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饗宴の余韻

 *

 

 アホパイネンとの騒乱は、清涼な一本の映画を観たかのようでした。部屋へ向かうわたくしは、余韻のなかを泳ぐようでした。足は空中を掴んで1歩で7歩分も進むようでした。エレベーターに乗り、8Fに戻ると、廊下にルートヴィヒさんが居ました。壁に背をもたせ、腕組みをして立っていました。

「ン……? 遅かったな『蒼穹』よ。少し前に『無明なる天界の修羅』は帰還した。ここには戻らんだろう」

 ルートヴィヒさんは、片手に持ったティーカップの、最後の一口を飲みました。

 ティーカップには見覚えがあります。わたくしがサキちゃんの部屋に差し入れたものでした。

「帰還とは……どういうことでしょう?」

「フ、察しているのだろう? 奴は能力を定着できる見込みがないと見切った。ゆえにみずから早々に・・・・・・・ここでの生活を切り上げることとしたのだ」

 わたくしは、

「《□□□》には向こうへの降り口ゲートが無数にある。「神未達」が降り口ゲートをくぐれば、こちらへと戻ることは絶対にない。降り口は到る所にある。《創舎》にも何億個あるか、数え切れん。ゲートをくぐったならば、もうおしまいだ。お別れを言う時間も残されてはいない」

 なんででしょう。膝が崩れ、廊下に四つん這いになっていました。

 動揺はない。サキちゃんがどうなっても、見守るつもりでした。今もそのつもりです。揺らいでません。でも、カラダの力が、勝手に抜けてしまうのです。まるで穴のあいた風船。水をそそいでも、素通りしていきます。今のサキちゃんの状態に、カラダが呼応するかのようでした。もう手のつけようがない。わたくしの「見守り」は失敗だと。これはまるで……いわゆる現実。向こうでは起こりすぎるほどに起こる、当たり前の出来事。現実が、こちらでも起こるとでも、そう言うのでしょうか。

 ……いいえ。

 それは違います。

 そう、わたくしは、既に知っている気がしたのです。ここで人間なら、どう考えるかを。それがなぜ誤りかを。

 わたくしはこちらの力学を、来てから中断なく、感じ続けています。出来事を「物語」の高さに留めて置くか、「現実」に引きずり下ろしてしまうか。それは、わたくしたち主体が、それぞれ決定することです。こちらには、神々が集まっているから、幸福な出来事がたくさんあるのではない。幸福な出来事だけを経・・・・・・・・・・験する人々が神と呼ば・・・・・・・・・・れている・・・・のです。わたくしは、なぜかそれを、想い出した・・・・・ように確信しました。

 幸福について、外にある出来事に依存しない。

 出来事が幸福か不幸かは、どうでもいい・・・・・・のです。出来事の「色」を見過ぎることを、やめる。

 よい「色」は愉しめばいいでしょう。

 好みでない「色」は? 

 目を閉じましょう。肚で観るようにしましょう。つまり出来事そのものを観る。そうすれば観えます。……出来事は・・・・出来事です・・・・・。不幸という色は、虚像です。

 そして、じぶんに訊ねてみます。「わたくしは幸福な出来事を望むか?」と。

 わたくしは答える。

「はい」

 と。

 うん。大丈夫。いつもどおりに、いけます。

 ちょうどヤミルトさんはわたくしに手を差し伸べていましたが、「ほう」と一言いって、また壁に戻りました。なにが「ほう」なのか、分かりませんでしたが。

「立ちくらみかね。こちらに来て、動きすぎたのだろう。少し、休んだらどうかね」

「ありがとうございます」

 休めというのは、ヤミルトさんの気遣いでしょう。

 しかし、大丈夫です。

 今は、サキちゃんを中心に、出来事が混み合い、絡まり始めた局面。その舞台上におそらくわたくしは居るのだと思います。自然に背中を押され、動いてしまう力を感じます。

「……一つ、質問させてくれますか?」

「何かね。おれを退屈させない質問なら、してみろ」

「一人前の神になるには、悲劇を体験していることは必要ですか?」

 サキちゃんは言いました。※『悲劇を知らないおまえが、私に構う資格はない』。わたくしは、確かに悲劇を味わって来なかった。悲劇。つまり苦悩・絶望・苦悶・煩悶・憂悶・憂愁・落胆・失望……。いわゆるそういう出来事。

 それらを避けていたわけではありません。思うに、引き込もっていたから、関わりを持たなかったのです。

 しかし、サキちゃんはきっと山ほどの苦悩を味わってきたはずです。

 氷上さんにしてもそうです。氷上さんが能力を発揮するには、鬱屈を溜めなけれればなりません。

 ふつう、神になる人は皆、悲劇を抱えているのなら。悲劇によって一人前の神となるのなら。

「だとしたら、わたくしは……」

 わたくしには神の資格はない。サキちゃんと喋る資格も、本当はなかった。《創舎ここ》に居るのがおかしい人間なのかもしれない。一体、どうなのでしょう。博識のヤミルトさんなら、答えてくれるでしょうか?

 いや、そうではない。わたくしは――。

「嫌なのです」

 そう。嫌なのです。わたくしはサキちゃんのことを理解できないのでしょうか? わたくしはサキちゃんのことを、理解したいのです・・・・・・・・理解できなくても・・・・・・・・。そのためなら努力します。がんばります。博識のヤミルトさんから、お墨付きをもらいたかったのです。理解できなくても理解・・・・・・・・・・できる・・・。いえ、理解するよりもっと良い結末が起こると、そう言ってほしかった。お前の気がかりなど、最後はきちんと片付く、彩り・・に過ぎないと。「止まるな」と言い、軽く背中を押してくれたらと……。

「お前の動きたいように動くのだな」

 そう。ちょうど、そういう感じのことを……。

 ……え? 

「――誰かに何かを言われたか?」

 ヤミルトさんは高みから笑うような、厨二のほくそ笑みを浮かべました。

「神に成るのに特別な運命や悲劇が必要という言説は、ニンゲン並の思慮だな。神の中でも、特権意識や権力志向を色濃く残した、低級な奴らの思想。自らを神格化し、ニンゲン並の自尊心・・・とやらを守る、苦肉の策に過ぎんよ。そういうやつらは、マジメで、打たれ弱い。そこを自覚して短所を掘り下げるしたたかさがあるのでもない。ナイーブで、すぐ潰される。さもなくば、身近な神を蹴落としに掛かる。まあ、許してやりな。同じ神のよしみだ。つまり気にせんことだ。……フ。何を言うかと思えば、『蒼穹』らしくない」

「わたくしらしく、なかったですか」

 かもしれません。サキちゃんから別れ際に言葉は、どこかでわたくしを縛っていました。《創舎ここ》に来て初めて味わう、オリーブオイルの一滴……。しかし、その一滴の苦味は、避けて通れないと思いました。苦味をきちんと味わうこと。わたくしの特製の『HOT(ホットオリーブ豆乳)』も、オリーブオイルのおかげで、全体が美味しくなるのですから。

「らしくないのも、たまにはよかろうよ。日常もまた、《創舎ここ》では物語のひと幕。日常生活にも絶妙な起伏がなければつまらん」

 ヤミルトさんは懐から出した煙草に火をつけました。満足げに煙を吐きました。いい香りのする煙でした。リラックスするだけでなく、お腹も満たされるような、不思議な煙でした。

「本当に特別な神は、悲劇を悲劇と感じないほど強いのさ。そしてお前にもしなやかさの素質はあると、おれは見ているがな?」

「わたくしが……ですか?」

 予想外でした。厨二のヤミルトさんが、他人を褒めるなんて。

「そうとも。世界のノイズは受け流し、聴くべき音は聴く。それがしなやかさというものだ。お前はこの世界を音楽的に渡っているように見える。踊り、舞うようにな。おれを見損なわれては困る。どうして研究者をしていると思っている? 神を一目見れば、どういう奴かは判るさ。……お前も判ったら、行きな。自分がどうしようか、判っているんだろう? おれからは、これ以上話すことはないな」

 ヤミルトさんは目をつぶり、煙草をくわえます。ちょっと見ると悪役のような、突き放す応対でした。が、わたくしは見えました。この方の顔がいつもより赤いのを。照れくさいのか。照れくさいという演技・・・・・か。ともあれ、ヤミルトさんが励ましてくれたのは、とても心強い。「ありがとうございます」――わたくしは頭を下げ、エレベーターに向かったのでした。 


 *


「……フ。まったく、鈍感な奴だ。自分のことが判らんのか。息をするように世界を愉しんでいる自分を。いや、愉しむことが呼吸そのものになってるレベルだというのにな。驚くほどに鈍感で、そして無欲なやつさ。欲を顧みる暇も無いほど愉しくて仕方ないのだろうさ。お前のような奴が同じ階に越して来て、おれが気付かぬわけがなかろう。おれに嫉妬を覚えさせた才能は、お前が初めてかもしれんな」

 ルートヴィヒは、念入りな説明口調で言い残し、部屋へと戻って行った。


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