黄《おう》の一・秘密
妹の手をひいて歩きながら、カロンは内心でカリアに語りかけていた。
――ごめんな、カリア。
お兄ちゃん、お前が嫌いな訳じゃないんだ。お前がうらやましいんだよ。
これをこのまま口に出来たら、どんなに気が楽になるだろう。そう思いながら、カロンは重く口をつぐんだままだった。
お前の術がうらやましい。
お前の、全ての香りを愛せる、その感覚がうらやましい。
ようやく口を開いたカロンは、まるで関係のないことを妹に向かい問いかけた。
「なあ、カリア。普通の幻術の『賞味期限』って知ってるか?」
「しょうみきげん? ……って、幻術を見たお客さんが、いつまで覚えていてくれるか? えぇと、たしか……長くて半年じゃなかったっけ?」
「ご名答。じゃあ、香りの術の『賞味期限』は?」
「……うまくいったら、永遠に?」
妹の答えに、幻術師を目ざすカロンは黙ってうなずいた。
幻術師とは、一言で言えば『いかさま師』。
客のオーダーを欲望に忠実に具現化し、まぼろしの芝居に仕立て上げ、客に芝居の主人公になってもらう。そのいつわりを、そのひとときのまぼろしを、楽しんでもらう商売だ。
けれども、幻術はしょせん夢まぼろし。半年もすれば霞のように、術をかけられた人の記憶から消えてしまう。
兄の顔色をうかがうカリアに、カロンはもう一度、別な言葉で問いかけた。
「じゃあ、どうして香りの術は永遠に保つのか、答えられるか?」
「え? えぇっと……普通のまぼろしが『散らばった木苺』だとしたら、香りの術は、『いっぱいの苺でこさえたジャム』みたいに、イメージがぐーっと煮詰められてるから?」
父、カシュアから聞いた台詞を、カリアがそのまま再現する。
カロンは黙って妹の頭を撫ぜながら、気づかれぬように吐息をついた。
ほら、だからだよ。
僕がお前の能力に、いつも嫉妬してしまうのは。
肝心なことを口に出せずに、カロンは再び口ごもる。もし口にしてしまったら、カリアは必ずこう言うだろう。
『だったら、カロンお兄ちゃんも香りの術を使えば良いよ!』
そう口にされてしまったら、答えなくてはならないから。自分には、香りの術は一生かけても使えないと。
(カリア。お兄ちゃんな、匂いが分からないんだよ)
そう、自分には匂いが分からない。
生まれてから十三年、ただの一度も香りをかげたためしがない。
母、ハニアの作ってくれるカレーの匂いも。
父、カシュアが大好きだという甘酸っぱい木苺の香りも。
妹カリアの肌が放つ、ほのかな桜の匂いさえ。
(何でだろう。何でぼくだけ、香りがかげないんだろう……?)
物心つく頃から今まで、ずっと内心で問うてきた。産まれた妹が、母と同じ素晴らしく良い鼻を持っていて、『何でぼくだけ』という想いは年々強くなってきた。
淋しかった。孤独だった。
仲の良い両親に、可愛い妹……幸せなのに、そうじゃなかった。
想いに堪えきれなくなって、家族の誰にも伝えずに、一人こっそり医者にかかったこともある。
『保護者がいないと、子どもは診られませんからね』……しぶる医者に頼みこみ、貯めたこづかいをチャラにして、知った原因は『生まれつき』――。
さまざまなかげない匂いをかがされた後に、医者が一言放った言葉は、悲しみにお墨つきをそえてくれただけだった。
『鼻がまったくきかずとも、目で匂いをかぐことは出来る。色から、匂いが香ってくる』……同じ立場の人が記した本の言葉に、勇気をもらったこともある。
そうだ、ぼくは目で匂いをかげる。カレーの黄色い色の匂い、木苺の赤黒い色の香り、カリアの桜色の肌の匂い……。
けれど、本当に香りを愛する家族の前で、救いの言葉はぐしゃりとつぶれる。
第一、色で匂いをかげないものもある。母のハニアが幻術だけで香りづけした茶葉なぞは、香りづけする前の紅茶と水色がまるで変わらないから、まるきり違いが分からない。
『はい、今回はラベンダーよ』
『やったぁ、今日のは桃の香茶だ!』
『これはバナナか? めずらしいね』
さまざまに盛り上がる家族の前で、あせってカップに口をつけて、味でようやく実感する。その瞬間の、胸がきゅーっと絞られるような、目の裏がじんわり熱くなるような、何とも言えないあの感覚……。
(……ああ。父さんと母さんは、きっと気づいているんだろうな)
気づいていながら、それでもあえて、息子の秘密に気づかぬふりをしてくれている。
妹の手をひいて歩きながら、カロンはありがたいような、かえってずっと淋しいような、ない混ぜの想いにとらわれた。
(……いつかは、香りの術にも負けないような、人の記憶から消えないまぼろしを作りたい)
カロンは内心でつぶやいた。
幻術師を目ざすと決めたその時から、いつも考えていることだ。けれども、それが海辺の砂浜からひと粒の真珠をひろうより、いやましに難しいことも、カロンはすでに知っている。
うつむいた妹の幼いつむじに、カロンはそっと目を落とす。
(……ねえ、カリア。ぼくが秘密を明かしたら、お前はどんな顔をする?)
泣くだろうか。笑うだろうか。
出来そこないの兄のことを、蔑んだ目で見るだろうか。それきり一生、お前に疎まれてしまうだろうか。
(だから、言えない。とても言えない)
つなぐ手の温度に、何かを感じ取ったのだろうか。カリアがふっと沈んだ目で、物問いたげに見上げてきた。
カロンはくちびるをほんのわずかに動かして、息だけの声でつぶやいた。
『ごめん』
兄のくちびるの動きに、カリアは静かにまたたいた。
それで言葉を読み取れる訳もなく、カリアは小首をかしげつつ、泣き出しそうに微笑んだ。




