第44話:『悪魔の問答』
ガシャァァァァァァァァンッ!!!!
空間を隔てていた見えない膜が、派手な破砕音とともに粉々に砕け散った。
言葉の化物の口腔、その最奥に走っていた「光の亀裂」を突き破った瞬間、神谷創太と白石葵の身体は、重力を失ったように虚空へと放り出された。
生温かい瘴気と血の雨から一転して、二人の全身を包み込んだのは、刃物のように冷たく、そしてどこまでも透き通った『外の空気』だった。
「がはっ……!」
数メートルの落下の後、二人の身体は硬く、ザラザラとした質感の地面へと激しく叩きつけられた。
受け身をとる余裕などなく、創太は自らの背中でアスファルトの衝撃をモロに受け止め、腕の中に抱きしめていた葵を必死に庇った。
ドシャッ、ゴロゴロゴロ……ッ。
慣性に従って地面を数メートル転がり、ようやく二人の身体は停止した。
「はぁッ……! げほぉッ……!」
創太は、胸の貫通傷から大量の血の泡を吐き出しながら、ゆっくりと目を開いた。
眩しい。
水野結衣のステンドグラス片に覆われた左目の網膜を、強烈な黄金色の光が灼き切らんばかりに射抜いてくる。
空を見上げると、そこには葛葉市を一年間覆い隠していた「黒いドーム」の天蓋は存在しなかった。
どこまでも高く、澄み切った青空。東の空には、夜明けの太陽が神々しい朝陽を放ち、薄雲をオレンジ色に染め上げている。
頬を撫でる風には、コンクリートと土の匂いが混ざっていた。
遠くから、微かな野鳥の囀りが聴こえる。
彼らが倒れ伏しているのは、見慣れた私立稜ヶ丘高校の正門前の坂道、その硬いアスファルトの上だった。
「……出た……。出たんだ……! 外へ……!」
創太の破れた唇が、歓喜と安堵の震えを帯びて動いた。
ついに脱出した。言葉の化物の胎内から、死の迷宮から。
あの一年間閉ざされていた呪いのドームを打ち破り、自分たちは現実の葛葉市、朝日の昇る現実の世界へと生還を果たしたのだ。
「葵……! 葵、大丈夫か! 生きているか!」
創太は、焼け爛れて大腿骨が露出した左太ももの激痛を無視して身を起こし、自らの腕の中でぐったりとしている葵の身体を抱き起こした。
葵の顔の左半分を覆っていた黒紫色の根の紋様は、朝の光に当てられてボロボロと乾いた灰のように剥がれ落ちていた。強酸でドロドロに溶かされていた両脚も、回転ノコギリ刃に切り刻まれた右腕も、傷口から流れる血はピタリと止まり、これ以上の侵食はない。
だが、彼女の意識は完全に深い暗闇へと沈んでいた。
自らの声帯を封じていた黒い熱蝋を素手で引き剥がし、命を燃やし尽くすような咆哮を放った代償。彼女の喉元は無惨に裂け、そこから赤黒い血が首筋を伝ってアスファルトへ滴り落ちている。
「葵……ッ! 目を開けろ! 終わったんだ、俺たちの勝ちだ! 帰ってきたんだよっ!」
創太は血塗られた手で葵の冷たい頬を何度も叩いた。
葵の胸に耳を押し当てると、トクン……トクン……と、極めて微弱ではあるが、確かに命の鼓動が打っているのが聴こえた。
「よかった……生きている……」
創太は、安堵のあまり、自らの右目から大粒の血の涙を零した。
自分が身代わりになるのではなく、二人で生きる道を選んだ。
無謀とも言えるその選択は、間違っていなかったのだ。こうして二人で朝の光を浴びている。あとは、病院へ向かい、このズタズタの肉体を治療すれば――。
だが。
安堵の涙を流していた創太の、破壊されずに残された『過剰な左耳』が。
周囲の空間を満たす、ある「致命的な違和感」を、氷の刃のように冷徹に拾い上げた。
(……待て。なんだ……?)
創太は、葵を抱きしめたまま、ゆっくりと顔を上げた。
視界に広がるのは、平和な朝の葛葉市の風景。電柱、カーブミラー、民家の屋根。
だが……『音が無い』。
いや、正確には音はある。遠くで鳴く野鳥の囀り、風が電線を揺らす音。
しかし、その音が、あまりにも「規則的すぎる」のだ。
チュン、チュン……サーーーッ。
チュン、チュン……サーーーッ。
鳥の鳴き声も、風の音も、まったく同じ音程、まったく同じリズムで、まるで数秒間の音声ファイルを無限にリピート再生しているかのように、完璧なループを描いていた。
さらに、創太の左耳は、自分の呼吸音と葵の心音以外の「他者の生活音」を、この街から一切拾うことができなかった。
車が走る音、人が歩く音、遠くの電車の音。数万人が住む街の朝であれば、必ず存在するはずの「命のノイズ」が、完全に欠落している。
「嘘だろ……」
創太の全身から、歓喜の熱が急速に引き、致死的な悪寒が駆け巡った。
ポタッ。
葵の喉から滴り落ちた血の雫が、アスファルトの上に落ちた。
ジュゥゥゥゥッ……!
その瞬間、血が触れたアスファルトの表面が、まるで熱した鉄板に落とした生肉のように白煙を上げ、ぬらぬらとした『赤黒い粘膜』へと変質したのだ。
「なっ……!?」
創太の視界が、ぐにゃりと歪んだ。
眩しかった朝日は、突如としてその黄金色の光を失い、どす黒い黄ばんだ瘴気を放つ「巨大な眼球」のような不気味な球体へと変貌を遂げた。
青空は、ひび割れた古いペンキのようにボロボロと剥がれ落ち、その隙間から、ドクドクと脈打つ黒い肉の天井が覗く。
周囲の民家も、電柱も、すべてが紙のセットのように倒れ込み、裏側から溢れ出したドロドロの血液と脂肪の海に呑み込まれていく。
「幻覚……! 違う、ここは現実じゃない……! まだ……あのバケモノの体内だっていうのかぁぁぁっ!」
創太の絶叫が、偽りの空を完全に破壊した。
パキィィィィンッ!!!!
世界全体を覆っていた『現実の風景という偽装』が、ガラスの破片となって一斉に砕け散った。
その向こうに現れたのは、見渡す限りの漆黒の虚無と、うねる黒い肉の根だけで構成された、無限の地獄空間だった。
言葉の怪異。
葛葉市を呑み込んだその存在は、口腔の壁を破られた程度で消滅するような矮小なものではなかったのだ。
怪異は、現実世界への出口を求めて突撃した創太たちに、一瞬だけ『生還の幻覚』を見せ、安堵させた直後にそれを叩き割ることで、精神を根底からへし折るという最悪の悪趣味を披露したのである。
ズゴゴゴゴゴゴォォォォォォォッ!!!!
虚無の空間の奥底から、これまでに見たどんなものよりも巨大で、圧倒的な存在感を持つ『影』が、ゆっくりと、天を覆い尽くすほどの規模で隆起し始めた。
それは、もはや人間の姿すらしていなかった。
鳴海詩織の顔でもない、クラスメイトたちのパーツの集合体でもない。
無数の真っ黒なノイズ、ノイズ、ノイズ。
空間に飛び交う『何十万という言葉(文字)』が、重力に従って一点に凝縮され、天を突くほどの巨大な黒い影――『概念の悪魔』とでも呼ぶべき、怪異の真の最終形態として実体化したのだ。
「ア……ガハッ……! げほぉぉぉっ!」
その影が放つ絶対的な音圧と瘴気を浴びただけで、創太の全身の毛細血管が一斉に悲鳴を上げ、両目、鼻、そして自壊させた右耳の穴から、真っ黒な血が噴水のように吹き出した。
(だめだ……身体が……もう……!)
創太は、葵を抱きしめたまま、血の泥の海へと崩れ落ちた。
肉体の限界は、とっくに通り越している。
左太ももの骨が剥き出しになった傷は、動かすだけで脳を焼き切る激痛を放ち、胸の真ん中の貫通傷からは、生命線である血液が止めどなく流れ出ている。
何より、創太の精神が、限界だった。
助かったと思った。すべてが終わったと確信した。
その安堵の頂点から、再び絶対的な死の深淵へと叩き落とされた絶望感。それは、肉体の痛み以上の破壊力を持って、創太の生きる意志を根こそぎ奪い取ろうとしていた。
『――愚かな。たかが言葉の器を一つ破った程度で、この私から逃れられるとでも思ったか』
天を覆う巨大な黒い影から、声が降ってきた。
それは、詩織の声ではない。数万人の死者の重奏でもない。
驚くべきことに、その声は――『神谷創太自身の声』と全く同じ周波数、同じトーンを持っていたのだ。
「俺の……声……?」
創太は血ヘドを吐きながら、震える目で上空の影を睨みつけた。
『そうだ。私はお前たちの吐いた言葉の集合体。お前たちの深層心理に巣食う、罪悪感と絶望の投影に過ぎない』
影がうねり、巨大な黒い腕を形成して、創太と葵の周囲を囲むようにドスン、ドスンと着弾させた。
逃げ場は、完全に失われた。
『神谷創太。お前はこれまで、幾度となく問答を解き、怪異の理不尽を論破してきた。まるで自分が正義の代行者であるかのように。愛する少女を救う悲劇の英雄であるかのように』
影の言葉が、創太の左耳から脳髄へと直接突き刺さる。
『だが、本当にそうか? お前が生き延びてきた道程を振り返ってみろ』
空間の虚無の中に、映像が浮かび上がった。
それは、これまでの死闘の記憶。
放送室で、身代わりとなって腹を裂かれた西条の死体。
図書室で、言葉の刃に切り刻まれた長谷川さくらの死体。
理科室で、沸騰した血に焼かれた渡辺大樹の死体。
『お前が【正解】を導き出すたびに、お前をいじめた者、お前と敵対した者たちは、怪異のルールによって凄惨な死を遂げていった。お前は、自分の手を汚さずに、怪異のシステムを利用して、自分に都合の悪い人間たちを次々と【合法的に処刑】してきたのではないか?』
「ちが……う……! 俺は……!」
創太は否定しようとしたが、喉から血が溢れて声にならない。
『さらに言おう。お前がその少女、白石葵を助けようと足掻けば足掻くほど、結果として彼女はどうなった?』
影の先端が、創太の腕の中で意識を失っている葵を指差した。
『声を奪われ、右腕をミンチにされ、両脚を強酸で焼かれた。お前が「一緒に生きて帰る」という自己満足のエゴを押し付けたせいで、彼女は一人で死ぬよりも遥かに残酷な苦痛と恐怖を味わい続け、今こうして死の淵を彷徨っている。……お前が手を引かなければ、彼女はもっと安らかに消滅できたかもしれないのだぞ?』
「やめろ……っ! 黙れぇぇぇっ!」
創太の叫びは、虚しく空間に吸い込まれた。
影の言葉は、ただの誹謗中傷ではない。創太自身の心の奥底に微かに存在していた「罪悪感」と「自己矛盾」を、百倍にも千倍にも拡大して突きつけてくる、最悪の精神攻撃だった。
『お前は英雄ではない。他者の血肉を啜り、愛する者を盾にしてまで生き延びようとする、醜悪なエゴイストだ。一年前、鳴海詩織を見殺しにした傍観者の頃から、お前の本質は何一つ変わっていない』
ズゴゴゴゴゴゴォォォォォォッ!!!!
巨大な黒い影が、創太の真上へと覆い被さり、世界中のすべての重力を一点に集めたような、絶望的な圧力を放ち始めた。
『さあ、これが正真正銘、すべての因果を清算する【最後の問答】だ』
空間全体に、これまでで最も巨大で、最も禍々しい漆黒の歯車が浮かび上がり、ギギギ……と重苦しい回転を始めた。
『これまでの問答は、詩織の絶望やクラスメイトの罪に対するものだった。だが、この最後の問いは……【お前自身の存在】に対するものだ』
創太の視界が明滅し、意識が漆黒の渦に呑み込まれそうになる。
肉体の限界。精神の崩壊。
その極限状態の中で、悪魔の声が、無慈悲ななぞかけを突きつけた。
『――神谷創太。お前と掛けまして、悪魔と解く。……その心は?』
「あ……くま……」
『制限時間は……お前の心が完全に折れ、狂気に呑み込まれるまで』
チクタク……チクタク……と、秒針の音が創太の脳内で鳴り響く。
『この問いに答えられなければ、あるいは精神が屈すれば……お前と白石葵の存在は、今度こそ完全に、宇宙の歴史から抹消される。さあ、もがけ。自分自身の醜悪な本性と向き合い、絶望の泥を啜りながら、答えを捻り出してみせろ!』
「お前と……掛けまして……悪魔と解く……」
創太は、腕の中の血だらけの葵を見つめ、口から血の糸を垂らしながら、虚ろな声でその問いを反芻した。
自らの存在意義を根本から否定する、最悪の自己否定の問い。
自分が悪魔であるという論理。
クラスメイトの死。葵の凄惨な傷。すべては自分の選択の結果だ。
自分が生き残ろうとしたから、彼らは死に、彼女は傷ついた。
(俺は……悪魔なのか……?)
心が、折れる。
これまでのどんな激痛よりも、自らの罪を突きつけられるこの精神の責め苦が、創太の魂を粉々に打ち砕こうとしていた。
限界を超えた肉体と、絶望の淵に立たされた精神。
神谷創太は、自らの存在そのものを賭けた『悪魔の問答』の前で、ついに漆黒の闇へと沈み込もうとしていた。
『――神谷創太。お前と掛けまして、悪魔と解く。……その心は?』
創太の脳内で、壊れた時計の秒針のような乾いた音がチクタク、チクタクと狂おしい周期で鳴り続けていた。
目の前にそびえ立つのは、数万人の悪意の言葉と死者の怨嗟が凝縮して生まれた『概念の悪魔』。
その声は、創太自身の声と全く同じ音調で、彼の脳髄の最も柔らかい部分へ冷酷な言葉のナイフを深々と突き立て続けていた。
『どうした、神谷創太。これまでのように口八丁で理屈を捏ね回し、怪異のルールを破破してみせろ。……できないか? 当然だ。なぜなら、お前自身が誰よりも分かっているからだ』
悪魔の黒い影がぐにゃりと歪み、血の泥の海に伏せる創太をあざ笑うように巨大な顔の形を形成する。
『お前が【正解】を提示するたびに、西条拓海は腹を裂かれて腸を撒き散らし、長谷川さくらは全身をハサミで切り刻まれ、渡辺大樹は自らの血で煮え滾って死んだ。お前は怪異のルールという名の【処刑台】にクラスメイトたちを放り込み、自分だけが被害者のツラをして生き延びてきた』
「ちが……う……っ!」
創太の口から、血の泡とともに掠れた否定が漏れる。だが、その声には何の力もこもっていなかった。
『何が違う? 事実だ。そして何より、お前の腕の中にいるその少女……白石葵を見ろ』
悪魔の影の先が、創太の腕の中でぐったりと力なく横たわる葵を嘲笑するように指し示す。
葵の顔の左半分は黒紫色の紋様に食い荒らされ、右腕は骨がむき出しの挽き肉と化し、両脚は強酸で溶けて生肉の赤い繊維が剥き出しになっている。そして何より、直前に創太の道を切り拓くために自らの喉から呪いの蝋を強引にむしり取ったせいで、彼女の首元には痛々しい血の空洞が開いていた。
『お前が「一緒に生き残る」などという甘っちょろいエゴを押し通したせいで、彼女は声を失い、肉体を解体され、死ぬ以上の地獄を味わい続けている。もしお前が最初から一人で死んでいれば、彼女はこんな激痛に悶えることもなく、もっと安らかに消滅できたのだ。……お前が彼女を救っているのではない。お前が彼女を苛み、痛めつけ、生殺しにしているのだ!』
「あ……あぁ……っ……!」
創太の残された右目の奥から、血の混ざった涙が止めどなく溢れ落ち、アスファルトの赤黒い泥へと吸い込まれていく。
心が、内側から崩壊していく感覚。
これまでのいかなる物理的な解体――右耳の自壊、左太ももの大腿骨を削る自傷、胸の貫通傷の痛みすらも遙かに凌駕する、魂そのものを酸で溶かされるような極限の精神的拷問。
(俺が……俺が、悪魔なのか……? 俺が……みんなを殺し、葵を苦しめていたのか……?)
悪魔の問いが、創太の思考領域を真っ黒に塗り潰していく。
『お前と掛けまして、悪魔と解く。……そうだ、その心は【他者の犠牲と痛みを糧にして自分だけが生き延びようとし、周囲に絶望と破壊撒き散らす悪鬼の存在】。……それがお前の正体だ、神谷創太!』
悪魔の咆哮が、世界全体を揺るがす。
巨影から放たれる漆黒の圧力が、創太の背中にのしかかり、彼の顔面を血の泥へと強く押し付けた。
ズズズズズズズ……!
創太の皮膚の表面から、サラサラと光の粒子が立ち上り始めた。
『概念消滅』の浸食。
創太自身が己を「悪魔」であると認め、精神の屈服を受け入れかけたことで、彼の存在そのものをこの宇宙の歴史から抹消する破壊のプロセスが本格的に動き出したのだ。
(もう……いいのかな……)
創太の意識が、冷たくて深い、暗黒の安らぎへと沈みかけていく。
(俺が消えれば……俺が悪魔として消滅すれば……これ以上の犠牲は……出ないのかな……)
胸の激痛も、太ももの激痛も、右耳の奥で鳴り響く不快なノイズも、すべてが遠のいていく。
このまま闇に呑み込まれれば、楽になれる。もう誰も傷つけずに済む。もう自分を責めずに済む。
思考が完全に停止し、創太の瞳から「生の光」が消え失せようとした、その絶対の死の直前――。
ポリ……ッ。
創太の血塗られた右手の指先に、微かな「生の感触」が触れた。
「……っ?」
創太の消えかけた意識の底に、小さな熱が届く。
創太の腕の中で、意識を失っていたはずの白石葵が、その震える左手で、創太の右手の指先を力任せに握り返していたのだ。
彼女の顔は、苦痛と失血によって死人のように蒼白だった。
首元の傷口からは、今も止まることなく生の血液が溢れ出ている。
残された左目も、血の涙で固まり、開くことすら困難なはずだった。
だが――彼女は、創太の指を絶対に離さなかった。
それどころか、剥がれ落ちた指の爪の傷口から血を流しながら、彼女の指先は、創太の掌の表面に、かすかな爪の感触を刻み込み始めたのだ。
ガリ……ガリガリ……ッ。
創太の過剰な左耳は、葵の指先が自分の皮膚を引っかく音と同時に、彼女の胸の奥深くで打つ『魂の心音』を拾い上げた。
ドクン……! ドクン……! ドクン……!
弱々しい。いつ止まってもおかしくないほどに細い脈動。
だが、そこにあったのは、悪魔が嘲笑したような「死への願望」でも、「創太への怨嗟」でもなかった。
絶望の淵で折れかけている創太を、死の眠りから強引に引き戻そうとする、狂おしいほどの情熱。
「あなたを一人で死なせない」「私は絶対にあなたを悪魔なんて思わない」という、言葉を超えた命の咆哮だった。
「葵……?」
葵の残された左目が、ゆっくりと開かれた。
そこにあったのは、激痛に怯える少女の目ではなかった。
どんな地獄の底に突き落とされようとも、神谷創太という少年と共に光の世界へ帰ることを諦めない、強靭で美しい「戦士の瞳」だった。
葵は声を出すことができない。だが、彼女は自らの血塗られた左手で、創太の顔を引き寄せ、自らの額を、創太の額へと強く叩きつけた。
ゴツンッ……!!
「がっ……!?」
頭骨と頭骨がぶつかり合う、鈍い衝撃。
その痛みとともに、葵の熱い血液が創太の額を伝い、彼の塞がりかけていた右目へと流れ込んできた。
葵の血の暖かさ。葵の脈動。葵の指の痛み。
それらすべてが、創太の脳内で泥のように凝固していた「悪魔の洗脳」を、暴力的な圧力を以て一瞬にして粉砕した!
(あ……あぁぁぁぁぁぁぁっ……!)
創太の脳裏に、電撃のように閃光が走った。
悪魔の嘘。自分を挫くための最悪の詭弁。
自分が怪異のルールを利用して同級生を処刑した?
違う! 自分は彼らを救おうと足掻き、死に物狂いで問いに答え続けたのだ! 彼らが死んだのは、彼ら自身が過去に吐き散らした「暴言と呪い」が、怪異のシステムによって自らに跳ね返った結果に過ぎない!
自分のエゴで葵を苦しめている?
違う! 葵は自分の足手まといでも、被害者でもない! 彼女は自らの意思で自分の手を取り、自らの声を犠牲にしてでも自分を助けると決意し、共に戦ってくれた「対等な相棒」なのだ!
「俺は……俺はぁぁぁぁぁっ!!」
創太の胸の真ん中、空洞となった貫通傷の奥で、消えかかっていた「生の炎」が、超高圧の暴風となって爆発的に逆噴射した!
ズバババババババババババババッ!!!!
創太の全身から、悪魔の『概念消滅』の侵食を押し返すほどの、圧倒的な朱黒の気迫が吹き出した!
押し付けられていた悪魔の黒い腕を、創太は自らの怪物化から戻った生身の右手で力任せに掴み、メリメリと音を立てて押し上げ始めたのだ!
『なに……!? 愚かな……! 精神が屈しなかったというのか……!? 肉体はとうに壊れ、死の直前にありながら……なぜ立つ……なぜ死を受け入れない……!?』
悪魔の声が、初めて恐怖と動揺に歪んだ。
「黙れ……言葉の化物……っ!」
創太は自らの左太ももの惨烈な傷口へ、壊れた鉄パイプの先端を自ら深々と突き立てた!
ズブスッッ!! バキバキッ!!
「ガハァァァァァァァァァァッ!!!!」
大腿骨を鉄パイプの角で直接削り直すという、狂気の痛撃(電流)。
その超高圧の激痛が、創太の途切れかけていた意識と全シナプスを白熱させ、彼の残された右目から、人間としての誇りと憤怒の光を爛々と解き放たせた!
創太は葵の身体を左腕でガッチリと抱きかかえ、血泥のアスファルトを強く踏みしめながら、二本の足で、堂々と立ち上がった!
「お前が……お前が俺を『悪魔』と呼び……俺たちの歩んできた道を『エゴの惨劇』と嘲笑うなら……!」
創太は自らの胸を突き出し、天を覆う悪魔の巨影に向かって、自らの魂の全存在を懸けた「真の解」を咆哮した!
「悪魔の問答……! 正解を……ここにお前に叩きつけてやるぁぁぁぁっ!!」
創太の喉から、血と肉片と命の破片が撒き散らされる。
「正解は……! 『どちらも、自分たちの犯した罪と愚かさから目を背けず、絶望の泥を啜り、血を吐きながらでも、愛する者の手を握りしめて地獄の底から這い上がろうとする、醜くも気高き【人間の執念(生の証明)】』だぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
ズバババババババババババババババババババァァァァァァンッ!!!!
創太の咆哮が空間の全原子を破壊した、その絶対の瞬間。
天を覆い尽くしていた『概念の悪魔』の巨影の真ん中に、創太の叫びが物理的な光の槍となって突き刺さり、巨大な「亀裂」が走り抜けた!
『グガ……ガァァァァァァァァァァァァァァァッ!!??』
悪魔の口から、この世のすべての絶望が崩壊するような凄絶な断末魔が上がった。
創太の導き出した答えは、悪魔が提示した「自己否定の論理」を完璧に反転させ、自分たちの歩んできた凄惨な戦いを「悪」ではなく「誇り高き人間の生き様」として肯定してみせたのだ。
論理の崩壊。
自分たちの罪を認め、傷を肯定し、それでも生きると宣言した人間に対して、罪悪感を突く言葉の毒(悪魔)は、もはや一滴の威力すら持ち得なかった。
ピキピキピキピキピキッ……! ガギィィィィィィィィンッ!
悪魔の背後に浮かんでいた巨大な漆黒の歯車が、激しい音を立てて粉々に爆砕した。
そして、創太たちの周囲を包んでいた虚無の地獄空間、血の泥の海、偽りの空の破片のすべてが、まるで高圧の爆風を正面から浴びたかのように、一斉に、完全なる白光の粉塵となって砕け散っていった!
『バカな……バカなバカなバカなっ! 人間ごときが……傷だらけの肉片ごときが……私の言葉(悪魔)を……凌駕するというのかぁぁぁぁっ!!』
悪魔の巨影が、創太の放った光の中に呑み込まれ、ボロボロと紙くずのように燃え尽きていく。
創太は、崩れ去る悪魔の姿を、葵と共に真っ直ぐに見つめ続けた。
「言ったはずだ……言葉の化物……。俺たちの耳には……お前の毒は……もう二度と届かない……!」
パァァァァァァァァァァァァッ……!!
最後の悪魔の咆哮が消え去り、世界全体が、真の「純白の光」によって包み込まれた。
偽りの朝光ではない。偽りの街でもない。
言葉の怪異が持つすべての毒、すべての概念、すべての呪縛が根底から打ち砕かれ、消滅した瞬間だった。
光の中で、創太の身体から、すべての力が抜け落ちていく。
「あ……」
創太と葵の重なり合った身体が、ゆっくりと、光の向こう側の地面へと倒れ込んでいった。
だが、二人の手は、最後まで、骨が砕けんばかりの強さで固く握りしめられたままだった。




