第42話 臆病者
空が白み始めた頃、ハルシャでのひとまずの処置を終えたセフィリアは、いつものように誰にも知らせず、静かに城へ戻ってきた。その足取りは、疲労の色を微塵も感じさせない。
まだ空には薄い星の名残が浮かび、廊下は静寂に包まれている。
「ずいぶん早いお帰りね」
待ち構えていたエレニアが、扉の前で腕を組んで立っていた。
「エリ、ずっと私を待ってくれていたのか?疲れただろう、ちゃんと休めよ」
セフィリアは、淡々と応える。外套を脱ぎながら、廊下の明かりに照らされたその顔は、普段と変わらぬ冷静さを保っていた。
エレニアはため息をつく。
「まったく、それはこちらのセリフでしょう? それにあなたが倒れた時のことを思えば、ゆっくり眠ってなんていられないわ」
セフィリアの身体を見る。
「無事なのは知っているけど……もっと体を労わってくれてもいいのに。ねえ、いつまでそんなふうに耐え続けるつもりなの?」
「労わるほどの傷は負っていないよ」
彼女は歩みを止めない。エレニアの顔を見ることもない。
「ほんと、そうやって強いことばかり言って……平然と無茶をして、平然と帰ってきて、顔色ひとつ変えない」
「私のことは心配ない、なんともないと言っているだろう?」
何を言っても、全ての言葉を受け流すセフィリアに、エレニアは苛立つ。いつだって、こうだ。
「本当のことを、私にくらい言いなさいよ、この臆病者! 私がいつも、何も気づいていないとでも思う?」
「私は、私のやるべきことをやっているだけだ」
即答だった。セフィリアの声は静かだったが、その意志は鋼のように揺らぎがない。
エレニアは言葉を失い、少しだけ目を伏せる。
これ以上何を言っても、この人は動かないのだと分かっている。
「——本当に、あなたって人は。言っても聞かないんだから」
エレニアはため息混じりにそう呟いた。セフィリアは少しだけ口元を緩めて、小さく言った。
「悪いね、補佐官殿」
その言葉には親しみがこもっていたが、どこか壁を感じさせる。
「せめて、何か食べたら? すぐに持ってくるから」
「──ありがとう、悪いが一人にしてくれるか」
穏やかにそう返す背中は、もう扉の向こうへ向かっていた。
***
部屋に入ったセフィリアは、重い扉をしっかりと閉じた。そのまま明かりもつけず、重い体を引きずるように床に座り込み、ベッドにもたれかかる。
臆病、か。その通りだ。でも私には、こうすることしかできない。それは、そう、臆病だからかもしれない。
目を閉じると、ハルシャの街が瞼の裏に映る。炎の残像がちらつく。
──また、守ることができなかった。もっと早く気付いていれば、もっと多くの人を救うことができた。
暗闇の中、後悔の波が押し寄せる。セフィリアはギリギリと自分を強く抱きしめた。そしてその体勢のまま、いつしか浅い眠りに落ちた。
***
「まて、やめろ!やめてくれ!」
セフィリアは、燃え盛る街の中を彷徨いながら叫ぶ。瓦礫になった家と、倒れた人々が通りに溢れている。助けを求める声が街中を覆っていた。
崩れた建物の隙間から、小さな手が伸びている。子供だ。
助けなければ。しかし、瓦礫が無慈悲に崩れ落ち、手は炎に包まれる。
道端に座り込んだ人々は、歩くセフィリアを見ることもない。セフィリアは、どうすることもできないまま、崩れた街を見まわし、ボロボロになりながら歩き続ける。
かつて人々が笑い、歌い、家族が団欒していた街が、今はただ焼け落ちていくだけの瓦礫と化していた。見回りで訪れたセフィリアに駆け寄ってきた住民の笑顔が重なる。しかし次の瞬間、その姿は黒煙にかき消される。
どこまでも続く惨状、いつまでも終わらない悲劇。
歩き疲れ、叫び疲れて、もう声も出なくなる。ふと、足がもつれて歩けなくなり、その場に倒れ込んだ。地面を見つめて力無く呟く。
「お願いだから、私からもう何も奪わないで──」
***
そこで目が覚めた。真っ暗だった部屋には、薄青い朝日が差し込んでいた。
(……またか)
ベッドにもたれかかったまま、セフィリアは静かに息を吐いた。
耳に残る叫び声と、目に焼き付いた炎を振り払うように、瞬きを繰り返し、深く息を吸った。
そしてゆっくりと立ち上がる。薄明かりに照らされた鏡の中、やつれた自分の顔が映る。ひどい顔だ。
水を一杯飲み、しばらくぼんやりと窓の外を見つめる。身なりを整え、静かに自室を出た。
「おはようございます、セフィリア様、今日もお早いですね。もう少しゆっくり休まれてもよろしいのに」
「おはよう、テレーザ。朝はどうも目が覚めてしまってね」
普段通りに挨拶を返す。その完璧な笑顔は、先ほどまでの自室での様子など微塵も感じさせなかった。
その後もすれ違う城の者たちに笑顔で挨拶をしながら、今日も変わりない様子に一安心して、執務室へと入る。
椅子に腰を下ろし、机上の報告書を手に取った。ハルシャの被害は想定以上に大きく、復興にはかなり人手が必要そうだった。




