第35話 (オマケ) 退屈なお姫さま
第三王女エレオノーラ・アルヴェリオンは、退屈していた。
暇なわけではない。むしろ逆だった。
朝から講義、実技、課題。王宮へ戻れば晩餐があり、来客があり、外国使節への挨拶や式典もある。教師も友人もいて、話し相手に困ったこともない。
そして、退屈だと言えば、誰かがすぐに何かを用意する。
それが、また退屈だった。
*
「殿下」
「何?」
昼休み前。エレオノーラは本館の窓際で、次の講義の資料を読んでいた。
側付きとして同行している上級生が、一枚の紙を差し出す。
「先日の行軍演習について、追加報告が上がっております」
「また?」
「はい」
受け取って読み進める。途中で、少し笑った。
「やっぱり」
「何か?」
「この子だったのね」
指先にある名前。
エリアス・フェルマー。一年生。
*
最初に名前を見たのは、図上演習だった。
エレオノーラには後方の補給統括が任されていた。重要な役割で、全体にも影響する。ただし、失敗しにくい。
初期備蓄は十分。輸送路も複数。補助につく上級生も優秀だった。
配置表を見た瞬間、エレオノーラには分かった。
――そういうことね。
腹は立たない。こういう配慮には、学院へ入る前から慣れている。
ところが、演習開始からしばらくして補給計画が崩れ始めた。
物資がないわけではない。輸送路が完全に切れたわけでもない。ただ、必要な時刻に、必要な場所へ届かない。
一度、二度、三度。嫌なところばかりを突かれる。
「これ、誰?」
教官が確認する。
「一年のフェルマー生が中心ですね」
「一年生?」
「はい」
隣の学生が困った顔をした。
「殿下の担当区域を狙うとは……」
エレオノーラは、その学生を見る。
「どうして?」
「いえ、その……」
「狙ってはいけないの?」
「そういう意味では」
「なら、いいでしょう」
盤面へ視線を戻す。自分の補給線は、見事に継ぎ目だけが傷んでいた。
「面白いわね」
*
二度目は、行軍演習だった。
平原。野戦陣地。麻痺効果のある魔法葡萄弾。少数の上級生。そして後方の天幕には、第三王女。
用意された席でお茶を飲みながら、エレオノーラは考えた。
――今度は、ずいぶん露骨ね。
天幕は目立つ。指揮所らしく旗まで立ち、周囲には姿を隠した精鋭の護衛。
下級生がここを狙えば、成功しても失敗しても絵になる。
案の定、別動隊が来た。
草むらを匍匐して近づいてくる。エレオノーラは気づかないふりをして、お茶を飲んでいた。
もう少し。
そして、突入。
護衛が動く。失敗。
「あら」
カップを置いた。少し残念だった。
だが、その頃。
別の五人組は、こちらへ来ていなかった。
終了間際。
後方の補給集積所から、赤い火線が一本、二本、三本――さらに複数、一斉に立ち上がった。
「何?」
周囲の上級生が振り返る。
狼煙火。
その中で、草むらから五人が立ち上がった。
演習終了。
後から、エレオノーラは担当教官に聞いた。
「なぜ指揮所を狙わなかったの?」
教官は報告書を見る。
「フェルマー生の判断では、必要がなかったようです」
「必要が――なかった?」
「はい」
エレオノーラは少し黙った。それから、笑った。
その日から名前を覚えた。
エリアス・フェルマー。
*
もう一人は、覚える必要すらなかった。
ヒルデガルド・ヴァン・アルトハウゼン。
家名も顔も知っている。年齢も近く、王宮の行事で何度か見たことがあった。直接話したことはほとんどない。
姿勢の良い銀髪の少女。それくらいの認識だった。
*
そして今日。
中央食堂で、その二人を見つけた。
エリアス。ヒルデガルド。
それから、演習で一緒だった三人。
顔は知っている。名前は――覚えていない。
エレオノーラは食事盆を持った。
側付きが気づく。
「殿下?」
「何?」
「お席は、こちらに」
「知ってる」
そのまま歩く。
「殿下?」
「今日はあっち」
「……あちら?」
*
中央食堂の音が、少しずつ小さくなった。
学生たちが第三王女を見て、その進行方向を見る。
五人の卓。
最初に気づいたのはヒルデガルドだった。顔が固まる。
次にガイウス、マリエッタ、リオネル。
最後にエリアス。
エレオノーラは空いている椅子を見た。
「ここ、空いてる?」
「一席なら」
「エリアス」
ヒルデガルドの声が低くなる。
「何?」
「殿下です」
「知ってるよ」
エレオノーラが笑う。
「なら、いいでしょう?」
「……もちろんでございます」
エレオノーラは座った。
*
少し離れたところから、食器の触れ合う音だけが聞こえる。
エレオノーラはヒルデガルドを見る。
「久しぶりね」
「お声がけいただき、光栄です」
「前に会ったの、いつだったかしら」
「一昨年の冬至祝賀会かと」
「ああ。お父様と来ていたわね」
「はい」
そして、エリアスを見る。
「あなたがエリアス・フェルマーね」
「はい」
少し考えてから、エリアスが聞いた。
「僕をご存じなんですか?」
「二回も私の予定を壊した人だもの」
ヒルデガルドが小さく息を呑む。
「殿下、それは――」
「怒ってないわよ」
それから残りの三人を見る。三人の姿勢が、微妙に良くなった。
「それで――」
エレオノーラが止まる。
「あ」
三人が待つ。
「ごめんなさい。名前を聞いても?」
最初に名乗ったのはガイウスだった。
「ガイウス・レオニスです。殿下」
「ガイウスね」
「マリエッタ・セランと申します」
「マリエッタ」
最後にリオネル。
「リオネル・ヴァルカです」
一拍。
「覚えなくても大丈夫ですよ」
「ヴァルカ生」
側付きの声が飛ぶ。
「はい」
エレオノーラが笑う。
「そう言われると、覚えたくなるわね」
「失敗しました」
少し、空気が緩んだ。
*
食事を始めてから、エレオノーラはエリアスへ向き直った。
「一つ、聞きたかったの」
「はい」
「あなた、私のこと嫌い?」
「いいえ」
「なら、どうして二回とも私のところに来なかったの?」
「?」
本当に分からないらしい。
「図上演習と、行軍演習」
「ああ」
エリアスはスープを一口飲んだ。
「行く必要がなかったからです」
ヒルデガルドが目を閉じる。
ガイウスは固まり、マリエッタはエリアスを見る。リオネルだけが下を向いた。
「必要がなかった?」
「はい」
「行軍演習では、私は敵の指揮官だったのよ?」
「そうですね」
「普通は指揮所を狙わない?」
「場合によります」
エリアスは普通に答える。
「勝利条件は、殿下を捕縛することではありませんでした。平原へ規定兵力を進出させることが目的でしたから」
「だから?」
「補給集積所を無力化した方が、相手側の継戦能力に影響します」
「私より?」
「はい」
「エリアス」
「何?」
「もう少し……」
「何を?」
ヒルデガルドは諦めた。
「……いえ」
エレオノーラが笑い出した。
最初は小さく。それから、声を上げて。
周囲の学生がさらにこちらを見る。側付きも少し困っている。
「そう。私より補給物資の方が重要だったのね」
「あの演習条件なら」
「条件付きなのね」
「もちろんです」
「よかった」
「?」
ガイウスが恐る恐る聞いた。
「殿下は、本当に怒っていらっしゃらないんですか?」
「どうして怒るの?」
「いや……俺なら、敵が来なかったら少し悔しいので」
「レオンティス生」
側付きが窘める。
「はい」
エレオノーラは、また笑った。
「あなた、面白いわね」
「ありがとうございます!」
一拍遅れて。
「……殿下」
「今、付け足したでしょう?」
「はい」
*
エレオノーラはパンをちぎった。
「私ね。学院に来れば、もう少し違うと思っていたの」
少しだけ声が変わった。
誰も口を挟まない。
「王宮では、私は王女でしょう。学院でも王女なのだけれど」
自分で言って、少し笑う。
「皆、私に勝つと謝るの」
リオネルが顔を上げた。
「謝るんですか?」
「ええ」
「勝ったのに?」
「勝ったのに」
「それは面倒ですね」
「ヴァルカ生」
「はい」
「いいのよ」
エレオノーラは続けた。
「討論で私が間違えても、皆、言い方を考える。実技では危険な攻撃を避ける。演習では、重要だけれど失敗しにくい役割が来る」
ヒルデガルドは黙って聞いている。
それがどういうことなのか、五人の中ではたぶん一番よく分かっている。
エレオノーラはエリアスを見る。
「だから、あなたが補給集積所を狙ったと聞いたとき、嬉しかったの」
「どうしてです?」
「あなた、本当に分からないのね」
「はい」
「そこは即答しなくていいのよ」
ヒルデガルドが言った。
エレオノーラは少し考えてから、確認するように聞いた。
「私が王女だから、狙わなかったわけではないでしょう?」
「違います」
「王女だから、狙ったわけでもない」
「はい」
「必要がなかったから?」
「はい」
エレオノーラは満足そうに頷いた。
「でも、一つだけ覚えておきなさい」
声が少し変わる。
「私が怒らなくても、私の周りが怒ることはあるわ」
エリアスは、今度はすぐに答えなかった。
ヒルデガルドが横から彼を見る。
「分かりました」
ようやく答える。
エレオノーラは、それ以上何も言わなかった。
*
食事が終わる。
エレオノーラは立った。
「楽しかったわ」
五人も立とうとする。
「いいわ。座っていて」
それでもヒルデガルドとマリエッタは立ち、ガイウスとリオネルも続いた。
エリアスだけが一瞬遅れ、ヒルデガルドに袖を引かれて立つ。
エレオノーラはそれを見て、少し笑った。
「また一緒に食べてもいい?」
「席が空いていれば」
「エリアス」
ヒルデガルドが低い声で呼ぶ。
エレオノーラは笑った。
「じゃあ、空いている日に来るわ」
*
エレオノーラが去ったあと、五人はしばらく黙っていた。
リオネルが口を開く。
「お前、寿命削ってない?」
「どうして?」
「私、本気であなたの将来が心配になってきた」
ヒルデガルドまで言う。
「殿下、怒ってなかったよ」
「そういう問題じゃないの」
ガイウスが椅子へ戻った。
「でも、楽しそうだったな」
「そうですね」
マリエッタも頷く。
リオネルが息を吐いた。
「俺たちの方は全然楽じゃなかったけどな」
*
食堂を出て、エレオノーラは本館へ向かった。
側付きの上級生が半歩後ろを歩く。
「殿下。本当に、またあの者たちと?」
「ええ」
「なぜです?」
エレオノーラは少し考えた。
「私のことなんて、気にしなくてもいいでしょう?」
側付きが困った顔をする。
エレオノーラは、それを見て笑った。
「ほら」
「何がでしょう」
「あなたも困る」
「それは……殿下ですので」
「そうね。私は王女だもの」
あっさり認める。
階段を上りながら、エレオノーラは五人を思い返した。
「ヒルデガルドは、エリアスが何か言うたびに顔色が変わるし」
「はい」
「大きな子は、普通に話していたと思ったら途中で殿下って付け足すし」
「ガイウス・レオンティス生です」
「そう。ガイウス」
「橙色の髪の子は、リオネル・ヴァルカ生です」
「リオネルね」
今度は覚えていた。
「笑っていいのか、ずっと迷っていたわね」
「セラン生は?」
「マリエッタ。礼儀正しかった。最初から最後まで」
少し歩く。
「皆、私を気にしている」
「当然かと」
「ええ」
エレオノーラは否定しない。
「でも、同じ気にし方じゃないでしょう?」
側付きが少しだけ考えた。
「……そうですね」
「だから面白いの」
それだけ言って、エレオノーラは次の教室へ向かった。




