饗堂(しょくどう) 6
「おっと、殺してしまったか? 死んでくれるなよ。ここでは誰が死のうと殺そうと制裁なんてもんはねぇが、交合をしている時に喘ぎが聞けないのはつまらねえんでなぁ」
乱れたテーブルは、さながらガラクタの山。アホパイネンは、ずいと近付きます。
「……おぉ?」
ガラクタを静かに崩し、奥から氷上さんが起き上がりました。
あぁ、よかったです、生きていてくれました……!
氷上さんは、黙して立っていました。青黒い長髪は、うつむいた顔に陰を落としていました。その雰囲気はすこし悲しげに思えました。
青黒い……長髪? 氷上さんの髪の毛は、ただただ濃厚な、鮮やかな青色だったはず。
今は凝縮した宇宙のような、青黒い髪色に。
……あ。
わたくしは心で呟きを一言。
これは……終わったと。
納得したのです。
なぜなのでしょうか。何を感じたのでしょうか。わからないのに、納得したのです。つまりこれが……神気とでも言うのでしょうか?
「……ふう」
氷上さんは、中空を見て、息をつきました。
瞳にあるものは獣の眼光。獣の中でも、最強の獣が最強の集中で獲物を定めたような、深く突き刺す眼光。
瞳は鈍い紺色の光を放っています。いまの食堂を包んでいるような、昏い金色の神光。それは今や、目に見える色と質感を伴い、氷上さんのまわりに物理障壁のように、展開しているのでした。しかしそれは、わたくしの観たところ、技や能力ではありません。自然なもの。今の氷上さんから自動で放たれるものでした。
「……ほぅ? マゼンタ。お前何か変わったかよ?」
アホパイネンは変化を察したようでした。さすがは神。明らかに質が変わった氷上さんに不用意に近付く三下のような真似は、しません。
「あぁ。お前。お前か。居たのか。参ったな。アホパイネン。お前はアホだよ。お前は間違っている。何もかも間違っている。お前は何を見て、世界を生きている? 虚構を現実だと思って、独りよがりの解釈に酔ってる」
一言ずつ、しっかりと呟く、氷上さんに、すかさずアホパイネンは攻撃の構えを見せますが、その構えより前に氷上さんは片手で発言を制するそぶり。
自らの解説を、続けます。
「あたしを怒らせるなって、言ったろ? 言ってないか? なら、詫びておくよ。自明だと思って、言わなかったんだな。お前が饗堂から塵一つ残さず消える前にね。ちなみにこれは虚飾表現だ。お前にはそこまでしてやる価値はない。お前を戒める前に、お前の間違いを幾らか訂正しとこう。一つは、お前はレイプした事であたしにトラウマを植え付けたと思っていたとしたら、それは間違いだ。レイプじゃない。あたしがお前を飲み込んでやったんだ。それは光栄に思ってもらいたいな。もう一つ、お前はあたしの名前からして間違ってる。講義の登録名を実際の名前と思ったのか? 神の本名が神の特記事項に関連している場合があることも忘れていたのか? 肉の能力に頼るあまりに、考えるのを怠けたのか? あたしの名はマゼンタではない。だが、お前にはマゼンタのままでいい。お前は自分の誤りに殺されるのだから。お前が導いた死と闇の使者によってな」
「……何を言っていやがるんだ?」
おっと。これは、これは。アホパイネンは素で理解できてないようでした。確かにこの神はパラメーター全部が肉体である印象があります。どんな局面でも、その強靭きわまる肉で、越えてきたのでしょう。
「分からないかね。言っただろう。お前を戒める。それだけの事だ」
氷上さんは目を細めました。それだけで、音をたてて空気を切り裂くナイフのようでした。
「あたしをキレさせんなよ。ったく……。ケンカは嫌いなんだ。結末が分かっているからな」
「おいおい、お前がブッ殺されるってことだろ、そりゃ? お前が俺様に逆らうとは、思ってなかったぜ。残念だぜ。お前は良かった……! ホントにいい、玩具だったのに……! ああああああっ!! ブッ殺すぅぅぅぅぅ!!」
売り言葉に買い言葉。アホパイネンはすかさずカラダに血管を浮き立たせました。
「さあ死ねよ!」
アホパイネンは、飛び掛かりました。
目を見張る速さ。蓄えられた肉の力が、解放され、跳ねる肉弾。
殴打殴打殴打殴打。拳が炸裂し、飛び散る血。早送りのように殴られ、青黒く変色し、膨れ上がった肉袋が落ちます。
アホパイネンの肉体が。
「ご……はっ」
悪役そのものの断末魔。
口から血煙を吐き出し、動きませんでした。
腹に炸裂した一撃によって、カラダには大穴があき、ほとんど二つにちぎれかけていました。もう口をきくことはありませんでした。
彼もまた『北斗の拳』のような末路を免れませんでした。見せ場すら作れず、一度の切り結びで果てる姿。この場に居る誰もが、内心「見事」と感じずに居なかったでしょう。
氷上さんは拳を握り、立っていました。片方の拳で、右に左に、何度か往復させただけ。それだけで決着をつけたのです。アホパイネンの力は相当なものでしたが、氷上さんは筋力でも、筋肉の速度でも、上を行ったのです。拳は鉄のような硬質な布で巻かれています。ともするとオーラにも見える布は、オーラが具現化したものでしょうか?
氷上さんが拳を解くと、黒い布も消えていきました。アホパイネンを振り返らずに、言いました。
「あたしは、結末が分かっていることを、わざわざやる奴が嫌いだ。そいつはバカだからだ。あたしは、自分が何をやろうと、何を積み重ねようと、無意味で何も換わりはしなくて、何もよくはならないのに、さも価値あることをやったと信じ込む、頭蓋骨の中がスカスカの、空気でパンパンな肉製機械どもが、嫌いだ」
簡潔な台詞を、無骨に力を込めて、呟きました。「バカ」という言葉を、特に浸るように呟いたようですが、思い入れがあるのでしょうか。
「怒らせるなと言った理由は、もう一つある。あたし自身の神の能力が、お前みたいな、バカな能力だからだよ。お前みたいなバカは、同じバカから、一度やられてみないと、分からないだろうがな。たしかに楽だよ。この相貌はさ。お前の気持ちも分かる。能力を解放している間だけはね」
氷上さんはアホパイネンを振り返り、つまらない目で見ました。皮肉げに口の端を吊り上げて笑いました。
しかし、氷上さんも本意ではないに違いありません。《創舎》とはいえ、人を殺してしまえば、後の処理は大変であるはずです。
――と、速やかにバイトの人達が来ました。食堂の方とは違う制服を着ています。バイトの皆さんは、たちまちアホパイネンを運んでいき、汚れた床や散らかった設備を直して去りました。掃除機も雑巾も使いません。これらも能力にまつわるものなのでしょう。
それきり、饗堂には、元のざわめきが戻りました。
人々は食事を再開し、お喋りを始めました。人格が変わったような、一瞬での切り替え。神々の適応力とでも言うべきなのでしょうか。わたくしたちの食器も、食べかけのまま、テーブルの上に復帰していました。
わたくしは尋ねます。
「あの方は……。アホパイネンは死んだのですか?」
「うーん。どうかな。たぶんね」
氷上さんは答えます。
「ただ、《□□□》の因果律は……。ああ、あなたの時代だと、物理法則しか射程じゃなかった文化だったっけ? 兎も角、向こうの世界とは、ガラリと異なったものだよ。死んだ奴がひょっこり生き返るし、ぴんぴんしていた奴が、戯れのように死んだりする。こちらの死は向こうより軽いわけではない。むしろ逆でね。向こうよりもバリエーションに富んでる。死ぬ方にとっても、死なれる方にもね。いずれにせよ、あいつがループ再生のようにまた饗堂に現れる可能性は、全く普通にあることよ。ここは《不思議という必然》の世界なの」
「……そうなのでしょうね」
判っています。ここで少し暮らせば、異なる「物理法則」に包まれていることは、必ず判ります。
わたくしもアタマには刻まれているのですが、まだ腑には落ち切っていないのでしょう。
「やれやれ。ごめんね。ありきたりのショーを、ありきたりに、お観せしてしまって。正直言ってね、力を解放している時って、一応、爽快一色でさー。それまでの怒りは、全然無くなるんだけど、カブキ役者がミエを切るみたいな流れで、念のためにね、怒ってみたわけでね。あたしの能力は筋力展開系だから、怒りの『型』を演舞するのが、最も力を引き出しやすいんだよ。しかし、アマネたんは食事を続ける雰囲気ではなくなってしまったかな? 食欲は大丈夫? きょうはもう、行こうか?」
「いえ、喧嘩されてるのを見たら、お腹がすいちゃいました。何か食べてもいいですか?」
「アマネたん……。いいわあ……。いいわねえ……。《創舎》に来て間もないのに、その慣れっぷり。あんた、やっぱり、素質あるわよっ!」
氷上さんは呆れ顔で腰を下ろしました。
そう仰られても、実際にお腹がすいたのです。仕方ありませんよね。わたくしだって本当は氷上さんのために何かしたかった。でも、できなかったものですから、おなかにものを入れるくらいしか、やることがなかったのです。
わたくしはガーリックオイルのアンチョビースパゲッティを頼みました。氷上さんも同じものを頼み「おごってやるよ。騒がせたお詫びさ」と舌を出しました。美麗で頼れるお姉さんでした。
能力の発露は一時的のようでした。氷上さんの髪からは黒が引き、もとの青藍色になりました。瞳の色も青に戻っています。
「驚いたかい? あれがあたしの力、【三曲式屈折発動儀】。まだ力の一部だけど」
氷上さんはブルーキュラソーにハラペーニョソースとトマト果汁を入れて炭酸水で割った「ヒートアイス」という飲み物をストローで吸いました。グラスの氷が甲高く滑ります。戦いの火照りを気持ちよく維持しつつ、ココロの熱は冷ますようなドリンクです。
「率直に申しまして、凄かったです」
本当、それだけです。ここまで鮮やかな逆転劇を見せられると、やはり観ている側も昂ぶるものです。なんて酔わせる方でしょう。そういえばサキちゃんも、初見で[シンジュク]を破壊してみせました。神は皆、酔わせる者でしょうか。自ら酔う者でしょうか。
「……でもどうして、はじめは殴られるままになっていたのです?」
逆転の痛快さを出す演出なのでしょうか。それにしては殴られすぎだったと思います。
「それがさ……。言ったよね。あたし、能力が芽生える時にトチっちゃったって。つまりさ、不真面目だったせいで、能力がストレートに出せない、回りくどい能力になっちゃったのよ。力を発露するには、ある程度の鬱屈が必要なの」
「能力の発動に、そんな制限が掛かっているのですか?」
「そ。制限っていうか、まだるっこしい手続ね。《創舎》来た時に慢心しちゃって、能力とかテキトーでいいや~って思ってたらこの体たらく。だからアマネたんには、さっき言ったわけ。能力は芽生える時が肝心よって。不真面目だとあたしみたいに面倒なことになるからね~」
「あのくらい殴られたりしないと、発動できないと?」
「いやいやとんでもない。あんなのは最後の一押しってだけだよ。もっとたくさんの莫大な鬱屈が必要なんだ。名前を偽ったりさ、力ずくで犯されたりさ、全部能力解放の手続のうちなのよ」
「……え、それはなかなか……」
「気付いていると思うけど、あたしの苗字も、そういう一種の『呪』なのよ。火の色をした髪。普段の状態とは逆の文字によって、乖離の力を蓄積しているの」
なるほど。「呪」……ですか。鬱屈した力を溜めるため、生活に嵌められた枷。
能力を出すために、偽名で暮らしたり、屈強な男達に犯されるのは、わたくしは想像したくありませんが……。
「だけどさぁ、目に見える苦しさなんて、まだ全然マシよー。しんどいのは目に見えないトコロでね。能力を開放している時は爽快なんだけどね、ポイント溜めてる間は、ほんと、キツイんだわ、これが。実はあたし、物凄く臆病な性格でねえ。向こうに居た時からそうだった。能力にそこを突かれちゃった形なの。利用できる『特質』だと判定されたわけよね。アホパイネンの前で足が震えたのは、演技じゃなかったわ。ああいう人の前に出ると、カラダとココロが、真芯から震えてきちゃうよ。足元はおぼつかなくなる。足場が小さくなる。高所にある岩の柱の上に立たされている気持ち。そよ風すらカラダを刳り貫いていく。『特質』だから、変えられない。しゃあないのよ。ポイントを溜めると思って生かすしかない。震えに耐える……耐えられないけど、さ。誰も解らぬこの悲哀ってね。ただ震えて立っているだけだって、あたしなりに命を賭けて、耐えてるわけなのよ。あたしの日常は命懸け。ギャンブルだよ。あたしギャンブル嫌いなんだけどねっ! 『成らされちまったギャンブラー』なのよね。拷問かよってねー」
「――……」
わたくしは黙って、頷くにとどめました。
氷上さんは自身をコミカルに嘲ってみせます。今は能力明けの爽快さが残っているため、軽口に聴こえますが、わたくしは氷上さんが独りで鬱屈としている時の落差を、想像できないわけではありませんでした。
「まあ今は辛気臭いことはやめにしましょう。ささ、食べて食べて。さめちゃうからね」
氷上さんがスパゲッティの皿を寄せてきます。それからは二人でもくもくむしゃむしゃ食べました。わたくしはスパゲッティーを咀嚼しながら、氷上さんの能力の一幕を観た時の感覚を反芻していました。
氷上さんは体を動かしておなかがすいたのでしょう。トマトのスープスパゲッティーをおかわりして、わたくしよりも早くたいらげました。
「愉しかったよ、アマネたん。とんんでもない邪魔者が入ったけれど、だからこそ愉しくなった。《創舎》ではいつものことさ。後であたしの部屋に遊びにおいでよ。あたしの秘密をみせてあげる。それもきっと愉しいよ。いつでも待っているわ」
氷上さんはそう言って、饗堂をあとにしました。
わたくしはいつか氷上さんの部屋に遊びに行くでしょう。ちょうど氷上さんに興味が湧いて来たところでした。
氷上さんが神の力を解放した時の、あの空気。たしかに圧倒的なオーラでした。アホパイネンの命運は「終わった」と、わたくしは思ったのですが、それだけでない、何か。
氷上さんを中心に、新しい空間が広がり、世界が上書きされるような、とめどない新鮮さ。
開放感。
そのオーラ。
わたくしは親近感を覚えたのでした。
わたくしは知っているような気がしたのです。
知っている? おかしなことを、思うものです。
初めて見た、神のオーラ。知っているはずもありません。しかし裏腹に、心の深いところからの思念が、鳴り止みませんでした。
わたくしはあれを知っている……。
あれはいったい、いつ……?
ずっと昔……?




