桜《おう》の一・四月一日
今朝の空は、透き通る海の青に真珠のレースがかかったようだ。
「お天気雨だあ、めずらしい!」
四月の一番初めの日、四月最初の日曜日。
七歳の少女カリアはベッドの上に身を起こし、丸い窓から外を眺めた。それからくりっと頭を動かし、今日の日づけに花まるのついたカレンダーを確かめる。
「ふむふむ。今日から春がスタート、ってことで良いのかな?」
一人ごちてつぶやいて、幼い少女がフリルのついたパジャマ姿で首をひねる。
(今日が春の初めだったら、そろそろ桜が咲くかなぁ?)
気の早いもの思いに萌黄色の目をまたたいて、カリアがふっと自分の右手の匂いをかいだ。
「……うーん、やっぱり何の匂いも感じないなぁ」
自分は生まれたばかりの頃から、体から桜の香りがしていたらしい。
だから『カリア』と名づけられた。カリアとは、ここいら辺の方言で『桜の花』という意味だ。
けれど、それは自分では分からない。
母親ゆずりの鼻の良さには自信があるけど、自分の匂いは感じない。
「不便なもんだ」
大人ぶって腕組みをしてつぶやいて、カリアがひょいっとベッドをおりた。
『大きな猫の顔』の柄のついた薄手のセーター、それとふわふわのピンクのスカート……さっさっと自分で着がえを済まし、顔を洗ってダイニングへと顔を出す。
低くラジオの音がする。
ティーテーブルとそろいの椅子に腰かけて、一人の少年がぼんやりひじをついている。
厚手のチェック柄のシャツに、足のラインが綺麗に映えるスキニージーンズ。華奢な背中をこちらへ向けて、ほおづえでラジオを聴いている。
「おっはよう、カロンおにーちゃん!」
弾けるように言いながら、カリアが思いきり兄の腰へと抱きついた。カロンと呼ばれた少年は、妹の所作にびっくりしたように振り向いた。
「……おはよう、カリア。よく眠れたか?」
「うん!」
カリアはにこにことうなずいてから、しげしげ兄の姿を眺めた。
金色の髪に、はちみつ色の大きな瞳。その上に白い肌までも、春の日差しにまぶしく映える。
(お兄ちゃん、今日もきらきらしてる)
『カロン』って名前がほんとに良く似合う。
桜の花の匂いの少女は、ぽうっとした目で兄を見上げた。
カロンというのは、ここいら辺の方言で『金の御子』という意味だ。
カロンはその細い体に、日なたで寝ている仔犬のような、天然の香をまとっている。その眠くなるような匂いも、カリアのお気に入りの香りのひとつだ。
少年は仔猫の頭を撫でるように、妹の栗色の髪に手を触れた。それからぽうっと自分を見つめる視線に気づき、居心地悪そうに身じろぎした。
「……何だよ、カリア?」
「ふふー、ねぇねぇ、お兄ちゃんてさ、すっごく『お兄ちゃん』だよねっ!」
『十三の年より大人に見える』。
本当はそう言いたかったのだが、どうにも言葉が追いつかない。
「何だそれ、意味分かんない!」
舌っ足らずなカリアの言に、カロンは困ったように眉をひそめてはにかんだ。甘えたしぐさで兄の左手をつかみしめ、ひらひらと動かしながらカリアが訊ねる。
「パパとママは? まだ寝てる?」
「うん、まだ寝てる。今日はたっぷり寝かしといてあげような、母さん今日が誕生日だし」
あの夫婦、むだに仲が良いからな。
苦笑してつぶやくカロンを見上げ、カリアが盛大に首をかしげる。
(何でそんなこと言うんだろう? パパとママが仲良しなのは、良いことだと思うけど)
「仲が良くっちゃ、いけないの?」
「え、えぇ? あぁ、んーと、いけないっていうか、まあ……えっと……っ!!」
多感な年ごろの少年が、目を泳がせて口ごもる。
『むだに仲が良い』発言の真意に、まだ七歳の妹はもちろん気づけない。カロンは白いほおを恥ずかしそうに色づけて、ふっと思い立ったそぶりで玄関のドアを指さした。
「ほら、それよりカリアさぁ! 店の玄関に『今日はお休み』のお知らせ、さげてきてくれる?」
「あ、うん、そうだねお兄ちゃん!!」
明らかにほっとする兄の様子に気づかずに、カリアが仔うさぎよろしく外へ向かって駆け出した。
玄関へひょいっと顔を出し、郵便受けのとなりの『お知らせ入れ』の中を探る。『今日はお休み』の札を一枚取り出して、ドアのノブへとかけてやる。
ふっと目線を上へ向けると、『香りのお店・ファカルナ』の看板が、いつものように掲げてあった。
そう、ここは香りのお店。
幻術の力で香りを移した、いろいろな商品を扱う店。
ちょっと昔、カリアが生まれる前くらいには、店の名は『香茶店・ファカルナ』だったらしい。その名のとおり、香りつきの甘い紅茶、香茶しか扱っていなかったそうだ。
でも今は、ここは香茶をはじめとして、いろいろな香りの品をそろえている。
アロマキャンドル、香水、ポプリ。
とにかく綺麗な匂いであふれた、香り好きの天国だ。
(あたし、ここの娘で良かったぁ……!!)
心の底からそう思いながら、カリアがふっと空を見上げる。雨はいつの間にかやんで、七色の橋がかかっていた。
「わあ! わあ!!」
カリアがぱあっと顔を輝かせ、ドアベルをからから鳴らして店内へ顔を突っこんだ。
「おにぃちゃん! 雨やんだよ! 虹が出てるよっ!!」
はしゃいだ妹に手をひかれ、カロンも店の外へ出る。光の橋をはちみつ色の目に映し、ふわっと柔く微笑んだ。
「……久しぶりに見た。綺麗だな」
「うんっ! ねぇねぇお兄ちゃん、虹に匂いがあったらさ、どんな香りがするのかな?」
無邪気なカリアの問いかけに、カシュアは一瞬表情を硬くした。
「……さぁな」
そっけなく答え、早々に店の中へと戻ってしまう。それから気を取り直した風に、ふっと目もとを緩めて微笑った。
「それよかさ、今さっきラジオでおもしろいニュースやってたぜ?」
さりげなく話題を変えたカロンの手を握り、カリアは可愛く小首をかしげた。
「『おもしろい』って、どんなこと?」
「アルミッレの海岸に、死んだクジラが打ち上げられてたんだって」
「アルミッレ? となりのとなりの、となり町?」
「そう、ぼくらの村の、となりのとなりのとなり町。オスのマッコウクジラだってさ。……龍涎香が見つかるかもな」
ぽそりと付け足した一言に、カリアが頭がもげそうなくらい首をかしげる。
「りゅうぜんこう? ってなーに?」
妹の反応に、兄の方がいっそ驚いた顔をする。母親ゆずりのはちみつ色の目を見はり、意外そうに口を開いた。
「何だ、お前香りが好きなくせに、龍涎香を知らないの? ……あのな、龍涎香っていうのはもともとは外つ国で生まれた言葉だよ」
「異国語なの?」
「そう。想像上の生き物『龍』の、涎れの香りって意味なんだ。香料のもとになるものだよ」
「よだれの香り? 変なのぉ」
カリアがくすくす笑い出す。カロンもつられて微笑いながら、妹の頭を撫ぜて言葉を継いだ。
「しょうがないよ、昔は龍のよだれが固まったもんだって思われてたから。本当はクジラの病的結石らしいけど」
「びょうてきけっせき?」
「うん。病気がもとで、クジラの体内に出来る石だよ。オスのマッコウからだけ採れる、それが龍涎香なんだ」
「ふぅん……」
何ごとかちょっと考えこんだ妹が、上目づかいに問いかけた。
「それって、良い香りがするの?」
「……うん。一般にはそう言われてる」
あいまいな表現をする兄の手に、仔猫のようにカリアがほおをすり寄せる。
「どうした? カリア」
「あのねぇ、カロンお兄ちゃん。あたし、その龍涎香を海に探しに行きたいなぁ」
ほんの一瞬困ったような顔をして、カロンがそっと目をそむける。妹とまともに目を合わせぬまま、ごまかすようにこう答えた。
「……いや、あのな、龍涎香ってすごく希少価値高いんだ。だからクジラからもし見つけても、見物人がほかに大勢いる中じゃ、簡単に持ち帰ったりは出来ないぞ」
「うぅん、見つけるだけで良いの。ちょっとかいでみるだけで良いの。そしたらあたし、ママへのバースデープレゼントに、その香りを再現してみせるから」
本当は、あたしの幻術で香りをつけた、出来たてのお茶を贈る気だったけど。
ささやくようにそう言って笑う妹に、兄が切なげな顔をして黙りこむ。その表情に気づいたカリアが、ようやくカロンの手を離した。
(ああ、まただ)
お兄ちゃんは、あたしが香りの話をすると、いつだってそんな顔をする。お兄ちゃんの鼻先で、あたしが香りの術をかけても、嬉しい顔はしてくれないし。
お兄ちゃん、香りが好きじゃないのかな。それとも、あたしのこと嫌い?
だんだんとうつむいてゆくカリアに気づき、兄は優しく妹の頭を撫ぜてやる。撫ぜながら、さっきまでの言動を繕うように言葉をかけた。
「……そうだな、探しに行ってみようか。ぼくもまだ、母さんへのプレゼント用意してやしないから。アルミッレにある雑貨屋で、可愛い小物でも買おう」
兄の提案にカリアが顔を輝かせ、「うん!!」と思いきりうなずいた。
ジャムを塗ったトーストとミルクで二人の朝食を済ませ、歳の離れた兄妹が、小さな旅の準備を始める。
出がけに書き置きを書こうとして、カロンはふっとペンを握った手を止めた。
「どうしたの? お兄ちゃん」
「いや、普通に書き置きしたら、つまらないなと思ってさ。こんなのどうだ?」
さらさらとペンを走らせたカロンが笑い、得意げに妹にメモを示した。見上げたカリアが絶妙に微妙な顔をして、眉をひそめて首をかしげる。
「そんなおかしなメッセージで、パパとママ意味分かるかなぁ?」
「すぐ分かったらつまんないじゃん。二人ともあれで心配性だから、すぐに行き先が分かったら、旅の途中で連れ戻されるかもしんないし」
「うーん……」
カリアが小さくうなった後に、納得のいかない顔をしながらうなずいた。
二人が出かけて小一時間ほど経ってから、母のハニアが起きてきた。
「ごめんね、ひどく寝過ごしちゃって。今、朝ごはんにするからね……あら?」
子どもたちの姿が見えないことに気がつき、ハニアがはちみつ色の目を見はる。テーブルの上に置かれたメモ用紙には、こう書き残してあった。
『よだれを探しに行ってきます。
カロン・カリア』




