第34話:地下水道の怪異と、蠢く毒刃
### 第34話:地下水道の怪異と、蠢く毒刃
「……『腐食の蛇竜』か」
ダインの低く太い声が、松明の炎が揺らめく地下部屋に響いた。
「ああ。奴の分泌する酸は強固な鎧すら一瞬で溶解させ、幾度首を撥ねようと即座に再生する。我がギルドの精鋭たちですら、あの死臭漂う暗闇で数名が命を落とした」
ジゼルは仮面越しに合成音を響かせながら、ゆっくりと木製のデスクに両肘をついた。
(……それにしても、なんて禍々しい……。こんな狂気に満ちた『呪い』を背負いながら、どうしてこの男の精神は破綻していないの……?)
仮面の裏側で、ジゼルは自らの頬を滑り落ちる冷や汗を必死に押し殺していた。
サキュバスの血を引く彼女は、男の欲望や感情の揺らぎを敏感に感じ取る能力に長けている。普段ならどんな猛者であろうと、彼女の発する仄かな甘い気配に当てられ、自然と目尻を下げて屈服していくはずだった。
だが、この「ダイン」という大男の前に立つと、彼女の魅惑の波動など龍の威圧の前に虚しく散り散りになってしまう。それどころか、背中に宿る『龍毒』の異形さに当てられ、こちらが気圧されそうになっていた。
「いいだろう、その依頼……受けて立つ。地下水道への入口はどこだ?」
「ふふ……威勢がいい男は嫌いではない」
ジゼルは不気味な合成音を打ち切り、ふっと喉を鳴らして笑った。
そして、デスクの引き出しから古びた地下水道の全体図が描かれた羊皮紙を取り出し、カウンターへ滑らせた。
「メルカティの東区、廃ゴミ処理場の奥に古びたマンホールがある。そこから下へ降りれば、旧時代の排水路へと繋がっているよ。……蛇竜の巣窟は、その最奥の『澱み』だ」
「分かった」
ダインがマップを手に取り、再び背中の服を羽織ろうとした——その瞬間。
「……あの方に、あまり怪しい視線を向けないでいただけますか?」
それまでダインの陰に隠れていたリノが、すっと一歩前に出た。
フードの陰から覗く瞳には、ジゼルへの明確な警戒と、どこか冷たい「殺意」のような鋭さが宿っている。
サキュバス特有の甘い気配に反応したわけではない。ただ純粋に、ダインに怪しく近づく「女」という存在に対し、リノの排他的な本能が過剰に反応していたのだ。
「おや……可愛らしいお供だこと。嫉妬かい、お嬢さん?」
「嫉妬ではありません。ダイン様を害しようとする不審物を警戒しているだけです」
リノの手が、さりげなく腰のボウガンへと伸びる。
「おいおい、よせリノ」
ダインが慌ててリノの頭の上に大きな手をポンと置いた。
「ジゼル殿はただの依頼主(仲介人)だ。喧嘩を売るような真似はしちゃだめだ」
「……ダイン様がそう仰るなら」
ダインに頭を撫でられた瞬間、先ほどまでの刺々しいオーラは嘘のように霧散し、リノは「ふにゃ」と耳を寝かせて嬉しそうにダインの腰へしがみついた。
その落差を目の当たりにしたジゼルは、仮面の下で呆れたように息を漏らした。
(やれやれ……ただの大男と従者かと思えば、なんともお熱いこと。……だけどあの小娘、只者じゃないね。あの殺気……一瞬本気で私の首を狙いに来ていたよ)
「……それじゃあ、健闘を祈っているよ。無事に蛇竜の首を持ち帰れたら……ギルドの禁書庫だけでなく、この『黒猫の囁き』で一番極上の夜を奢ってあげるからねぇ」
そう言うと、ジゼルは仮面に手をかけ、すっと横へずらした。
「……んっ……♡」
ヴェールの奥、仮面の奥から覗いたのは、息を呑むほどに美しい紫の瞳と、甘く湿り気のある唇。さらには、着物の胸元を惜しげもなく寛げ、豊満な胸の谷間とサキュバス特有の甘美な匂いを惜しげもなく漂わせてきたのだ。
合成音声ではない、耳孔を甘く痺れさせるような本物の艶声。
「あ……いや……」
突然の絶世の美女のお披露目と、鼻腔を突く魅惑の香りに、山田は一瞬言葉を詰まらせ、思わず目が釘付けになりかけた——その瞬間。
ゾクッ……!!
背後から、背筋が凍りつくような「絶対零度の殺気」が背中に突き刺さった。
振り返らずとも分かる。リノの目が完全に光を失い、どす黒い闇のオーラを全身から噴出させているのだ。
(や、ヤバい……!! ジゼルのフェロモンより、リノの嫉妬の方が命の危険を感じる……!!)
山田は冷や汗を滝のように流しながら、慌てて視線を逸らして言い放った。
「そ、そんな不要な特典は結構だ!! 行くぞ、リノ!」
「ふふっ、はいっ♡ ダイン様!」
ダインが即座に誘惑を断ち切った瞬間、背後の暗黒オーラは嘘のように消え去り、リノはいつもの可愛らしい弾けるような笑顔を取り戻した。
(恐ろしい……この小娘、ダイン様とやらへの執着がタダ事じゃないねぇ……)
一部始終を見ていたジゼルは、胸元を元に戻して仮面を直しつつ、呆れと恐怖の混ざった息を漏らすのだった。
ダインたちはジゼルに背を向け、暗殺者ギルドの地下室を後にした。
◇
数時間後——東区のスラム街の外れ、異臭が立ち込める廃ゴミ処理場。
「……ここか」
ダインが錆びついた鉄製のマンホールを腕力任せに持ち上げると、カチャンと重い音が響き、下から湿ったかび臭い風と、ドブのような不快な臭気が吹き上がってきた。
「ダイン様、お足元にお気をつけください。地下水道は足場が悪く、視界も最悪です」
「ああ。……リノ、ボウガンの予備矢とランタンの準備はいいか?」
「バッチリでございます!」
二人は慎重に梯子を下り、地下水道へと足を踏み入れた。
バシャリ……。
足元を濡らすのは、黒く濁った不気味な水。
頭上の天井からは絶え間なく水滴が落ち、周囲はランタンの微かな明かりしか届かない漆黒の闇に包まれている。
ダインはゆっくりと息を整え、己の体調を確認した。
龍毒によるステータス低下は相変わらずだが、前日のエリクサーと肉の摂取により、最悪の危機は脱している。
(衝撃吸収のストックは……アルとの共闘の際にある程度吐き出したが、まだ完全に空になったわけじゃない。体術と組み合わせれば、戦える)
暗闇の奥、巨大な空洞の方向から、ギチギチ……と無数の硬い関節が擦れ合うような嫌な音が聞こえてきた。
さらに、鼻を突く強烈な腐食臭——金属すら溶かす酸の匂いが漂ってくる。
「……来たな」
「はい、ダイン様。……前方より、複数の気配!」
闇の奥から浮かび上がったのは、巨大な発光する無数の「赤い目」。
一頭どころではない。巨躯をくねらせ、酸の粘液を撒き散らしながら迫ってくる蛇の如き怪物たちの群れだった。
「【跳躍】発動……! 始めるぞ、リノ!」
「承知いたしました! ダイン様の背中は、命に代えてもお守りいたします!」
暗黒の地下水道で、己の運命を切り拓くための新たな死闘の火蓋が落とされた。




