終章
志摩津飛翔は霧のような春雨に蛇の目傘をさし、長谷部邸を訪れた。
震災も空襲も潜り抜けた長谷部の屋敷は、江戸時代の日本家屋のまま、修理はしても作りは変えていない。
夜も更けているが、門は開け放したまま。
モノには執着せず、すべての財産は目に見えぬものというのが長谷部家の家訓だ。
流れに流されず。
されど流れに逆らわず。
でも知力で人知れぬ間に流れを捻じ曲げているのが、長谷部の生き方。
玄関口で声をかけるが、さすがに家人は出て来ない。
勝手知ったる家なので、そのまま庭へ回った。
大座敷の縁側で、着流しの長谷部時宗がひとり碁を打っていた。本を見ながら、たどたどしい手つきである。
「時宗さま、いつから囲碁を?」
「この前アニメでやっているのをみて真似てみたのだが、誰もつきあってくれなくてひとりでやっている。
飛翔くんは」
「すみません、全く」
飛翔は蛇の目をたたんで雨を切ると縁側に腰をおろし、抱えてきた森伊蔵の一升瓶を差し出した。
「この度は、ずい分と甥たちがお世話になりました」
長谷部時宗はにやりと人を喰った笑みを浮かべた。
「どこで気がついた」
「気づいたと言えば、はじめから。
やけに桜樹の受け入れを固辞されるあたり、時宗さまらしくなかったもので。
ただそれはそれとして、桜樹を更生させるにはやはり時宗さまにお預けするのが最良との思いに変わりはありませんでした。
何分、家に居ると過保護な兄が三人もおりますし。
自立させようにも無理がありました」
「彼はちょっと昔の君に似ているな。気質は良いと思う。
大器晩成型だ。時期が来れば目覚めるだろう」
「下の若君とは意気投合した様子。
それはそれで、先が思いやられます」
「新しい時代が来るかな」
「兄サァン、見て見て。
仕立てあがったよ」
華やかな声で八重山上布の夏着物に、八重山みんさーの半幅帯を一文字に締めた結香が入ってきた。
くるりと回って全身を見せる。
「これはまた、気が早い」
七月八月の着物だから、まだ二カ月以上も先である。
「最近の日本は暑いから、いいんだもーん」
結香と一緒に現れた、長谷部仁資がコツリと弟の頭を叩いた。
「志摩津のご当主さまにお礼を申し上げるのが先だろう。
この度はけっこうな物を頂戴いたしまして」
長谷部六兄弟の三男、紺袴姿の仁資は美しい所作で、正座をし、恭しく飛翔に頭を下げた。
紺色が良く似合う、涼やかな瞳の純日本風の美男子である。
「酒も貰ったんだ。どうだ、お前たちも。
支度してくれ」
「は。では、お言葉に甘えて」
結香と仁資は手桶に氷水を張り一升瓶を冷やすと、薩摩焼のぐい呑みと山菜、新香などを運んできた。
結香の酌で、森伊蔵をいただく。
澄んだ味が五臓六腑にしみとおる。
飛翔は隻眼で、結香に笑いかけた。
「よく似合っている」
「で、っしょー。
聞いて。松っくんなんか、『結香さんなんかに』って言ったんだよぉ」
「お前が昔、散々苛めたからだろう」
仁資がいうと、結香はあらぬ方を見た。
「ボク知らない。李香じゃない?」
時宗は目を細めて、弟たちの姿に笑っている。
結香の華やかさに、救われているのだ。それは長谷部の一族だけではない、志摩津もだった。
だから、結香の喜びそうなものを、時宗に贈った。それがなにより、時宗にとって嬉しいもののはずだから。
時宗は森伊蔵を一気に呑み干した。
「今回はじめて吉鷹くんに会ったが、いい男だな。
よく育てあげた」
「彼はいいコでしたよ、昔から。
素直でまっすぐで」
仁資もにこやかに言う。
「ちょっこしワルもしてたけど、それがまた、いい男ってカンジ?」
結香らしいコメントだ。
長谷部の面々に口ぐちに褒められて、目がしらが熱くなり、誤魔化すために飛翔は頭を深く下げた。
「私はご覧の通り独り身ですから、本家の家族に放り込んだまま、特には何もしてません。
あの子の素養です」
時宗はぐいと身を乗り出した。
「そこでものは相談だが、うちのムコに貰えないだろうか」
仁資、結香の二人がいきなりむせかえった。
この二人を驚かせるということは、ただ事ではない。
飛翔は居住まいを正した。
「長谷部の家にそのような女人がおりましたか」
「私の娘だ。イギリスに置きっぱなしで、どうも女らしくないというか、色気がないというか。
それなりの男性とつきあえば角も取れてくると思うのだが」
仁資が息を整えながら、恐れながら、と話に入りこんだ。
「その話、志摩津家に非常に失礼というか無礼というか、物事にも限度というものがあります」
「チビ牛若クンとだと、美女と野獣ってとこ?」
「だいたい、兄上の教育の問題でしょう」
「あー、ダメダメ、あのコ、父親のこと、一切信用してないもん」
弟たちに口々に言われて、はああああっと時宗はため息を吐いた。
長谷部家の当主にして、日本を代表する知の巨匠。
それでも思い通りにならぬことは、ままあるようだ。
飛翔は微笑した。
「吉鷹にはこれからは当人の望む人生を歩ませてやりたいと思っています。
ご縁がある時はあるでしょう」
夜空が明るいと思ったら、雨が降ってはいるが月が出ていた。
十六夜か。
雨雲に霞んでいる。
空になったぐい呑みに、結香が酌をする。
こんな夜には。
失った人たちを、儚く思い出す。
「さすがイイ飲みっぷり。さささもう一杯……アレ、もう空いちゃった?」
結香が一升瓶を逆さにしてブンブンとふった。
「いったい、いつの間に」
愛らしく小首を傾げているが、長谷部のウワバミは血統である。
「イイ酒はなくなるのが早い、なにか蔵になかったか。
せっかく志摩津のご当主様がいらしているというのに、空の杯では申し訳ない。早く持ってこい」
「器が小さすぎやしませんかね、もっと大きいのに……」
賑やいでいると、着流し姿の守屋と長谷部の祐筆衆、東祁鶯円が現れた。
「ご挨拶が遅れました」
三つ指をつき、深く頭を下げる。
志摩津飛翔はあわてて縁側に上がり、最敬礼をした。
「こちらこそ、今回はずい分と世話になった。
話は聞いている」
「ち、ちょっと……、志摩津のご当主さまにそのように頭を下げられましては、我らは……」
「お酒、あったよぉ~」
明るい声で一升瓶を四、五本抱えた結香が戻ってきた。
顔に似合わぬ怪力である。
「おお、ちょうどいい。お前らも飲んでいけ」
長谷部時宗はいそいそと宴会の支度を始めた。
「せっかくだ、他に起きている連中もいるなら呼んで来い」
「樽が必要になりますよ」
「おお、そうだ、よく気がついた、仁資。
調達して来い」
「ええええ、そんな意味で言ったのではありません。
こんな時間に無茶です」
「いいから行けって」
生まじめな仁資が、兄に追い立てられて、とぼとぼと出ていく。
飛翔は微笑した。
どこの家も、いつの時代も、いつになっても、兄は弟に無茶難題をふっかけるものらしい。
甥っ子たちの弟離れも。
やはり、まだまだ先になりそうだった。