第43話 扉の向こう
王都の空は高く澄んでいる。
夜も更け、人々がそれぞれの家路につく頃、エレニアはふと城門の外に出ていた。
まだ仕事が残っていたが、少しだけ、風に当たりたい気分だった。レオンに少しの間留守を任せ、街に出た。
後片付けを終えた露店は店じまいを始めていたが、街のあちこちにはまだ、酔い冷ましがてら集う市民たちの姿があった。
顔を隠すこともせず、ただ一人歩くエレニアに、誰も気づく様子はない。会話の端々が彼女の耳に届いてくる。
「なあ、セフィリア様は、いつまで戦いを続けるつもりなんだろうな」
「前はただ信じていたけど、最近は……ねぇ?」
立ち止まったエレニアの足元を、夜風がさらりと撫でる。その場から動けなかった。
「聞いただろ? セフィリア様を差し出せ、ってあの声」
若い男が言う。
「そうすれば、戦いは終わるって」
「何言ってんだよお前、そんなこと……」
もう一人の男が控えめに止める。
「でも、そうだろ? お前だって言ってたじゃないか、俺たちばかり、苦しむのはごめんだって」
彼も、強く否定はできなかった。
エレニアはゆっくりとその場を立ち去る。角を曲がった先の軒先で、話し込む数人の市民が目に入った。
子どもを膝に抱えた若い母親が、疲れた笑顔で言っている。
「戦がなければ、この子にももっといい暮らしをさせてあげられるのに……」
「最近は、ろくに食べ物もないだろ? 農村の被害が大きい、って」
「セフィリア様は立派な方だ、でも……うちらの暮らしには、ちょっと遠いお方だよ」
その言葉に、エレニアの胸が小さく軋む。
違う、と声に出しそうになった。
しかし、口は動かない。民の生活と痛みが、想像以上に遠くにあることを思い知らされる。
「女王様も前はもっと町に出てきて、私らの声をよく聞いてくれたんだけどね」
「でも今は、エレニア様がきてくれるじゃないか。あの方の方が近くに感じるよ。
話を聞いてくれるし、ちゃんと人間、っていうか。エレニア様が王になってくれたらなぁ、なんて」
そう言って笑う。
何気ないその言葉が、エレニアの胸に嫌に深く刺さる。
(──私が、王に?)
考えたこともなかった、とは言わない。しかしかつてなら、その考えを抱いた瞬間に否定していた。
セフィリアの隣に立ち、彼女を支えることが自分の使命だと信じていた。
いつだって、どうしたって、セフィリアは主人公だった。いつも隣にいて、どうしても自分は彼女の物語の脇役に思えた。
自分の人生なのに、誰かの脇役である人生。
(こんなこと考えるなんて、どうかしている)
それでも、民が自分を求めているという現実が、エレニアの中で少しずつ確かな形を取り始めていた。
エレニアは静かに城へと戻る。頭の中には民の声が何度も響いていた。
***
「──ニア様!エレニア様!」
「ごめん、呼んだ?」
「何度もお呼びしていますよ。
どうかしたんですか? ぼんやりして」
レオンは呆れたように言う。
「いえ、ちょっと考え事をしていたの」
「お疲れなんじゃないですか、セフィリア様は人使いが荒いから」
「そうね……」
エレニアはなおもぼんやりとした表情で応じる。レオンは目を丸くした。
「珍しいですね、いつもなら否定されるのに」
エレニアはハッとして、気を取り直して応える。
「──それで、何の用?」
「国民から、陳情が届いています。エレニア様に話を聞いて欲しい、と」
「最近、多いわね」
やはり、国民の不満は高まっているのだ。
近頃多忙なセフィリアに代わって、エレニアは頻繁に街を回るようにしていた。その道々で、住民から声をかけられることが増えた。特に、あのハルシャの襲撃以降は──
エレニアは国中に響いたあの男の声を思い出す。セフィ、と親しげに呼びかけるあの声。
「みんな、不安なんです。国民は、話を聞いてくれる相手を必要としています。
今までもご対応いただいていましたが、最近ちょっと数が増えすぎて、まとめて聴くのもいいかな、と」
どうでしょう、とレオンはエレニアの顔色を伺う。
「……そうね、それがいいかもしれないわ。
都合のいい日を見繕ってくれる? 手配は任せていいかしら」
「お任せください! なんなら、僕が代わりに話を聴いてきましょうか? 意外と、人気あるんですよ」
「冗談はそのくらいにして、まったく」
エレニアは苦笑する。
「失礼しました。やっぱり、エレニア様は笑顔が似合いますよ。
みんな、頼りにしているんです。──ひょっとしたら、セフィリア様よりも」
レオンは冗談めかして言う。エレニアは曖昧に頷いた。
「──そういえばエレニア様、ご存知ですか、あの噂?」
レオンは声を低くする。
「噂?」
「はい、セフィリア様がリュグルスと通じている、という噂です。ウェルリスを裏切るつもりなんじゃないかって」
「セフィが、この国を裏切る? そんなことあるわけないじゃない。あの人は、この国そのものよ」
「はい、しかし……」
レオンは言葉を濁す。
「あなたも、信じているの?」
「信じたくは、ありませんが……」
彼は少し俯く。
「もちろん、セフィリア様はその様な方ではないと思っています。
しかし、民は疲弊し切っています。噂を信じる者も多い。このままでは、どうなるか」
セフィリアがこの国を裏切るなんてこと、あるはずはない。エレニアにとって、そこに疑念の余地はなかった。
しかし、戦争は終わる気配を見せない。民の間では、このままでは国が滅ぶ、との不安が広がり、次第にセフィリアへの信頼は揺らぎ始めている。
エレニア様が王になってくれれば、という市民の声が頭から離れなかった。
***
糸のように細い月が、微かに足元を照らしている。
エレニアは一人、暗い夜の城の廊下を歩く。その背中には少しの疲労が感じられた。
──セフィリア様は、我々を、見捨てられたのでしょう!
耳の奥には、日中に聞いた民の叫び声がまだはっきりと残っている。
──もう、こんな生活、耐えられないのです!エレニア様、我々を助けてください!
王都の集会所で開かれた集会では、エレニアに、多くの声が寄せられた。皆、こぞって話を聞いて欲しがった。皆口々に、今のこの状況を何とかして欲しいと、訴えた。
その言葉の一つ一つを、エレニアは思い出す。無数の目が、自分を見上げていた。
皆怖いのだ。先が見えないこの状況が。
誰もが、セフィリアのように強いわけではない。彼女のように強い人間など、いない。
民は、不安の中にあった。
(……本当に、このままでいい?)
胸の奥に、これまで何度も抱いてきた疑念が立ち上る。白銀の髪の揺れる後ろ姿が、頭に浮かぶ。
『答えを、探しているのか?』
低く響く声。エレニアは驚いて振り返る。そこには、扉があった。
ロゼルトが、彼女を呼んでいる。
『夜更けに独りで、何か思い悩んでいるのだろう?
私の元に来い。お前の憂いを晴らしてやろう』




