441号室 9
「不思議だね。アマネのお茶はリラックスする。いえ、豆乳であって、お茶でもないけど、リラックスするのは確か。こんなにカラダとココロの力が抜けたのはいつぶりだろう。初めてかもしれない」
サキちゃんは、とても冷静に述べました。わたくしにはどこもいつもと変わらぬように見えますが、当人比ではリラックスしているのでしょう。リラックスしたというのは、リラックスを好むわたくしには、最高の賛辞でした。
「そもそも、お茶をごちそうになったことは、ここに来てから初めてだけどね。ごちそうさま」
サキちゃんはコップを返し、少しだらりと、深く腰掛けました。
「不思議といえば、アマネがいつもリラックスしているように見えるのも不思議よね」
サキちゃんは珍獣を見るようにわたくしを観察しました。いつもクールで怜悧で、年齢以上に自分を整える技術に長けているサキちゃん。わたくしが別種の生き物に見えてもおかしくないでしょう。
わたくしは引き込もりらしからぬ答えを返しました。
「こちらに居ると、わたくしは動けますから」
こちらに来たときから、こちらが本来の世界だとわかりました。こちらに居られたら、わたくしは満足です。前の世界では充実した引き込もりに入るには準備が必要でした。いい引き込もりを部屋に居る時間の二~三割でも送れればいいくらいでした。こちらでは、ごく自然体で、引きこもってられるんです。こうしてお喋りしているときも、気分はとても楽しく引きこもりです。
「リラックスって、何だと思います?」
「何って……、力が脱けることじゃないの?」
分かり切ったようにサキちゃんは言います。
わたくしはそれは、半分正解だと思いました。
「アマネはどう思うの?」
「わたくしは、力が脱けていて、力が入っていることだと思います」
「脱けて、入ってる?」
サキちゃんは眉を寄せます。
「ええ。リラックスとは、緊張を伴った弛緩ではないでしょうか。リラックスって、気持ちいいでしょう? 『気持ちよさを感じる』には、適度な緊張が必要だと思うのです。たとえば、低血圧の方の朝とか、入院されてる方の気分などは、脱力してはいるけれど気持ちよくないと思うのです。リラックスというより、どちらかというと、憂鬱ではないでしょうか」
「――なるほど。そうかもしれない」
サキちゃんは少しだけ目を見開き、言いました。
「つまり、ちゃんとリラックスに入るには、正しく力が入っていること大事要だと思うのですね。わたくしはリラックス状態を『いつでもバランスのよい対応ができる状態』と定義しております。力が脱けているのはもちろん、適度に入ってもいるので、こころよいレスポンスが返せるというわけです」
「たしかに……。リラックスしていれば、タンスの角に小指をぶつけても、直前に気付けたり、備える体勢がカラダにできていたりして、そんなに痛くないかもしれない。そもそも、カラダの制御がとれていて、ぶつけることもないかもしれないわね。でも低血圧でぼーーっとしている時にぶつけたら、最終戦争レベルの脅威かも。脱いただけでは不充分なのは、一理ある」
サキちゃんは頷き、そのまま何かを考えていました。
聡明なサキちゃんは気付いたことでしょう。つまり、サキちゃんは今まで力が入っていたところに、適度にお茶で力が脱けたために、心地良さが訪れたのだと。
人には色々なタイプがあります。力が入りやすい方。脱けやすい方。バランスしやすい方。リラックスには緊張と弛緩が神がかりにバランスする均衡点が必要です。自分の均衡点が判ると、リラックスを人生の仲間にできます。オリジナルのリラックス法を見付けるのも大事ですね。わたくしの場合は、それは、引き込もりです。
引き込もりは緊張と弛緩のバランスを均衡点で保った能動的結界なのです。――とは、明言するほどのことではないですけどね。
サキちゃんは、ふう、と息をつき、わたくしに言いました。
「そういえば、アマネは服を替えたし、お茶も飲めるようになったね。買い物に行く必要はもうないね」
忘れていません。サキちゃんに買い物に連れて行ってもらう約束をしていましたよね。
「必要、なくないです」
「え?」
わたくしは「都会」を見てみたかったですし……。
「買い物は行ってみたいです。カタログを見るのと、実際に買い回るのは違いがあるかもしれませんし。カタログにない掘り出し物もあるかもしれないですし……! ええ、そう、わたくし今ちょうど、マグカップが欲しかったのです。今は一つですが、もう一つほしいと思っていました。というのもいつも使われていたらマグカップも疲れると思うのですね。もう一つあれば交互に使えますし、他にも何かと役に立ってくれると。カタログには載っていなくて、[シンジュク]のどこかに埋もれていそうな、味のある物がほしいのです。二つで一生使えるようなマグカップを揃えたい。それはかねがねの望みでして」
口をついて出たマグカップの話は本当でした。こういう時には、いつも馴染んでいる事の話が出るものです。ですが、もちろん、いちばんは、サキちゃんと出掛けたかったからでした。サキちゃんとはもっと親睦を深めたい。素直にそう思います。
わたくしは意気込みを隠せていなかったのか、サキちゃんは驚いたように目を見開きました。
「そ、そう。それが二〇△▽年の考えってもの? ま、まあ、希望があるなら応えないわけにはいかないわね。仕方ないわ。行ってあげる。明日……は難しいから、きょう、これから行ける? ……急だけど、だめかしら」
だめなわけないじゃありませんか。この買い物の中心には、サキちゃんが居るのですから、サキちゃんが行きたい時が、買い物に行く時です。
人と出掛ける事。こんな事は、今までのわたくしには一大事です。
引き込もりの気持ちのまま外に出る、そんな捩れた原理も、ここでは実行可能の気がしました。
わたくしは引き込もりに、特有のリラックス感を求めているのであり、カラダを動かして同じリラックス感を得られているのであれば、何も言うことはありません。
わたくしはサキちゃんと出掛けることになりました。