかる。
閉じていた目を見開くと、僕よりいくつか年下の少女がこちらを覗き込んでいた。逆光のせいで顔が良く見えない。
……誰だっけ。あぁ、妹か。なんだか久しぶりに見た気がするな。
「……久しぶり」
「寝ぼけてるの?」
僕は頷いた。
「ところで、どうして俺は二段目で寝ていたんだろうか」
「お兄ちゃんがたまには上がいいって言ったんでしょ?」
「え? あぁ、そうだっけ?」
「そんなことより、今日は数少ない友達の家に行くんじゃなかったの?」
「うん、あぁ、そう言えばそうだった…… ――――数少ないは余計だよ」
僕は適当に歯を磨いて一番上にあった服を着ると、急ぎ足で家を出た。
小さな銀行の前を曲がると、二車線を跨ぐ歩道橋が現れる。薄緑の欄干に色褪せた青いグリップ。両サイドの手すりは付け根が茶色くサビていて、雨の日以外は使わないようにしていた。
薄明るい朝焼けの中、スロープのない狭い階段を一歩一歩確かめるように上って行く。
交通量の割に、この歩道橋を使う人は少ない。どうもこの街の住人は〝横断歩道が無いなら急いで渡ればいいじゃない〟的な思考回路を持っているらしい。まぁ確かに、遠回りと言えば遠回りなのだ。小学生の時轢かれかけた身としてはあまり共感できないけれど。
半分ほど上ったところで、違和感に気付く。その理由はすぐに分かった。
「今日は、静かだな……」
いつもなら赤になる度ちょっとした渋滞を起こす足元の道路が、今日は閑散としていた。どころか歩道も公園も、見渡す限り一切の人気が無い。
元々この時間帯はいつも空いている方だったはずだけど、一人きりというのはさすがに気味が悪い。普段の喧騒が嘘のようだった。
「ちょっと、早すぎたかな」
時計を見ると午前八時だった。待ち合わせは九時半なので、ちょっと早すぎる。
あの遅刻魔が起きていたからてっきりもう十時くらいだと思ってたのに。あいつ、日曜の朝っぱらから何するつもりだったんだろう。
緑色の滑り止めが敷かれた階段を上り切り、二車線を跨ぐ通路に躍り出る。屋根はなく、敷かれた青のグリップは雨に降られたのか湿っていた。
中ほどまで歩いて来たところで、足元で何か光った気がして、しゃがみこんで見ると、それは理科の実験で使うような保護メガネだった。
「なんでこんなところに?」
見ると、右のレンズのフレームにちいさなスイッチらしきものが並んで二つ付いている。そのSFチックなデザインに惹かれて無性にかけたい衝動に駆られ、迷った挙句かけた。
……何も起こらない。強いて言うならフレームが若干湿っていて気持ち悪いのと、右のレンズの上端についた一筋の傷が邪魔で見づらい。
僕は現実を痛感し、嘆息をついた。
どうせ何も起こらないだろうけど、二つあるうちの、緑のスイッチを押してみる。カチッと音がしただけで、案の定何も起こらない。赤い方のスイッチも押してみる。
やっぱり、何も起こらな――――
『――――四体の怪物が四方から接近中』
何かの電源が入ったらしい。車のナビみたいな口調の女性の声がする。
「はぁ? 怪物? 何言って……」
『避けて下さい』
「うわっ!」
体が勝手に左に動き、上体がだらしなくのけぞる。直後に右肩すれすれをどす黒い棒のようなものがものすごい勢いで通過していった。
それは本当に、一瞬の出来事だった。
僕はバランスを崩し、尻もちをついてしまう。
「何だ、今の!」
『怪物です。当たらないよう注意して下さい』
「いや、だから……」
ふぉんと小さく音がして、空中に文字が浮かび上がった。
「ぶきせんたく、れーざーびーむ?」
『武器選択、レーザービーム。照準を怪物に合わせ、赤いボタンを押すことで発射できます。誤射を防ぐため、まずは緑のボタンを押して敵識別システムを作動させて下さい』
浮かび上がった青緑色の照準が、中央付近で揺れ動く。僕の目の動きに連動しているようだ。
「あんな早いのどうやって!?」
『伏せて下さい』
慌ててしゃがみ込むと、後ろ髪を黒い柱が掠めた。
『ニイィーーーヒヒヒッ!』