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5 老婦人ハル (後編)

 ハルの脳裏に、夫との記憶が蘇る。


 あの人は、いつも不機嫌そうだった。


 朝食の席でも、新聞を広げ、ほとんど口を開かなかった。


 週末に家族で出かけることもなく、子供たちとの触れ合いも皆無だった。


 ハルが何か頼み事をしても、「忙しい」「俺の仕事じゃない」と一言で片付けられた。


 子供たちが幼かった頃、ハルはいつも、夫の愛情を求めていた。


 子供たちが病気になれば、一緒に心配してほしかった。


 遠足の準備を手伝ってほしかった。


 運動会で、一緒に応援してほしかった。


 しかし、夫はいつも、ハルの期待を裏切った。


 その度に、ハルの心には、小さな、しかし確かな傷が刻まれていった。


 特に、あの子供が急病で入院した夜のことは、鮮明に思い出された。


 真夜中のことだった。


 子供が急に高熱を出し、意識が朦朧としていた。


 ハルは震える手で救急車を呼んだ。


 サイレンの音が闇夜に響き渡る。


 夫は、その物音で目を覚まし、寝室から出てきた。


「どうしたんだ?」


 と聞く夫に、ハルは必死で状況を説明した。


「救急車を呼びました。病院へ行きます!」


 しかし、夫はただ、「そうか」とだけ言い、再び寝室へと戻っていった。


 仕事が明日早いから、と。


 病院に着き、医師から告げられた病名に、ハルは足元が崩れ落ちそうになった。


 小さな命が、今、瀬戸際に立たされている。


 ハルは、夫に電話した。


「今すぐ来てください。お願いします」と懇願した。


 しかし、電話口の夫は、苛立った声で


「俺は仕事で忙しいんだ。お前が行けばいいだろう」

 と言い放った。


 その言葉は、ハルの心を深く、深く突き刺した。


 病室のベッドで、まだ幼い子供の小さな手を握り、ハルは声を殺して泣いた。


 隣に、夫がいてくれたら。


 たった一人でこの不安と戦うのではなく、支え合ってくれる人がいてくれたら。


 そう願ったが、その隣には、冷たい空気が漂っているだけだった。


 その時の涙は、単なる悲しみではなく、絶望と孤独に打ちひしがれた、苦い涙だった。


 しかし、そんな夫への憎しみや、恨みといった感情は、もうハルの心には残っていなかった。


 長い、長い時間の中で、それらは静かに溶けて、消えていったのだ。


 今はただ、記憶の波が、穏やかに打ち寄せるだけだった。


「……あのとき、わたし、子どもの手を握ったの。

 ほんとうに、心細くて、震えてしまって……でもあなたは、忙しいって。それだけだったわ」


 ハルは、静かに語りかける。


 それは、過去の自分への慰めであり、目の前の夫への、最後の問いかけのようでもあった。


 月がまたひとつ、まばたきをした。


 月明かりが、老人の影を、ほんの少しだけ濃くしたように見えた。


「それでも、あの子たちは、まっすぐに育ってくれた。強い子たちよ」


 ハルは、夫を見ることなく、ただ遠い海を見つめていた。


 子供たちの成長は、ハルにとっての誇りだった。


 夫の無関心さの中で、ハルがどれだけ奮闘したか。


 その努力が実を結び、子供たちが立派に巣立っていったことが、ハルにとっての最大の喜びであり、救いだった。


 それは、夫が与えてくれなかった愛情を、子供たちが埋めてくれたことへの感謝でもあった。


 隣の老人は何も言わない。


 しかし、ハルの言葉に、その影がわずかに揺れたように感じられた。


 そして、ゆっくりと、彼の片手がハルの手の上に置かれた。


 ――それはたしかに、ハルが何度も夢に見た、あの硬くて無骨な手の感触だった。


 仕事で鍛え上げられた、大きく、ごつごつとした手。


 生前、その手がハルの心を慰めることは、ほとんどなかった。


 結婚生活の中で、その手がハルを優しく包み込んだ記憶は、数えるほどしかなかった。


 それなのに、今、その手から伝わる温かさは、なぜか、ハルの心をそっと解きほぐしていくようだった。


 けれど彼は、何も言わなかった。


 言葉を忘れた老人だから。


 だが、その手の重みだけで、すべてが伝わったような気がした。


 今まで、夫は、


 一度も「すまなかった」とは言わなかった。


 一度も「ありがとう」とは言わなかった。


 一度も「愛している」とは言わなかった。


 いつも、言葉を飲み込み、感情を奥底に隠していた。


 その頑なさに、ハルはどれほど心を痛めてきたことか。


 その手の重みは、彼がどれほどの後悔を抱えていたかを示しているようだった。


 言葉にできなかった、伝えられなかった、あの時の謝罪。


 そして、この手に触れた瞬間に、ハルの中に渦巻いていた、長年のわだかまりが、するすると解けていくのを感じた。


 ハルの目に、涙が一筋こぼれた。


 それは、病室で子供の手を握りながら流した、あの苦い涙とは違う、温かい涙だった。


 長く氷のように閉じていた感情が、ふいに解けていくのを感じた。


 男は、唇がわずかに動く。


 喉が震えた。


 長い沈黙のあと、たったひと言、男は言った。


「……ありがとう」


 その言葉は、風に乗り、波の音に溶け込み、消えそうになるほど微かだった。


 しかし、ハルには、確かに聞こえた。


 それは、夫が生涯で最も口にしたがらなかった、たった一言の、しかし魂のこもった言葉だった。


 老婦人の目に、静かに涙が浮かんだ。


 それは、何十年もの時を超えて届いた、遅すぎる謝罪であり、そして、夫が抱えていたであろう、誰にも言えなかった苦しみが、ようやく解き放たれた音でもあった。


 この一言のために、どれほどの時が流れたことか。


 どれほどの感情が、海の底に沈んだことか。


 その全てが、この「ありがとう」に集約されていた。

 言葉はそれだけだった。


 風が通り過ぎた。波音が、少しだけ遠くなる。


 隣の老人の気配は、もうなかった。


 まるで最初からそこにはいなかったかのように、彼の存在は、月明かりの中に溶けて消えた。




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