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8 野球少年 (中編)

 その声は、少年が何よりも聞きたかった、温かい響きだった。


 二人は、倉庫の裏で向かい合って立った。


 夜の空には月が明るく、星々が瞬いている。


 波の音は遠くで優しく鳴っていた。


 兄が、柔らかく投げた。


 それは、かつてグラウンドで見た、あのしなやかなフォームだった。


 ボールは、ふわりと、しかし確実に少年の元へと飛んでくる。


 少年が構える。


 音もなく、ボールがミットに収まった。


「上手くなったな」


 兄の声が、嬉しそうだった。


 その声には、弟の成長への喜びと、そして、失われた時間への郷愁が入り混じっていた。


 少年は少しだけ照れて、大きくうなずいた。


 涙でぼやける視界の中で、それでも兄の姿は鮮明だった。


「兄ちゃん、俺……俺さ、ずっと、兄ちゃんの夢……」


 言葉がつまった。


 うまく伝えられない。


 感謝と、悲しみと、そして、兄の夢を継ぎたいという強い想いが、喉の奥で詰まってしまう。


 でも、兄はわかってくれたようだった。


 言葉はいらなかった。


 沈黙の中で、兄はただ微笑んだ。


 そして、黙って、もう一球、ボールを投げた。


 少年が投げ返す。


 胸を張って、腕を振って。


 兄に届けるように、渾身の一球を。


 何度も、何度も。


 夜が少しずつ明けていくなか、キャッチボールは続いた。


 ボールが行き交うたびに、二人の間に、目には見えない絆が強く結びついていくようだった。


 それは、失われた時間を取り戻すような、奇跡のキャッチボールだった。


 やがて兄の姿は、月の光を受けて、少しずつ薄くなっていった。


 まるで、夜の霧が晴れるように、透明になっていく。


 それでも最後まで、兄は少年を見つめ、笑っていた。


 その笑顔は、かつて少年がグラウンドで見ていた、あの眩しい笑顔と全く同じだった。


 最後の一球が兄の手に収まったとき、兄は小さくうなずき、まるで最初からそこにはいなかったかのように、月の光の中に溶けて消えていった。


 少年のグローブには、ぽつんと白い羽がひとつだけ、残っていた。


 それは、兄の魂が残していった、光の残滓のように見えた。


 フィガロが少年の足元で、静かに座っていた。


「夢は、消えたんじゃない。

 君の中で、形を変えて続いているんだよ。

 それは、君自身の力になる」


 少年は、涙をこらえきれず、顔を両手で覆った。


 しかし、その涙は、悲しみの涙だけではなかった。


 それは、兄との再会を果たし、その想いを受け取ったことへの、深い感謝と、そして、未来への希望に満ちた涙だった。


 涙に濡れたその顔は、確かに前を向いていた。


 朝の光が、港町に降りそそぎはじめていた。


 新しい一日が、彼らの前に、静かに広がっていた。


 -------


 それは、あの夜からちょうど七年が経った、夏のはじまりだった。


 港町の海風はどこか懐かしく、グラウンドの隅には潮の匂いがほんのりと混じっていた。


 海に面した高校のグラウンドで、白いユニフォームに身を包んだ青年が、夕暮れの空に向かって黙々とボールを握っていた。


 少年は、いまや高校球児となり、その体つきは、あの頃の頼りなさとはかけ離れた、引き締まったものになっていた。


 背番号は「1」。


 チームのエース。


 そして主将。


 彼の投げる球は速く、鋭く、そして美しかった。


 マウンドに立つその姿は、どこか兄に似ていた。


 しかし、その投球には、彼自身の個性と、誰にも真似できない輝きが宿っていた。


 兄の影を追うだけだった少年は、もういない。


 兄とは違う風の中を、彼は走っていた。


 彼の部屋の机の引き出しには、ボロボロになった兄のグローブが今もそっとしまってある。


 それはもう、公式戦で使えるような状態ではなかった。


 革はひび割れ、ひもも切れかかっている。


 それでも、時折それを手に取った。


 手に取るたびに手のひらの奥に、あの夜の兄のぬくもりが、そして、兄の夢の重みが蘇る。


 それは、何よりも大切な「お守り」だった。


 春の選抜ではベスト4。


 あと一歩のところで甲子園の頂点には届かなかった。


 夏こそ、と仲間たちは声をそろえる。


 チームメイトたちは、少年に全幅の信頼を寄せていた。


 彼らは、少年の投球に、単なる勝利以上の何かを感じ取っていた。


 それは、少年の背後にある、目には見えないけれど確かな想い。


 しかし、彼の心の奥には、ただ勝ちたいという気持ち以上に、ある願いがあった。


 それは、あの日、兄と交わした約束の続きだった。


 ――もう一度、兄にキャッチボールを届けたい。


 夏の大会を目前に控えた、


 ある夜のことだった。


 彼はグラウンドにひとり残り、静かな風に向かってボールを投げた。


 誰もいないマウンドに立ち、遠い空の向こうへ向かって、一球、また一球。


 フォームは乱れず、美しく、音だけがひとつ、夜空を切った。


 ボールは、夜の闇に吸い込まれるように、しかし確実に、彼の意思を乗せて飛んでいく。


「兄ちゃん、見てるか?」


 問いかけに答えるものはいなかった。


 けれど、風の流れが少しだけ変わった気がした。


 それは、兄が彼の投球を見守っていることの、かすかな証のように感じられた。


 そこに、久しぶりに現れたのは、黒猫――フィガロだった。

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