饗宴の余韻
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アホパイネンとの騒乱は、清涼な一本の映画を観たかのようでした。部屋へ向かうわたくしは、余韻のなかを泳ぐようでした。足は空中を掴んで1歩で7歩分も進むようでした。エレベーターに乗り、8Fに戻ると、廊下にルートヴィヒさんが居ました。壁に背をもたせ、腕組みをして立っていました。
「ン……? 遅かったな『蒼穹』よ。少し前に『無明なる天界の修羅』は帰還した。ここには戻らんだろう」
ルートヴィヒさんは、片手に持ったティーカップの、最後の一口を飲みました。
ティーカップには見覚えがあります。わたくしがサキちゃんの部屋に差し入れたものでした。
「帰還とは……どういうことでしょう?」
「フ、察しているのだろう? 奴は能力を定着できる見込みがないと見切った。ゆえにみずから早々にここでの生活を切り上げることとしたのだ」
わたくしは、
「《□□□》には向こうへの降り口が無数にある。「神未達」が降り口をくぐれば、こちらへと戻ることは絶対にない。降り口は到る所にある。《創舎》にも何億個あるか、数え切れん。ゲートをくぐったならば、もうおしまいだ。お別れを言う時間も残されてはいない」
なんででしょう。膝が崩れ、廊下に四つん這いになっていました。
動揺はない。サキちゃんがどうなっても、見守るつもりでした。今もそのつもりです。揺らいでません。でも、カラダの力が、勝手に抜けてしまうのです。まるで穴のあいた風船。水をそそいでも、素通りしていきます。今のサキちゃんの状態に、カラダが呼応するかのようでした。もう手のつけようがない。わたくしの「見守り」は失敗だと。これはまるで……いわゆる現実。向こうでは起こりすぎるほどに起こる、当たり前の出来事。現実が、こちらでも起こるとでも、そう言うのでしょうか。
……いいえ。
それは違います。
そう、わたくしは、既に知っている気がしたのです。ここで人間なら、どう考えるかを。それがなぜ誤りかを。
わたくしはこちらの力学を、来てから中断なく、感じ続けています。出来事を「物語」の高さに留めて置くか、「現実」に引きずり下ろしてしまうか。それは、わたくしたち主体が、それぞれ決定することです。こちらには、神々が集まっているから、幸福な出来事がたくさんあるのではない。幸福な出来事だけを経験する人々が神と呼ばれているのです。わたくしは、なぜかそれを、想い出したように確信しました。
幸福について、外にある出来事に依存しない。
出来事が幸福か不幸かは、どうでもいいのです。出来事の「色」を見過ぎることを、やめる。
よい「色」は愉しめばいいでしょう。
好みでない「色」は?
目を閉じましょう。肚で観るようにしましょう。つまり出来事そのものを観る。そうすれば観えます。……出来事は、出来事です。不幸という色は、虚像です。
そして、じぶんに訊ねてみます。「わたくしは幸福な出来事を望むか?」と。
わたくしは答える。
「はい」
と。
うん。大丈夫。いつもどおりに、いけます。
ちょうどヤミルトさんはわたくしに手を差し伸べていましたが、「ほう」と一言いって、また壁に戻りました。なにが「ほう」なのか、分かりませんでしたが。
「立ちくらみかね。こちらに来て、動きすぎたのだろう。少し、休んだらどうかね」
「ありがとうございます」
休めというのは、ヤミルトさんの気遣いでしょう。
しかし、大丈夫です。
今は、サキちゃんを中心に、出来事が混み合い、絡まり始めた局面。その舞台上におそらくわたくしは居るのだと思います。自然に背中を押され、動いてしまう力を感じます。
「……一つ、質問させてくれますか?」
「何かね。おれを退屈させない質問なら、してみろ」
「一人前の神になるには、悲劇を体験していることは必要ですか?」
サキちゃんは言いました。※『悲劇を知らないおまえが、私に構う資格はない』。わたくしは、確かに悲劇を味わって来なかった。悲劇。つまり苦悩・絶望・苦悶・煩悶・憂悶・憂愁・落胆・失望……。いわゆるそういう出来事。
それらを避けていたわけではありません。思うに、引き込もっていたから、関わりを持たなかったのです。
しかし、サキちゃんはきっと山ほどの苦悩を味わってきたはずです。
氷上さんにしてもそうです。氷上さんが能力を発揮するには、鬱屈を溜めなけれればなりません。
ふつう、神になる人は皆、悲劇を抱えているのなら。悲劇によって一人前の神となるのなら。
「だとしたら、わたくしは……」
わたくしには神の資格はない。サキちゃんと喋る資格も、本当はなかった。《創舎》に居るのがおかしい人間なのかもしれない。一体、どうなのでしょう。博識のヤミルトさんなら、答えてくれるでしょうか?
いや、そうではない。わたくしは――。
「嫌なのです」
そう。嫌なのです。わたくしはサキちゃんのことを理解できないのでしょうか? わたくしはサキちゃんのことを、理解したいのです、理解できなくても。そのためなら努力します。がんばります。博識のヤミルトさんから、お墨付きをもらいたかったのです。理解できなくても理解できる。いえ、理解するよりもっと良い結末が起こると、そう言ってほしかった。お前の気がかりなど、最後はきちんと片付く、彩りに過ぎないと。「止まるな」と言い、軽く背中を押してくれたらと……。
「お前の動きたいように動くのだな」
そう。ちょうど、そういう感じのことを……。
……え?
「――誰かに何かを言われたか?」
ヤミルトさんは高みから笑うような、厨二のほくそ笑みを浮かべました。
「神に成るのに特別な運命や悲劇が必要という言説は、ニンゲン並の思慮だな。神の中でも、特権意識や権力志向を色濃く残した、低級な奴らの思想。自らを神格化し、ニンゲン並の自尊心とやらを守る、苦肉の策に過ぎんよ。そういうやつらは、マジメで、打たれ弱い。そこを自覚して短所を掘り下げるしたたかさがあるのでもない。ナイーブで、すぐ潰される。さもなくば、身近な神を蹴落としに掛かる。まあ、許してやりな。同じ神のよしみだ。つまり気にせんことだ。……フ。何を言うかと思えば、『蒼穹』らしくない」
「わたくしらしく、なかったですか」
かもしれません。サキちゃんから別れ際に言葉は、どこかでわたくしを縛っていました。《創舎》に来て初めて味わう、オリーブオイルの一滴……。しかし、その一滴の苦味は、避けて通れないと思いました。苦味をきちんと味わうこと。わたくしの特製の『HOT』も、オリーブオイルのおかげで、全体が美味しくなるのですから。
「らしくないのも、たまにはよかろうよ。日常もまた、《創舎》では物語のひと幕。日常生活にも絶妙な起伏がなければつまらん」
ヤミルトさんは懐から出した煙草に火をつけました。満足げに煙を吐きました。いい香りのする煙でした。リラックスするだけでなく、お腹も満たされるような、不思議な煙でした。
「本当に特別な神は、悲劇を悲劇と感じないほど強いのさ。そしてお前にもしなやかさの素質はあると、おれは見ているがな?」
「わたくしが……ですか?」
予想外でした。厨二のヤミルトさんが、他人を褒めるなんて。
「そうとも。世界のノイズは受け流し、聴くべき音は聴く。それがしなやかさというものだ。お前はこの世界を音楽的に渡っているように見える。踊り、舞うようにな。おれを見損なわれては困る。どうして研究者をしていると思っている? 神を一目見れば、どういう奴かは判るさ。……お前も判ったら、行きな。自分がどうしようか、判っているんだろう? おれからは、これ以上話すことはないな」
ヤミルトさんは目をつぶり、煙草をくわえます。ちょっと見ると悪役のような、突き放す応対でした。が、わたくしは見えました。この方の顔がいつもより赤いのを。照れくさいのか。照れくさいという演技か。ともあれ、ヤミルトさんが励ましてくれたのは、とても心強い。「ありがとうございます」――わたくしは頭を下げ、エレベーターに向かったのでした。
*
「……フ。まったく、鈍感な奴だ。自分のことが判らんのか。息をするように世界を愉しんでいる自分を。いや、愉しむことが呼吸そのものになってるレベルだというのにな。驚くほどに鈍感で、そして無欲なやつさ。欲を顧みる暇も無いほど愉しくて仕方ないのだろうさ。お前のような奴が同じ階に越して来て、おれが気付かぬわけがなかろう。おれに嫉妬を覚えさせた才能は、お前が初めてかもしれんな」
ルートヴィヒは、念入りな説明口調で言い残し、部屋へと戻って行った。




