リヴィネル
軍議を終え、私室としている天幕に入ろうとした青の都の王太子シヴァは立ち止まった。中から人の気配がする。
無言で後ろに手をやり、従僕から太刀を受け取ると護衛を目顔で止め一気に踏み込む。
灯火がぼうぼうと音をたてて揺らめき、いくらかは広い王太子の天幕の中はゆがんだ炎に照らし出された。
灯火の下にかしこまっている人物を見て、シヴァは合図して側近を下がらせる。
「今夜、そなたを呼んだ覚えはないが? ミラージュ……」
ふたりきりになると、寝台の毛皮の上に腰を下ろしたシヴァは太刀を傍に転がし腕を組んだ。手をついて一礼し、青の巫女ミラージュは表情のない顔を上げた。きっちりと束ねられた長い金髪が、肩から前へ垂れたままになる。
「お願いがあり、参上いたしました」
いつになく、ミラージュの声は震えていた。
「願い?」
シヴァは訝る。だが、そんな様子はつゆほども見せずかすかに笑う。
「ほう、何だ? 言ってみろ」
ゆっくりとまばたきをして、澄んだ青い瞳を王太子に向けると巫女は言った。
「どうかわたくしを、巫女としてではなく、一兵士として遇してくださいませ」
「なんだと?」
「シヴァ太子さま……」
途端に表情を険しくしたシヴァの鋭い視線を真っ向から受ける女は、もはや青の都の青の巫女としてのミラージュではなかった。
「わたくしがあなたさまの陣に参りましたのは、士気を鼓舞し、武運を祈る、ただそれだけのためでございました。しかし、ただそれだけのことしかできないわたくしを護り、死んでいった方々にわたくしは、いったい何をしてさしあげることができたのでしょうか。わたくしのために死んでしまうために、あのかたたちは在ったのではないはずです」
「ミラージュ……」
あふれた涙が彼女の白い頬を伝い落ちるのを見て王太子は少し態度を和らげたが、語調はまだ厳しい。
「そなたは……クリシュナのことを言っているのか?」
「……はい」
ミラージュが目を閉じると、さらに大粒の涙が零れ落ちた。
「あのかたは……まさに生きるよろこびそのもののようなかたでございました。わたくしが、もうずっと長いあいだ忘れていたことを思い出させてくださいました。クリシュナさまのおかげで、わたくしはやっと人としての心に気づくことができたのです。シヴァ太子さま、どうか」
王太子の右手がミラージュの頬に触れる。
驚いて目を開けると、シヴァは皮肉げに口元を歪めていた。
「巫女のくせに、そなたはクリシュナのために泣くのか。奴と情を通じていたのか」
「ちがいます!」
きっぱりとミラージュは言った。シヴァの手を払い除けた段階で、既に涙は止まっている。
「シヴァ太子」
毅然と王太子を見つめて彼女は低い声で告げた。
「これが最後のお願いでございます。お聞き届けいただけない場合は」
一呼吸の間に、ミラージュは言葉に想いを込めた。
「まことに勝手ながら、このミラージュ、青の巫女の座を退く覚悟にございます」
そうしてミラージュは丁寧に頭を下げた。
「ずいぶんと、勝手ないいぐさだな」
辛うじてシヴァはそれだけのことを言った。
「勝手は承知しております」
ミラージュはよどみなく応える。
シヴァは何も言わずに灯火台となっている小卓から酒の入った壺を取り上げ、直にあおった。
「……存外」
酒を飲む手を休め、シヴァはつぶやいた。
「そなたは火のような女なのだな」
「は……?」
ミラージュが顔を上げると、シヴァは背を向けてまた一口、含んだところだった。ゆっくり飲みくだし、振り向いてミラージュの方に壺を差し出す。
「飲むか?」
言葉もなく、ミラージュはシヴァを見つめた。
ようやく壺を卓に戻し、王太子は再び腕を組む。
「ミラージュ」
「はい」
呼ばれて素直に応える。そのひたむきなまなざしにこめられた強い意志が、彼をして決断たらしめた。
「……明日、私の親書を持って石の都へ行け。リヴィネルのアスラ王に直接そなたが親書を渡せたら、そなたの願いを聞こう」
石の都リヴィネルのアスラ王といえば、人嫌いで有名だった。ごく一部の重臣としか会わず、その姿を外国の使者はおろか、一般民衆ですら見たことがないという。
「かしこみまして」
真摯な顔で、ミラージュは頭を下げた。
翌朝、青い軍装を纏って王太子に付き従うミラージュの姿はどよめきをもって兵士たちに迎えられた。
周囲には頓着せず、ミラージュはシヴァの後を追って厩に入る。
「いちばん速い馬はどれだ?」
シヴァの問いに馬丁長は即答した。
「あちらの、葦毛の三本角でございます」
馬丁たちが目をかけているようで、艷やかに手入れされ、肉付きも申し分ない。軍馬として超教された三本角らしく眉間から頭頂部にかけて生えている角は鋭く、相当に気が荒く、しきりと足元の土を蹴散らしている。
「一本角はいないのか?」
「太子さまがお乗りになるのではないので?」
葦毛の三本角を見ながら事も無げにシヴァは言った。
「乗るのはミラージュだ」
「みっ巫女さまが?」
馬丁長はひどく驚き、言葉を失った。それはそうである。草原の国ならばいざしらず、青の都では女性は移動手段として馬に乗るという習慣がない。何かの行列として使う場合は特殊な鞍を置き、横乗りにして轡を守護者が取る。
だが彼は馬の専門家である。気を取り直し、なんとか言った。
「青の巫女さまがお乗りになるなら、やはり一本角のほうがようございましょう。そちらの、黒馬はいかがで?」
すっきりと首を伸ばし、落ち着き払った様子のあおがこちらを見ていた。
「両方をこれへ」
短く下知すると、シヴァはミラージュに言った。
「そなたの良いほうを選べ」
ミラージュはうなずいた。
一本角はミラージュを前にするなり、ただ一本の角をぶつけないように注意深くすり寄ってきた。そっと鬣に手を触れると、甘えるように嬉しそうに鼻を鳴らす。
反対に、三本角はある一定の距離以上はミラージュに近づかず、いらいらとしきりに足踏みするばかりだ。
「……三本角に馬具を」
一本角の鼻面を軽くたたきながらミラージュは言った。
「巫女さま?」
馬丁長も馬丁たちも、とっさに身動きできなかった。一瞬、ミラージュが言い間違えたのだと思ったからだ。
「葦毛の三本角に馬具を付けてください!」
ミラージュが強い口調で言ってやっと、彼らはその選択を理解した。
「さ、お戻りなさい」
ミラージュに促されると黒馬は自分から元いた馬房へと歩いていった。それを少しだけ見送ると、ミラージュは三本角に向き直り、すっと右手を前に差し出した。
ゆっくりと、葦毛は彼女に歩み寄ってきた。
ミラージュの手の前で立ち止まり、お辞儀をするように頭を下げて鼻先を白い手に押し当てる。
三本角の豹変ぶりに驚きながらも、馬丁たちはすばやく馬具を整えた。
厩を出るシヴァに従うミラージュの後を三本角が追う。
「これが親書だ。必ず、アスラ王に手渡せ」
わざわざ陣門にまで出て、シヴァ太子はミラージュに特使をさせることを強調した。
「はい」
深くうなずくと、ミラージュは親書の巻物を懐剣に縛りつけ、共に軍衣の飾帯にたばさんだ。
ものなれた様子でミラージュが三本角に騎上する。びくりとも葦毛は動揺しなかった。
場上の人となってからも、ミラージュはしばらくそのままでシヴァ太子を見ていた。
何か言わなければならないようでもあり、相手が何か言うのを聞かなければならないような、そんな気もしていた。
それはシヴァにしても同じ思いだったのだが、やがて彼は言った。
「……行け」
無言でミラージュは馬首を転じた。
◆ ◆ ◆
石の都リヴィネルの建国は、ドヴァーパラ紀の黎明期であった。建国者は修羅族の王アスラ。伝説の夜摩天女のひとりとされる戦鬼である。以来、リヴィネルの王は代々“アスラ”の名を名告っている。
ともすれば極めて排他的なリヴィネルで、ミラージュはあっけないくらいに宰相イルド・クシュとの会見を得た。
「青の巫女どの、先程から申しておるとおり、我が王にはお目通りはかなわぬ。このイルド・クシュを信じて、王太子どのの親書、お預け願えぬか」
宰相が何度目かに言ったとき、ミラージュもまた、いままでどおり首を横に振って応えた。
「シヴァ王太子殿下より、リヴィネル王陛下に直接お渡しするよう申しつけられて参りました。宰相さまといえども、お渡しすることはできませぬ」
そのままでは気まずい空気で見つめ合いそうなので、何気なくミラージュは窓外に視線を転じた。
「あれは、どなたです?」
不思議な感覚にとらわれ、ミラージュはイルド・クシュに尋ねていた。
リヴィネルの王宮をめぐらす運河に小舟を浮かべ、舟遊びを楽しんでいる少女のことをミラージュは訊いたのだ。
年の頃は十七、八で艷やかな黒髪は肩を過ぎたところで揃えられ、いささか長すぎる前髪も目のちょうど上くらいで切り揃えられている。身に纏っている美しい衣服と装身具が、少女の身分の高さを示していた。
「あのかたは……っ」
イルド・クシュが狼狽えたように口ごもった。
「あのかたは、王族のかたで……ウェラ姫と申される」
「姫君? 王女殿下ではいらっしゃらない?」
「王女殿下では、ない」
うかうかと、宰相はミラージュのかけた言葉の罠にひっかかった。
ミラージュは直感的にウェラ姫を識った。
そしてイルド・クシュのいまの言葉が、彼女に己の判断を確信させた。
会見していた近接する席を立つと、ミラージュは大窓を開けて外に出た。思ったとおり、石畳が通路として敷かれ、運河の際まで行けるようになっている。
「青の巫女どの」
イルド・クシュの制止の声など、ミラージュは聞いていなかった。ウェラ姫の小舟を目指して歩き出す。
ミラージュの賭けだった。
リヴィネルのアスラ王に直接、親書を手渡せるか否か。それは同時に、ミラージュがアスラ王をそれと認識できるか否かをも意味した。
自分にアスラ王を見出す器量がないならばここで、王族への不敬罪で処刑されてしまうほうがいいとミラージュは思った。
王たる者もわからぬ自分が、シヴァ太子をカルマ星の覇王たらしめることなど、できようはずがない。
ウェラ姫はミラージュに気づいたらしく、漕手に小舟を接岸させた。一大事とばかり、駆け寄ろうとする衛兵を手で制し、かすかな笑みを浮かべてミラージュを待っている。
岸辺に降り立ったウェラ姫の数歩前でミラージュは片膝をつき、右手の先を左胸に軽く当てて黙礼した。応えてうなずき、姫は薄紅色の唇を開く。
「あたくしに何か?」
直答を許されたミラージュは顔を上げてウェラ姫を見た。そのまま臆することなく、目を見て切り出す。
「リヴィネル王ウェラ・アスラさまとお見受けいたします。青の都の王太子シヴァ殿下の親書を、お届けに参りました」
ウェラ姫は黙ったままミラージュを見た。
伝えるべきことは言葉にした。ミラージュはただ、返答を待つ。
ややあって、ウェラ姫は左手を差し出した。
直ぐにその意味するところを察し、ミラージュは親書の巻物を手渡した。
勢いよく開いて半分ほどまで目を通すと、ウェラ・アスラは書面から目を離さずに言った。
「そなた、何者か?」
「青の巫女、ミラージュと申します」
「巫女か……」
ミラージュに一瞥を落とすと、そのままウェラ・アスラはシヴァの親書を完読した。
「ふ、ん……」
さして面白くもなさそうに息をつき、アスラ王は手紙を軸に巻き戻した。
「シヴァどのの意図は、わかった」
「はい」
ミラージュから一時、視線を外しウェラ・アスラ王は遅れて到着した宰相に親書を渡した。再びミラージュを見たとき、王は楽しげに笑んでいた。
「ミラージュといったな」
「はい」
「巫女にしておくには勿体ないくらい、いい女だな」
「な……?」
ミラージュは常にもなく驚いてアスラ王を凝視した。これが、船上で淑やかであった、あの姫君なのか?
「……アスラ王?」
確信していたことだが、それでもミラージュの声が揺れた。
楚々とした美少女ぶりはどこへやら、美しい薄色の女装束で力強く腕を組み、少年王のように凛々しいまなざしでウェラ・アスラはミラージュを見た。
「使者どのをもてなす宴の用意を!」
朗々と命じて王はミラージュをその場に置き去りにした。足早に彼女が出てきた窓へと向かう。
ミラージュが立ち上がると、その周りに衛兵が集まってきた。促されるままにアスラ王と反対の方へと進む彼女の耳に、王の次なる命令が聞こえる。
「わたしの軍装を! いくさの用意だ」
ミラージュが振り向くと、同様に振り返ってミラージュを見ていたアスラ王は唇を愉悦の形に歪ませていた。
前方に大鳥の陣形を取るリヴィネル軍約一万を見たとき、シヴァは言い知れぬ怒りを覚えた。
彼はアスラ王への親書に、青の都と西の馬族の同盟軍が今日、リヴィネル近郊を通過するが、リヴィネルと一戦交えるつもりはないと書いたはずである。
あるいは、万一にそなえての軍備かもしれぬが、青の巫女ミラージュが戻らないからには、そうではないと考えるのが定石だ。
馬を止め、前方を睨みながらシヴァは頭に手をやり、飾りピンを抜いてターバンを取った。長い前髪が斜めに顔にかかる。
白の正法官カルキが三本角を寄せてきた。
「隊列は整っております」
「うむ。ヤマ・ダルマはどうした?」
「あちらに」
カルキの示す右翼の果てに、ヤマの赤いターバンが見えた。
「うん」
シヴァはただうなずいた。
と。
ゆっくりとリヴィネル軍が前進しはじめた。中央部で大鳥の両翼が合わさりながら、真っすぐにシヴァのいる同盟軍に向かって進んでくる。
微動だにせず、シヴァはそのさまを見ていた。
両軍のあいだがある程度まで接近すると、リヴィネル軍は止まった。司令と思しき単騎がさらに進み出て大声で呼びかける。
「リヴィネル王の命により、お待ち申し上げておりました! シヴァ王太子殿下!」
シヴァは前髪をかきあげて司令を見た。
「石の都リヴィネルは、本日を以て氷の国に宣戦を布告し、同盟軍に与すると決議いたした!」
「ミラージュか」
シヴァはそうつぶやいた。
この日、青の都、西の馬族、石の都の三邦同盟が確立した。
同日、青の巫女ミラージュはクリシュナの形見である黒の正法官の護符を授けられ、巫女でありながら正法官でもある聖正法官に叙せられている。
『リヴィネル』
── 了 ──
この話(というか、エピソード)のモチーフは舞楽の
「蘭陵王(羅陵王)」から来ています。斉の国の蘭陵王長恭がその美貌を隠すため仮面をつけて戦いにのぞんだという故事に由来して作られたという舞楽。書いてた頃はその記述以外の資料が探せず、どんな舞なのか知らないまま書いてしまったのですが……いつの間にか王の仮面設定もどっかに消えちゃっていました。
今回も読んでくださり、ありがとうございました。