6 老婦人ハル (エピローグ)
ハルは立ち上がり、家の扉を開ける前に、もう一度だけ夜空を見上げた。
満月は、先ほどよりも一層明るく、ハルを優しく見守っているようだった。
そしてぽつりと、呟いた。
「ありがとう。……あなたが、覚えていてくれて、よかった」
誰かの記憶の中に、自分の存在が残っていること。
そして、伝えたい想いが、たとえ言葉にならなくても、確かに届くこと。
そのことが、ハルの心を深く満たした。
フィガロが、ハルの足元で、くるりと体を反転させ、まっすぐにハルを見上げた。
「喪失は、悲しみではなくてね……形を変えた愛なんだよ。誰かの記憶の中にある限り、その愛は消えない。そして、真実の愛は、言葉がなくても伝わるものさ」
フィガロの声は、まるで古の賢者のようだった。
その言葉が、ハルの心に、すっと染み渡っていく。
ハルは、小さくうなずいた。
胸の中にあった、長年のわだかまりが、波にさらわれていくようだった。
夫への怒りや恨みは、もうどこにもない。そこにあるのは、ただ、静かな安堵と、限りない慈愛だけだった。
静かに涙が流れた。
それはあの時のように悲しみの涙ではなかった。
長い長い旅路の果てに、ようやく手にした、やさしい別れの涙だった。
そして、それは、ハルがひとりで子供たちを育て上げたことへの、自分自身への労いであり、どんな困難にも負けずに生きてきたことへの、確かな証でもあった。
その夜の波音は、ハルの耳の奥で、いつまでも優しく響いていた。
それは、もう過去の苦しみを呼び覚ます音ではなく、遠い記憶と現在の心を繋ぐ、温かい子守唄のように感じられた。
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