第2話:『肉の脱出劇』
『第三の問いです。2年B組の、神谷創太くんと掛けまして』
天井のスピーカーから滴り落ちるような湿った声が、教室の空気を凍りつかせる。
『腐り落ちた吊り橋と解く。……その心は?』
カチ、カチ、カチ――。
スピーカーの奥で不気味な歯車が回り、死へのカウントダウンが始まった。制限時間は三分。
「神谷……答えろ……!」
西条拓海が血に染まったナイフのような眼光で創太を睨みつける。
「お前が答えなきゃ、また全員巻き添えだぞ! 早く言えよ!」
周りの生徒たちも、恐怖と疑心暗鬼に満ちた目で創太を注視していた。誰一人として創太をかばおうとはしない。自らが生き残るための「人柱」として、創太が正解することを祈るか、あるいは彼が死んで時間を稼いでくれることを期待するような、醜悪で歪んだ視線。
背しろで白石葵が、創太の制服の裾をぎゅっと固く握りしめていた。声を出せない彼女の震えが、布地を通して創太の肌に直接伝わってくる。
「……黙ってろ、西条」
創太は低い声で言い捨て、自らの内面へと意識を深く沈めた。
耳の奥で、カチカチという歯車の音と、クラスメイトたちの浅い呼吸音が過剰に増幅されて届く。
(神谷創太と掛けまして、腐り落ちた吊り橋と解く……)
創太は自分自身の性質を冷徹に分析し始めた。自分はどんな人間だ? クラスでの立ち位置は? 観察力が高く、他人と距離を置き、冷淡だと周囲から思われている。
そして、腐り落ちた吊り橋。
吊り橋。谷に架かる細い橋。腐り落ちている。渡ろうとすれば落ちる。信用して重みをかければ壊れる。関われば崖下に転落する。
(言葉の重なり……掛詞の構造……)
「腐り落ちた吊り橋」の特性。
渡れば落ちる。頼りにすると崩れる。掛けた重みに耐えられない。
そして「神谷創太」に対する周囲の評価、あるいは自分自身の本質。
他人は自分をどう見ている? 頼りにならない? 冷たい?
違う。もっと直接的な、言葉の音(言い換え)だ。
(渡る……関わる……頼る……)
残り時間、一分三十秒。
「おい神谷! 早くしろ! 時間がねえぞ!」
男子生徒の一人が耐えかねて叫ぶ。
「黙れと言ったはずだ!」
創太は自らの手の甲に爪を深く立てた。じわりと赤黒い血が滲み、刺すような痛みが狂いそうな思考を鮮明に研ぎ澄ませる。
吊り橋。橋。渡る。
腐っている。落っこちる。
関わると死ぬ。
(頼りにすると、落とされる……? いや、もっとシンプルだ。吊り橋は『信用(渡る)』すると『落ちる(破滅する)』)
「神谷創太」という人間。
自分は今まで、誰かと深く関わってきたか? 他人を信用し、自分を信用させてきたか?
違う。自分は他人の真意を見抜き、関わりを拒絶してきた。自分を頼ろうとする者を突き放してきた。
つまり――
「どちらも……」
創太の口唇から、乾いた声が漏れ出た。
「神谷! 答えが分かったのか!?」西条が身を乗り出す。
創太は呼吸を整え、スピーカーに向かってはっきりと発声した。
「どちらも……『渡る(関わる)と、命を落とす(落ちる)』」
静寂。
カチ、カチ、と鳴っていた歯車の音がピタリと止まった。
教室内の全員が息を呑み、天井を見上げる。一秒、二秒、三秒――激しい静寂が室内を支配する。
『――正解』
スピーカーから、悔しさと悦楽が混ざり合ったような、濡れた吐息が漏れた。
「……ふぅっ……!」
創太はその場に膝をつきそうになり、なんとか踏みとどまった。全身からドッと冷や汗が噴き出し、制服が肌に張り付く。命拾いした。だが、安堵の感情は一瞬で消え去った。
「正解……? 本当に正解したのか!?」
「助かった……助かったんだ……!」
生徒たちから安堵の溜息が漏れたのも束の間、床に散らばる長谷川さくらのハサミと、近藤のシュレッドされた肉片の臭気が、再び彼らを現実の地獄へと引き戻した。
「助かってなんかねえよ!」
突然、教室の中央で大声を上げたのは、サッカー部エースの武田だった。
武田は怯える他の男子運動部員二人を引き連れ、血塗られた床を蹴って叫んだ。
「いつまでこんな狂ったなぞかけに付き合ってられるかよ! 神谷が解いたって、次また誰かが殺されるんだぞ!? こんな場所に居られるか!」
「武田、待て! 外の様子が分からない段階で動くのは危険だ!」創太が叫ぶ。
「うるせえ! 窓が黒い液で埋まってようが、玄関のデカイガラスドアなら破れるはずだ! 学校の外に出ちまえば、警察も救急車もいる! ここに引きこもって殺されるのを待つなんて御免だね!」
「そうだ! 俺は帰る! 家に帰るんだよ!」
武田に従うように、他の男子生徒二人も狂乱状態で教室の前ドアへと躍り出た。
「待ちなさい! 武田くん!」
担任の男教師が声を張ろうとしたが、腰が抜けて教壇の下から動くことすらできない。
「行くぞお前ら! 昇降口から外へブチ抜けて脱出するぞ!」
武田たちは制服の袖で顔の血を拭い、黒い闇に包まれた廊下へと脱兎のごとく駆け出していった。バタバタと激しい足音が廊下の奥へ消えていく。
「武田……!」
創太は葵の手を引き、廊下へ躍り出た。
「創太! 追うの!?」葵が叫ぶ。
「止めるんじゃない、確認するんだ! 本当に『外』へ逃げられるのかどうかを!」
もし武田たちが学校の外へ脱出できるのなら、この異常な空間の境界線が存在するということだ。しかし、もし脱出できないとしたら――この校舎全体が、完全な閉鎖殺戮空間である証拠になってしまう。
西条や他の生徒たちも、武田たちの「脱出」が成功するか確かめるため、恐る恐る廊下へと踏み出してきた。
闇に染まった廊下を、武田たちの懐中電灯の光と叫び声が遠ざかっていく。創太たちは彼らの足足を追い、階段を駆け下りて一階の昇降口へと向かった。
だが、一階へ近づくにつれて、創太の研ぎ澄まされた耳が、異様な「音」を捉え始めていた。
風の音ではない。機械の音でもない。
それは、巨大なプレス機が重い鉄板を押し潰すような、空気が激しく凝縮される重低音――。
ゴゴゴゴゴゴゴゴ……という、地鳴りのような嫌な振動が、校舎の壁と床を伝って創太の足裏へ響いてきていた。
一階の昇降口へと続く階段を下りきる手前で、創太は急立ち止まり、後ろに続く葵を片腕で庇うように制した。
「止まれ……! 行くな!」
「な、なんだよ神谷! 邪魔すんな!」
後ろから追いかけてきた西条が、創太の肩を小突いて前に出ようとする。だが、その西条の顔からも一瞬にして血の気が引いた。階段の踊り場から見下ろす一階のホールは、日常のそれとは完全に変貌していたからだ。
普段なら生徒たちの下駄箱が並び、ガラス張りの大きな自動ドアから明るい光が差し込むはずの昇降口。そこは今、粘りつくような漆黒の闇に覆われ、空気そのものが異常な高気圧に晒されているかのように重く歪んでいた。
自動ドアの向こう側。本来なら校庭と校門が見えるはずのガラスの先には、外の世界など存在していなかった。あるのは、渦を巻く泥のように濁った漆黒の壁。光も、音も、空間すらも一切を呑み込む絶対的な虚無。
だが、パニックに狂った武田と二人の男子生徒――工藤と井口には、その異常な絶望の光景が目に入っていなかった。
「開け! 開けぇぇぇぇっ!」
工藤が叫びながら、ガラスドアの押し棒に手をついた。
「破るぞ! みんなで体当たりだ!」
武田が咆哮し、三人並んで助走をつけ、ガラスドアへ向かって一気に飛び出した。
その瞬間だった。
ドン。
音というよりは、地球の脈動のような重低音が校舎の鼓膜を叩いた。
昇降口の空間全体が、目に見えない巨大な「不可視の拳」によって一瞬で押し潰されたかのような強烈な空気圧の変動。創太の過剰に研ぎ澄まされた耳が、物理法則を無視した絶望の破壊音を捉える。
「あ――」
先頭を走っていた工藤の身体が、ガラスドアに触れる手前でピタリと空間に固定された。
次の瞬間。
ポツン、と嫌な音がした。工藤の両眼球が、体内から急激に高まった内圧に耐えかね、眼帯を弾き飛ばすように眼のくぼみから前方に勢いよく飛び出したのだ。
「ヒっ……!?」
工藤が自らの眼球が飛び出たことに気づく間すら与えられない。
ズシャアッ!!!!!
頭上から、目に見えない数千トンの重圧が垂直に叩きつけられた。
工藤の頭蓋骨が、熟しきった柿をコンクリートに叩きつけたかのように一瞬で踏み破られた。ベキベキメキッ、という骨の砕ける凄惨な音が響く暇もなく、首が胴体に押し込まれ、肩の骨が外側へ向かって弾け飛ぶ。
「工藤!? がっ――!?」
隣にいた井口が悲鳴を上げようとした瞬間、彼の身体もまた不可視の重圧の牙胞に捕らえられた。
ミチミチミチミチミチッ!!
井口の全身の皮膚が、内側から膨れ上がった肉と内臓の圧力に耐えきれず、至る所から破裂して血の噴水を上げた。肋骨が何十本も同時に折れ曲がり、皮膚を突き破って外側へ鋭い刺となって飛び出す。彼の背骨はS字どころか蛇腹のように折り畳まれ、身長が一瞬で五十センチメートル近くまで縮んだ。
「嫌だ! 嫌だぁぁぁぁぁぁっ!」
一歩後ろにいた武田が死に物狂いで引き返そうと向きを変えた。だが、逃げ道など最初から存在しなかった。
頭上から降り注ぐ不可視の圧迫は、逃げ惑う武田の頭頂部を容赦なく捉えた。
ベキッ! ズグシャァッ!!
武田の頭部が押し潰され、口と耳から脳漿と血が弾け出た。彼は直立した体制のまま、足元に向かって垂直に押し潰されていく。関節という関節が逆方向に折れ曲がり、大腿骨が肉を切り裂いて飛び出し、足の裏から土踏まずの肉が床へ押し出される。
みしみし、ぐちゅり、ズズズ……。
それは、果実絞り機に生の肉塊を放り込んで、ハンドルを極限まで締め上げた時の音に酷似していた。
三人分の身体、骨、肉、内臓、脳漿、血、そして制服と靴。それら全てが、目に見えない巨大なプレス機によって、床のタイルへと凄惨に叩きつけられ、水平方向へむっちりと引き伸ばされていく。
バシャアッ! ゴチュッ!
生温かい血の津波が、階段の踊り場にいる創太たちの足元まで押し寄せてきた。
「ひ……ひいいいぃぃぃぃぃぃっ!!」
西条が尻餅をつき、狂ったように階段を這い上がろうとして自分の吐瀉物に滑った。後ろにいた女子生徒たちは、恐怖のあまり悲鳴すら上げられず、目を剥いて白目を剥き、その場に崩れ落ちて気絶した。
葵は創太の服を握りしめたまま、全身の関節をガタガタと鳴らして恐怖に震えていた。創太は葵の目を覆い隠すように抱き寄せたが、創太自身の視線は、昇降口の床に固定されたまま動かせなかった。
そこに存在していたのは――「肉餅」だった。
かつて武田、工藤、井口という名の男子高校生だった物体。
厚さわずか三センチメートルほどの、赤黒く平らにすり潰された巨大な肉のシート。壊れた骨の破片が白く尖った棘のように肉の表面から無数に突き出し、つぶれた眼球と破裂した内臓の塗料が、血の海の中で油膜のように虹色に光っていた。
彼らの着ていた制服の布地は肉と完全に一体化し、ぐちゃぐちゃに引き裂かれた運動靴のゴム底だけが、肉餅の端で惨めな原型を留めている。
蒸気のような温かい血の煙が、昇降口全体に立ち込め、刺すような生の肉の腐臭が創太の鼻腔を激しく刺した。
外への脱出。
警察への通報。
学校からの逃走。
その全てが、甘い幻想に過ぎなかったことが、目の前の平たく伸ばされた三つの死体によって完璧に証明された。
この校舎の敷地全体、境界線の全てが、足を踏み出した者を一瞬で肉のペーストに変える殺戮領域と化している。逃げ場など、最初からどこにも存在しないのだ。
創太の耳の奥で、じわじわと肉のシートから滲み出る血の滴る音が、絶望の拍子を刻んでいた。
ぽとり。ぽとり。
その静寂を切り裂いて、昇降口の天井にある非常用スピーカーが、静かにノイズを吐き出した。
ジジ……ジジジ……。
『ふふ……ふふふふ……』
あの、濡れた女の声だった。肉餅と化した三人の死体を見下ろす位置から、満足げな吐息が漏れ出てくる。
『愚かな仔羊たちは、箱庭から出ようとして、平たくなってしまいましたね』
声は愉悦に満ちていた。まるで、踏み潰した虫の惨状を観察する子供のような、邪悪で無垢な悪意。
『逃げようとしても無駄ですよ。この学校はもう、あなたたちの知っている世界からは切り離されました。言葉の整わない者は、肉の形すら保つことはできません』
創太は歯を食いしばり、必死で自らの呼吸を整えようとした。肺が血の匂いで満たされ、吐き気が喉まで込み上げてくる。だが、ここで正気を失えば、葵を守ることも、自分自身が生き残ることも不可能になる。
「言葉の……整わない者……」
創太は掠れた声で呟いた。
怪異のルールは絶対だ。なぞかけを解けば、その瞬間の即死は免れる。しかし、恐怖に負けて走れば、物理的な圧力によって「肉餅」へと変えられ処理される。
閉ざされた校舎。
次々と肉片に変えられていくクラスメイト。
そして、安全地帯の完全な欠落。
『さあ……次はどの言葉を解体しましょうか』
スピーカーの声が、暗闇の中で妖しく揺れた。
一階の昇降口に立ち込める肉と血の臭気の中、創太は自らの手の中に残る葵の小さな温もりだけを頼りに、暗闇の奥――さらなる絶望の待つ校舎の深淵を見つめ返していた。
逃げ場は、ない。
あるのは、命を削りながら言葉の罠を解き続ける、終わりなき血の地獄だけだった。




