第21話 :迷いの谷と職人集団
---
### 第21話: 迷いの谷と職人集団
「……なあアイリス、体感でどれくらい経った?」
「……アルティスよ…たぶん、三日目よ。……たぶんだけどね」
生ぬるく湿った濃霧が、視界を一面の白紫へと染め上げていた。
ただの霧ではない。大気に濃密に含まれた魔素が変質した『魔素ガス』だ。太陽の光を完全に遮断し、昼か夜かの感覚すら狂わせる『迷いの谷』の真骨頂であった。
「ふぅ……ふぅ……ッ」
「おいおい、大丈夫かよ。顔色が土気色だぞ」
前を行くルシェラ――コボルトたちに親しみを込めて『アイリス』と呼ばれ、なし崩しにそう改名した元王女様は、呼吸を荒らげながら健気に前進していた。
本来なら一歩進むごとに方向感覚を失う死の霧だが、彼女の行使する【精霊魔法】で周囲数メートルの視界だけを確保し、微小な精霊たちに道を訊ねることでどうにか進破できている。
だが、その魔法の連続使用と、三日間にわたる張りつめた緊張感が、確実に彼女の体力を削り取っていた。
(俺の【風のブレス】で吹っ飛ばそうかとも思ったが、ガスが濃すぎてキリがないからな……ここは大人しくプロの道案内に頼るのが正解だ)
不眠不休どころか、四百五十キロの巨躯(もはや高密度肉塊の重戦車だ)へと進化した今の山田にとって、この程度の環境は痛くも痒くもない。
道中、霧の合間から襲いかかってきた巨体の大蛇やら、馬ほどもある大蜘蛛、血を吸う巨大蝙蝠なんかも、山田にとっては「おっ、今日の食材か?」程度の道草に過ぎなかった。
だが、山田はともかく、ルシェラやコボルトたちは生身の生物だ。限界は近い。
「ダイン様! アイリス様! ここらで休息にいたしましょう!」
最前線で警戒にあたっていたコボルトの長老が、手招きをして手近な岩壁を指さした。
「アイリス様、限界でございます! ダイン様、許可を!」
「だから、アルィス…」
「お、そうだな。全員、一旦キャンプにするぞ」
山田がそう声をかけると、コボルト部族の面々の目が一斉にギラリと光った。
ここからの彼らの動きは、まさに『プロの職人集団』そのものだった。
「よし、野営の準備だ! 第一班はアイリス様の土魔法を補助して土室の設営! 第二班は素材の加工! 第三班は警戒陣地の構築!」
「「「オオッ!!」」」
一手に指示が飛ぶやいなや、小柄なコボルトたちが凄まじい手際で動き始める。
「アイリス様、こちらに土魔法で空洞を掘っていただければ、あとは我らが整えます!」
「あ……アルティス、いや、もう、アイリスでいいわ…ええ、わかったわ……【土精よ、穿て(クリエイト・シェード)】……ッ」
ルシェラが最後の力を振り絞って岩壁に直径二メートルほどの横穴を穿つと、間髪入れずにコボルトの建築班が雪崩れ込んだ。
道中で回収していた巨蜘蛛のしなやかな糸と、大蛇の柔軟な皮、そして乾燥した苔を手際よく敷き詰め、あっという間にふかふかの『特製ベッド付き簡易土室』を完成させていく。
一方、解体班は山田が道中でぶち殺して背負ってきた大蛇と大蜘蛛の死骸に取りついていた。
【解体】スキルを持つコボルトたちが、身の丈ほどもある解体ナイフを自在に振るい、毒素を含む内臓と綺麗な赤身肉を鮮やかに切り分けていく。甲殻や牙はそのまま防具や資材へと加工されていく手際の良さだ。
さらに警戒班は、谷の低木や骨、そして蜘蛛の糸を巧みに張り巡らせ、触れれば細かな骨が打ち合わされて音が鳴る『トリップワイヤー(鳴子罠)』を陣地の周囲に完璧な密度で設置し終えていた。
(……相変わらず手際が良すぎるだろ。前世の現場作業員でも、ここまでの突貫工事を数分で終わらせる奴はいねえぞ……)
山田が感心していると、土穴の入口でルシェラが膝から崩れ落ちそうになっているのが目に入った。
「うっ……足が……っ」
「おいおい、強がるなっての」
限界を迎えた彼女のもとへ、山田はズシンズシンと巨体を揺らして歩み寄る。
「なっ……なに親分面して……きゃっ!?」
強がりを言おうとしたルシェラの身体が、ふわりと浮き上がった。
いや、浮いたのではない。山田が丸太のようなぶっとい腕を伸ばし、彼女の華奢な身体を軽々とすくい上げたのだ。四百五十キロの重戦車からすれば、ルシェラの体重など羽毛にも等しい。
「な、なな何すんのよこのクソブタっ!! 放しなさいよ、失礼でしょ!!」
「騒ぐな、余計に疲れるぞ。休めって言ったろ」
真っ赤になって暴れるルシェラを意に介さず、山田は丸太腕で抱えたまま(傍から見れば大型重機が繊細な骨董品を持ち上げているような図だ)、完成したばかりの土室へとすっぽり潜り込んだ。
「はい、着地」
「く、骨董品か何かみたいに扱わないで頂戴……! 私は元・準S級冒険者で、これでも――」
文句を言いかけたルシェラだったが、コボルトたちが作った苔と蜘蛛糸のベッドの上に優しく置かれた瞬間、深々とした溜め息をついた。
全身の力が抜け、まぶたが猛烈な重さに耐えきれなくなっていく。
「……たく、生意気なブタ……。後で……覚えてなさ……い……」
語尾が小さくなり、数秒と経たないうちにルシェラは規則正しい寝息を立て始めた。よほど疲れが溜まっていたのだろう。
「ふう、やれやれ……」
山田は苦笑しながら土室を出ると、入口の前にどっかりと腰を下ろした。
外ではコボルトたちが、大蛇の肉を焚火でじっくり焼き上げ、香ばしい煙を漂わせている。
「ダイン様! 串焼きが焼き上がりました!」
「おう、サンキュ」
コボルトから手渡された大蛇の肉(特大サイズ)を豪快に噛みちぎる。
【超重胃袋】が稼働し、肉が即座にエネルギーへと変換されていく感覚があった。山田には睡眠は不要だ。こうして肉を喰らい、見張りをしていればそれで十分だった。
静かな焚火の音と、濃霧が蠢く不気味な静寂。
コボルトたちも肉を腹に収め、満足そうに山田の足元で丸くなって眠り始めている。
(まあ……なんだかんだで順調か。この迷いの谷を抜ければ、目的のオークやオーガの開拓集落だ。そこで静かに暮らせれば――)
山田がそんな「事なかれ主義」な未来に思いを馳せていた。
---
◇
次にルシェラが目を覚ました時、洞窟の外の濃霧は相変わらず白紫色に蠢いていた。
だが、体の重さはすっかり消え、だが、魔力を使い過ぎたのか回復しきっている感覚ではない。
(……どれくらい眠っていたのかしら)
身体を起こし、凝りをほぐすように軽く伸びをする。
ふと土室の入口へ目を向けると、そこには相変わらず巨大な岩石のような背中――山田がどっかりと座り込み、外の警戒を続けていた。
「……起こさなかったのね」
ルシェラが声をかけると、山田がぬっと巨躯を振り返らせた。
「おう、起きたか。かなり熟睡してたぞ。丸一日近く眠ってたんじゃないか?」
「そ、そんなに!? ……まあいいわ、お陰でかなり体力が戻ったわ」
ルシェラはすっと立ち上がり、土室を出て山田の隣へ腰を下ろした。
外ではコボルトたちが交代で見張りを立てつつ、小手先の器用さを活かして罠の整備や干し肉の仕込みを淡々とこなしている。
「ねえ、ダイン。この迷いの谷を抜けた後のことだけど……」
「ん? ああ、目的地(オークとオーガの開拓集落)のことか」
ルシェラは真面目な面持ちで頷き、銀髪を軽く払った。
「ええ。あの集落は元々、人間社会の迫害や魔物の縄張り争いから逃れてきた異種族たちが、文字通り開拓して作った隠れ里よ。だから他者への警戒心は強いけれど、事情を話せば無用な争いは避けて匿ってくれるはず。」
「へえ、なら好都合だな。争いにならねえなら万々歳だ、俺はもうあんな無茶な戦いはうんざりだ。」
「それに、あの集落にはオーガや巨人族の引退した傭兵・冒険者も多いの。もしかしたら**傭兵国家コルヴァン傭兵市場連合**に通じている者だっているかもしれないわ」
ルシェラは少し口元を緩め、頼もしそうに頷いた。
「集落全体の規模もそれなりに大きいしね。さすがに帝国の追手も、無茶な手出しはできないはずよ」
「俺の望みは静かで平和な生活だからな。畑でも耕しながら事なかれ主義で過ごせるなら万々歳だ」
「……あんたその巨体と規格外の強さで、本気でスローライフ送るつもりなのね……」
呆れ顔のルシェラだったが、すぐに表情を少し曇らせた。
「でも問題は、あの谷の先へ行くには私の【精霊魔法】での道案内が不可欠ってこと。……さっきの休息で体力は戻ったけど、ここから先はさらに魔素ガスが濃くなるわ。私の魔力(MP)が最後まで持つかどうか……」
真剣に今後のルートと魔力配分について悩むルシェラ。
そんな彼女を、山田は前足(手)で顎をさすりながらじーっと見つめていた。
そして、おむすびのようなぶっとい指先を一本、スッとルシェラの目の前に差し出した。
「吸ってくれ」
「…………は?」
ルシェラは思考がフリーズした。
指。巨体のブタおじさんの、ゴツゴツした指。それを目の前に差し出され、「吸ってくれ」という一言。
「な、なななな何言ってんのよこのクソブタ変態ッッ!?!?」
一瞬で顔を耳まで真っ赤に染め上げ、ルシェラは蛇腹剣の柄に手をかけながら跳び退がった。
「破廉恥! 猥褻! 絶滅しなさいよ! 疲れてる私になんて性的で気味の悪い要求をしてくるのよッ!!」
「バカッ! 違うわ、誰がそんな性的プレイ要求するか!!」
山田は慌てて太い腕をブンブンと振った。
「あれだよあれ! ほら、飛竜と戦った時とか、俺の体に触れて魔力を吸収(吸い取)ってただろ! あの魔力カツカツだった状態から一瞬で大魔法?風の魔法とか魔導弓みたいなのぶっ放したやつ!」
「あ……え?」
ルシェラはポカンと口を開けた。
「よくわからないが、飛竜を喰った時からなのか…俺の魔力は【計測不能】レベルで溢れてるらしいからな。俺の指でも腕でも触れて、俺から魔力を吸い取れば(チャージすれば)、お前の魔力切れなんて一発で解決するんじゃないかと思ったんだよ」
「……あ、そういう……こと……?」
勘違いだったと気づいたルシェラは、赤面したまま固まった。
そして自分の早合点と、山田のあまりにも無自覚で身も蓋もない「バッテリー扱い」に、恥ずかしさと憤りが同時に押し寄せてきた。
「~〜〜っ!! 言い方ってものがあるでしょうがこの鈍感ブタ!! 『魔力を分け与える』と言いなさいよ『吸ってくれ』じゃなくて!!」
「いや、吸うのはお前だろ……」
「うるさい!! ほら、貸しなさい!!」
ルシェラは顔を真っ赤にしたまま山田の手を引ったくるように掴み、集中した。
瞬間、山田の体内から膨大な――まるで大海原のような密度の魔力が、ルシェラの中へと怒涛の勢いで流れ込んでいく。
「くっ……!? なにこの底なしの魔力量……ッ!?」
「おお、なんか吸われてる感覚があるな。どうだ?」
「……十分すぎるわよ、バカ……」
一瞬で魔力が満たされ、精霊たちの声がより鮮明に聴こえ始める。
ルシェラは山田の手をパッと離すと、そっぽを向いて鼻を鳴らした。
「よし……これで迷いの谷の突破も、開拓集落への到達も問題ないわ。……行くわよ、クソブタ!」
「はいはい。頼んだぞ、道案内さん」
山田は苦笑しながら立ち上がり、丸くなって眠っていたコボルトたちを起こし始めた。
二人の噛み合わない絆(?)を深めた一行は、いよいよ迷いの谷の最深部、そして目的地であるオークとオーガの開拓集落へと向かって踏み出そうとしたその時だった。
---
――チリン。
静寂を破り、陣地の外縁に張られたトリップワイヤーの骨が、かすかな音を立てて揺れた。
(……ん?)
山田の【耳】と【直感力強化】が、瞬時に反応する。
ただの風ではない。明らかに「何か」が仕掛けに接触した音だ。
谷の魔物か。それとも――追撃の手を緩めない帝国の追手か。
山田は立ち上がり、静かにその巨躯を闇と濃霧の境界へと向けた。
---




