エピソード1.5:夏の終わり㊤
「……そう、ケッカちゃん、視力は回復したんだね」
ユカや蓮の件から1週間と数日が経過し、蓮と聖人の軟禁解除、及び処分が確定した夏の終わりの平日。時刻は間もなく、午前11時になろうかという頃合い。
仙台市の北にある富谷市、住宅街の一角にある真新しい診療所の廊下で、聖人は統治からの電話を受けていた。
ユカの目が完全に見えなくなった。
その連絡を聖人が多方面から同時に受けたのは、蓮が名杙に離反し、自分の監督不行き届きが槍玉に挙げられた直後のこと。
聖人は自分のスケジュールを調整してユカを一度登米市に呼び、聖人も立ち会った状態で、透名総合病院の眼科を受信させた。その上で、彼女の目は医学的に何の問題もないことを確認して……診療後、病院内のカフェで苦笑いを浮かべていた。
「分かってはいたけど……医学的にはかなり奇妙な現象だね。ケッカちゃん、他に体の調子が悪いところはないのかな?」
「本当に、コレと言って何もないんです。だからもう、毎日が暇で暇で……」
こう言って、ユカは手元のコップを両手でつかみ、ストローでアイスコーヒーをすすった。
愛美に付き添われてやって来た今日のユカは、移動をスムーズに行うために、院内用の車椅子に着席していた。今は4人がけのテーブルで1つ椅子を外し、そこにユカが車椅子ごと入り込んでいる。隣に座る愛美がユカの様子を見守りながら、改めて、正面にいる聖人を見つめる。
「伊達先生……ユカちゃんは、いつまでこの状態なんでしょうか」
治療法もなく、とりあえず名杙の家にいなければならないという現状に、未来を信じろという方が無理な話だ。不安を吐露する愛美に、聖人は曖昧な笑みを返すしかない。
「こればっかりは……正直なところ、自分も何とも言えません。ただ、他に対処法がない以上は、もうしばらく、名杙家で様子を見ていただければと」
「そうですよね……こんな事例、名杙でも聞いたことがなくて……また何かあればご相談します」
愛美はこう言って、手元のコーヒーをすすった。そして、聖人に蓮の様子を尋ねようと思ったが……自分が聞いたところで、彼らの現状は変わらない。
愛美が蓮のことに口を出せば、処分を下した領司の立場が危うくなる。夏休み中とはいえ、未成年の少年を不自由させることに負い目がないわけではないが……彼はそれだけのことをしたのだ。だから、しょうがない。
今はユカのことに集中しようと意識を切り替えていると、聖人がユカの方を見て口を開いた。
「櫻子ちゃんも心配していたから、見えるようになったら連絡してあげてね」
聖人が櫻子の名前を出すと、ユカがピクリと反応して、声を頼りに彼の方を見つめる。
「分かりました。櫻子さん、今日は富谷ですか?」
「そうだよ。開院も近いし、9月にちょっとしたイベントを開催するから、その用意もあってね」
聖人の言葉に、ユカは先日、里穂から聞いたことを思い出した。
「あ、里穂ちゃんが言ってました。学生向けっていう……」
「そうだよ。里穂ちゃんや仁義君にも、ちょっと協力をお願いしているんだってね。本当は、蓮君にも協力してほしいんだけど……また改めて交渉してみるよ」
聖人はこう言って、手元の水を飲んだ。そして……ユカを見つめて、心の中で安堵する。
ユカの異変を目の当たりにした政宗が混乱して、最悪、暴走するのではないかと思っていたけれど……そこまでには至らなかったから。
かつて――彼がまだ、『伊達聖人』という名前ではなかった頃。
そこで彼は、運命に翻弄された。
「――ここ、いいですか?」
今から10年以上前の春、大学に入学したばかりの『彼』が、学内の講義室で授業開始を待っていると……不意に声をかけられたため、その方を向いた。
3人がけの長机、その右端に座っていた『彼』は、1つ挟んだ隣――左端に座りたいと伺いを立ててきた人物に、「どうぞ」と会釈をして了承する。
視線の先にいたのは、ノンフレームの眼鏡が似合う、アクのない顔立ちの、爽やかな青年だった。教科書や筆記具等の真新しさから、恐らく、入学したばかりの1年生。この講義は一般教養なので、他の学部生も多い。
『彼』が時間を潰すために、手持ちの本を開こうとした次の瞬間――隣の人物が、「あ……」と、間の抜けた声を漏らした。
聞いてしまうと、気になってしまう。
「どうかしたんですか?」
「あ、いや……シャープペンの芯、買うの忘れてて……妹からも言われていたんですけどね」
そう言って苦笑いを浮かべる隣人に、『彼』は自分の筆箱からシャープペンの芯が入ったケースを取り出すと、その中から3本ほど取り出した。
「HBでよければ、どうぞ」
「あ……ありがとうございます……!!」
それを受け取った隣人は何度と無く頭を下げると、取り出したシャープペンシルに『彼』からもらった芯を入れた。そして……『彼』の手元にある本を見て、目を丸くする。
「もしかして、医学部の方ですか?」
「そうですが……よく分かりましたね」
「受験が終わったのに、数学の参考書を開いているなんて、医学部の人くらいかと思って」
確かに、大学受験を終え、入学式も終えた今、1年生は最も気が緩んでいる時期かもしれない。しかし、明確な目標を持って入学してきた彼にしてみれば、ここで気を抜いて置いていかれるようなことはしたくなかった。
そんな彼の反応を見た隣人は、どこか人懐っこい笑顔を向けて――名を名乗る。
「俺、教育学部1年の、富沢渉です」
その名前を聞いた瞬間、『彼』の目が軽く開いた。
これは偶然なのか、それとも、未来へ繋がる必然なのか。
今はまだ何とも言えないけれど……でも、ここで名前を名乗ることで、何か、変わるような気がしたから。
袖振り合うも多生の縁、と、言うように、この出会いが大学生活で何か意味を持つかもしれない。特に根拠はないけれど、その時の『自分』は確かにそう思っていた。
「自分は……医学部1年の、富澤聖人です」
その響きを聞いた瞬間、隣人――渉の目が、眼鏡の向こうでとても大きく見開かれる。
「え……あ、同じ名字なんですか。偶然ですね」
「そうですね。これも何かの縁ですから……宜しくお願いします」
そう言って、『彼』――聖人が会釈をすると、渉も改めて「こちらこそ」と言って、軽く頭を下げた。
そんな些細なきっかけで出会い、そこにあと1人加わって、そして――
「……」
現実に戻ってきた聖人は、電話を握ったまま、廊下の奥で1人……長く息を吐いた。
まだ、あの頃の口調も、表情も、思い返すことが出来るのに。
どうして……どうして、あんなことになってしまったのだろう。
次の瞬間、電話の向こうにいる統治が、「伊達先生……?」と、訝しげな声で彼を呼んだ。その声を聞いて、慌てて思考を切り替える。
今、ここにいるのは『伊達聖人』、あの頃の自分ではない。
「それで統治君、ケッカちゃんはいつから仕事なのかな?」
聖人の問いかけに、統治は少し渋い声で、「既にもう……出勤してます」と、現状を告げる。予想はしていたけれど、やはりじっとしてはいられないようだ。
「そう……とりあえず、完全回復までには時間がかかると思うから、『縁故』としての仕事はダメだね。統治君や心愛ちゃん、里穂ちゃんに帯同させたりして、程よく刺激を与えていくのがいいと思うよ。あと、政宗君に、いつ頃ケッカちゃんを連れて来ることが出来るのか、スケジュールを出すように伝えてくれるかな……そうなんだ、お願いね。うん、じゃあまた。お疲れ様です」
そう言って電話を切った聖人は、スマートフォンの電源をボタンを押して、画面を消灯した。
そして、頭の中でこれからの予定を思い返していると……廊下の向こうから、彼の方へ近づいてくる足音が一人分。
彼女は最低限度の足音で近づいてくると、向き直った聖人へ声をかける。
「……伊達先生、よろしいですか?」
「彩衣さん、どうかしたのかな?」
「透名先生が、勤務に関する打ち合わせをしたい、と。第一診察室でお待ちです」
「分かった。すぐに行くね」
そう言った聖人に、彩衣は一度だけ頷くと……踵を返して廊下を戻っていった。
そんな彼女の背中を追いかけるように、聖人も一歩、足を踏み出す。
伊達聖人――この名前で生きていくと、この名前で側にいると、そう、決めたのだから。
「――そうなんっすよー、ケッカさんが見えるまでに回復したので、お泊まり会も終わりっす」
同日、時刻は19時を過ぎたところ。
部活を終えて電車で石巻へ戻ってきた里穂は、母親が車で迎えに来るまでの間、駅にあるベンチに座り、無料通話アプリを介して仁義と会話をしていた。
ユカの視力を回復させるため、子ども世代の名杙直系が、少しでも多くの時間を同じ空間で過ごすように心がけた結果……里穂は丸1週間、名杙本家の敷地内で過ごすことになったのである。だから、石巻の空気を吸うのは久しぶりだ。
宵闇に包まれた石巻は、蒸し暑い空気の中を涼しい風が駆け抜ける、そんな、秋の気配を少し感じる気候。里穂も夜風にポニーテールをなびかせながら、電話の向こうから聞こえる仁義の声に耳を傾ける。
「昨日はみんなでカラオケ屋に行ったりして、楽しかったっすよ。うち兄やココちゃんとも、久しぶりにじっくり話が出来て……とりあえず良かったっす」
ユカの緊急事態における集合だったので、不謹慎かもしれないと思い、口には出せなかったけれど……一人っ子の里穂にとっては、久しぶりに年の近いイトコと過ごすことが出来た、夏の終わりの楽しい時間になったらしい。
電話の向こうにいる仁義が「良かったね、里穂もお疲れ様」とねぎらいの言葉をくれる。彼が隣にいないことは未だに慣れず、一抹の寂しさは常に付きまとうけれど……でも、心はこうして、いつでも側にいられるから。
里穂は口元を緩めた後……再びすぐに引き締めた。
「そういえば……ジン、名波君のこと、何か聞いてるっすか? っていうか会ったっすか?」
謹慎処分が終わった名波蓮と伊達聖人、この2人はもう日常に戻ったけれど、里穂はまだ2人の姿を目にしていない。統治に聞いてみても詳しく教えてもらえないので、どうしても気になってしまう。
仙台に住んでいる仁義なら何か知っているかもしれないと思ったが、電話の向こうの彼もまた「特に何も……」と、力なく告げるだけ。
「名波君……きっと、華さんのことを遠回しに言われたと思うっす。あの人は、そういう人っすから……」
自分がかつて言われたことを思い出した里穂は、頭を振って前を見つめた。
思い出したくない嫌な思い出が、心を支配しようとしたから。
そして……そのタイミングで母親からショートメールが届いていることに気付き、意識して口角を上げると、努めて明るい声で電話を終わらせる。
この話を続けると、仁義がもっと、嫌なことを思い出してしまうだろうから。
「何か分かったら教えてほしいっすよ。私もお母さんに聞いてみるっす。じゃあ、またあとでメールするっすね!!」
そう言って電話を切った里穂が、スマートフォンをカバンの外ポケットに片付けた。そして荷物を持って立ち上がった次の瞬間――
「――里穂ちゃん!!」
「へ?」
真横から至近距離で声をかけられ、里穂は思わず間の抜けた声をあげた。
そして、暗闇の中で声の主を探してキョロキョロと首を動かすと……自分の右隣に、知り合いの茂庭涼子が立っていたことに気がつく。
涼子と里穂は、里穂が幼い頃からの知り合いだ。以前は涼子の家も里穂の家からほど近い場所にあったのだが、先の災害で涼子の家が流されてしまい、今は内陸の災害公営住宅で暮らしている。
そして先月――7月には、涼子の妹・瑞希に関する一件に関わったことで、久しぶりに話をする機会もあった。
里穂は咄嗟に、先程の会話の中で『縁故』に関する内容がなかったどうかを簡単に思い返して……恐らく大丈夫だろうという結論に至る。その上で涼子を見つめ、いつもどおり明るく声をあげた。
「スズちゃん、こんばんはっす。駅で会うなんて奇遇っすねー。あ、もしかしてミズちゃんのお迎えで――」
「――い、今、『名波君』、『華さん』って、言ってたよね? その……里穂ちゃん、名波華さんのご家族と知り合いなの?」
予想以上にバッチリ聞かれていたことで、里穂は分かりやすく動揺しながら、盛大に視線をそらしていく。
「え、えぇっと……それは……というか、スズちゃんがどうして名波君のことを……?」
里穂の記憶が確かであれば、涼子と蓮に面識はない……はずだ。仮に『仙台支局』ですれ違ったりしたとしても、そこにいたのか片倉華蓮のはずなのだから。
もっともな問いかけに、涼子は一度唇を噛み締めた。そして……狼狽する里穂を真っ直ぐに見据えて、ここまで固執する理由を告げる。
「里穂ちゃん、あのね、名波華さんは……私の大学の先輩だった人なの。すごく素敵な人だったけれど、とても悲しいお別れをしてしまって……ずっと、ずっと心残りだった。あの災害で華さんの実家は流されちゃって、ご家族の転居先も分からなくて……だから、もしもご家族や親族の方と知り合いだったら、詳しいことを教えてほしいの!!」
穏やかな涼子にしてはとても珍しく、終始食い気味に詰め寄られてしまい……里穂の背中を、冷や汗が伝い落ちていった。