7 野球少年 (前編)
壁に当たるボールの音が大きく響いた。
月がやけに大きく見える夜だった。
空は澄み渡り、星々が瞬く。
海から届く波の音が、まるで耳の奥に直接流れ込むように深く響いていた。
その音は、ただの潮騒ではない。
それは、遠い記憶の扉を叩くような、そして、まだ見ぬ明日を呼ぶような、不思議な響きを帯びていた。
その夜、港町の古い倉庫の裏では、カン、と乾いた音が規則的に鳴っていた。
街灯の灯りが、寂しげにその場所を照らし出している。
ひとりの少年が、倉庫の壁に向かって投球練習をしていた。
もうすぐ中学生になる、少しばかり頼りない体つきの少年だった。
壁に当たって跳ね返るボールを捕るたび、彼の手元のグローブが軋んだ。
縫い目は擦り切れ、革は変色し、手のひらには不自然な膨らみがある。
それは、彼の小さな手には明らかに大きすぎる、古びたグローブだった。
それでも、少年は毎晩毎晩、同じように投げ続けた。
真夏の汗が滝のように流れる夜も、雪がちらつく真冬の夜も、嵐の前の静けさの中でさえ、彼はひとりで練習をしていた。
まるで、何かに追われるように、あるいは、何かを追いかけるように。
彼には六つ年の離れた兄がいた。
兄は野球が好きで、プロ野球選手になるのが夢だった。
幼い弟にとって、兄は憧れの全てだった。
兄の投げるボールは、風を切り裂くように速く、その一球一球に、未来への希望が込められているようだった。
少年がまだ小さかった頃、兄は毎日練習に励んでいた。
グラウンドの隅から、母と一緒にその姿を眺めていた。
兄のユニフォーム姿は、いつも太陽の光を反射して、眩しくキラキラと輝いていた。
その背中には、無限の可能性が広がっているように見えた。
兄のグローブは、新品だった。
両親が誕生日に買ってくれたそれを、兄はそれはもう大切にしていた。
お湯につけて形を整え、ブラシで汚れを落とし、丁寧にオイルを塗りこみ、毎日肌身離さず持っていた。
そのグローブは、兄の夢そのものだった。
だがその兄は、ある日突然いなくなった。
事故だった。
残された家族は、深い悲しみの中に沈み込み、声を失った。
家には笑い声も、ボールの音も戻ってこなかった。
日々の彩りは消え失せ、まるで黒い霧に包まれたように色を失った。
野球は、家の中で禁じられた言葉になった。
リビングにあった兄のトロフィーは棚の奥にしまわれ、使い古したバットも、埃をかぶったまま玄関の隅に立てかけられた。
兄のグローブは、母によってタンスの奥深くに封じられた。
二度と、その存在を口にすることはないかのように。
それでも少年は、ある日こっそりそれを探し出した。
母の目を盗み、タンスの奥底から見つけ出した、あのグローブ。
埃を払うと、革の匂いとともに、兄の温もりが微かに蘇るようだった。
自分の小さな手にはめてみたが、やはり、手にはまらなかった。
指先がグローブの奥で迷子になり、掌はスカスカだった。
それでも、兄の夢の続きを追いかけたくて、夜に家を抜け出し、倉庫の裏でひとり練習を始めた。
最初は、ボールもまともに投げられなかった。
コントロールも定まらず、ボールはあらぬ方向へ飛んでいく。
それでも、彼は諦めなかった。
兄のグローブをはめた自分の手が、少しずつ、兄の夢の重さを感じ取っていくようだった。
その夜も、彼は投げ続けていた。
ボールを拾い、投げる。
何度も、何度でも。
ひたむきに、ただひたすらに。
その姿は、まるで時間に取り残されたかのように、静かで、孤独だった。
「『……夢を失った人間の影』が、君に会いたがっている」
低く静かな声が、突然背後からした。
驚き振り返ると、銀の目をした黒猫がいた。
名をフィガロ。
月明かりを浴びて、その毛並みが、まるで夜空そのもののように見えた。
「それは、かつて夢を追いかけ、途中で諦めてしまった者たちのなれの果てさ。記憶の海の底で、自分の夢の残骸を探して彷徨ってるんだ」
フィガロの声は、どこか遠くから聞こえる波の音と混じり合い、神秘的な響きを帯びていた。
その言葉のすぐあと、少年の横に、薄い煙のような影がふわりと現れた。
揺らめき、にじむようなその姿。
若い男の影だった。
顔ははっきりとは見えなかったが、その人は何かを探すように、両手を虚空に差し出していた。
その手は、まるで、失われた何かを掴もうとしているかのように、震えていた。
男の影は、ゆっくりと、少年のグローブにそっと手を伸ばした。
そして、その古びたグローブを、自分の両手で包み込むようにした。
すると、不思議なことに影の顔の靄がふっと晴れた。
それは――兄の顔だった。
鮮やかに蘇る兄の笑顔。
あの頃と少しも変わらない、真っ直ぐな瞳。
「兄ちゃん……」
少年の目から、大粒の涙がこぼれた。
熱い雫が頬を伝い、冷たいグローブに落ちていく。
気づくと、少年の手にはまっていたグローブは、兄の手にぴったりとはまっていた。
そして、少年の手には、見たことのない、真新しい、そして彼の手にぴたりと馴染むグローブがついていた。
まるで、兄が、自分の夢を託すかのように、新しいグローブを少年へと手渡したかのようだった。
兄が、優しく、そして懐かしそうに言った。
「……キャッチボール、しようか」
その声は、少年が何よりも聞きたかった、温かい響きだった。