9 野球少年 (後編)
いつかの夜と同じように、音もなく、しかし確かに。
銀の目が、懐かしげにこちらを見つめていた。
その瞳の奥には、彼がどれほどの成長を遂げたかを見届けてきた、静かな喜びが宿っているようだった。
「ずいぶん、大きくなったね」
フィガロの声は、あの頃と変わらず、静かで、そしてどこか悟りを開いたようだった。
「……久しぶりだね」
驚きよりも先に、懐かしさが込み上げてくるのを感じた。
あの夜以来、フィガロの姿を見ることはなかったが、彼の存在は常にの心の片隅にあった。
猫はふわりと前足を上げ、彼の足元をくるりと一周した。
まるで、彼の成長を確認するかのように、その周りを巡る。
「君の投げる球は、もうとっくに願いじゃなく、誓いになってる」
フィガロの言葉に、ハッとした。
「誓い……?」
彼は、自分の胸元にある「1」の背番号を、そっと撫でた。
「夢は、願うだけじゃなく、受け継いで、歩くものだ。
君はもう、兄の影にいない。
君自身の野球をしている。
君の投げる球は、君自身の未来を切り拓くための、そして、君が愛する者たちへの誓いなんだよ」
彼は静かに目を閉じた。確かにそうだった。
兄の夢を追って始めた道は、いつの間にか、彼自身の夢へと変わっていた。
兄の幻影を追いかけるのではなく、兄の想いを胸に、自分の足で、自分の道を切り開いてきたのだ。
その道は、決して平坦ではなかったが、彼を強く、そして優しく育ててくれた。
でも――と、彼はぽつりと言った。
その声には、深い感謝と、そして、わずかな未練が混じっていた。
「それでも、たまに思うんだ。
また兄ちゃんとキャッチボールできたらって」
フィガロはゆっくりとしっぽを揺らした。
その動きは、まるで海の波のように、穏やかで、そしてどこか諦めを含んでいるようだった。
「月がよく見える夜に、波の音が耳の奥に聴こえたら……きっとまた、会えるよ」
フィガロの言葉は、まるで魔法のようだった。
その言葉が、心に、静かな希望の光を灯した。
そう言って、猫は夜の影に溶けて消えた。
彼の姿は、もはやどこにも見当たらない。
まるで、最初からそこにいなかったかのように、静かに、そして美しく。
空を見上げた。
雲が少し流れ、月がひとつ、まばたきをした。
その光は、彼の瞳に、遠い日の兄の笑顔を映し出すようだった。
「……兄ちゃん、今度は俺がプロになるよ」
彼の声は、あの頃の少年の声とは違う、力強く、そして確かな響きを持っていた。
「そんで、あの時みたいに──もう一回、ボール投げるからさ」
彼は、胸元のグローブをそっと叩いた。
真新しい、彼の手にぴたりと馴染んだグローブ。
そこに、兄の想いと、彼自身の誓いが、確かに宿っている。
ボールをひとつ、夜空に向かって放った。
ボールは、月へと吸い込まれるように、高く、高く舞い上がっていく。
月が、それを見守っていた。