4 老婦人ハル (前編)
夫にいつも何か頼み事をしても、「忙しい」「俺の仕事じゃない」と一言で片付けられた。
小さな港町の片隅、白い壁と花壇に囲まれたその家は、潮風に晒されながらも、どこか穏やかな空気をまとっていた。
季節の花々が絶えることなく咲き誇る庭には、古びた木製のベンチが一つ、ぽつねんと置かれている。
そこに座り、ただ静かに月を見上げるのが、この家にひとりで暮らす老婦人の日課だった。
老婦人の名前は、ハル。
夫とは、何年も前に死別していた。
それは、ハルの人生において、大きな節目であったと同時に、ある意味では、長きにわたる戦いの終焉でもあった。
夫は、長年仕事ばかりで、家のことにはまるで無関心だった。
朝早く家を出て、夜遅く帰る。休日は疲れた顔でソファに沈み込み、家族との会話は、最低限の返事以外、ほとんど交わされなかった。
子供たちも、父親に話しかけることを諦め、やがてハルだけが、夫と家の間の、見えない壁となっていた。
その壁が、最も高く、冷たく感じられたのは、下の子供が急病で倒れた夜のことだった。
高熱でうなされ、けいれんを起こす小さな体を抱きしめ、ハルは救急車を呼んだ。
病院へ向かう救急車のサイレンの音が、あの夜の全てを支配していた。
病院に着き、医師から告げられた病名に、ハルの心臓は凍りついた。
夫に連絡を入れた時、ハルの声は震えていたはずだ。
しかし、電話口から聞こえたのは、無機質な夫の声だった。
「俺は仕事で忙しい。お前が行けばいいだろう」。
その言葉に、ハルは、自分がどれほど孤独であるかを思い知らされた。
薄暗い病室のベッドで、点滴につながれた小さな子供の手を握りながら、ハルは声を殺して泣いた。
込み上げてくる不安と、夫への絶望が、ハルの心を深く抉った。
あの時、流した涙の熱さを、ハルは決して忘れることはなかった。
けれど、ハルは負けなかった。
夫がどんなに頑固で、家のことに無関心でも、ハルは三人の子供たちを、ひとりで育て上げた。
朝早く起きて弁当を作り、夜遅くまで家事と内職に追われた。
子供たちの学校行事には、いつもハルだけが参加した。
熱を出せば、ハルが徹夜で看病した。
反抗期には、ハルが真正面からぶつかり、そして抱きしめた。
大変な子育てだったが、子供たちは皆、ハルと同じように、まっすぐに、そして強く育ってくれた。
今、その子供たちも、皆独り立ちし、それぞれの人生を歩んでいる。
遠く離れた場所で暮らす子供たちからの電話は、ハルにとって何よりの喜びだった。
そして、こうしてひとり、ベンチに座り、月を見上げる時間が、ハルの日課となった。
その夜はとくべつ静かで、波の音が、どこか胸の奥から聴こえてくるようだった。
それは、遠い記憶の扉を叩くような、やさしい響きだった。
ふと、草を踏む音がして、ハルは顔をあげた。
そこには、月明かりを映して銀色に輝く目をした、漆黒の猫が立っていた。
しなやかな体に、ピンと伸びた尻尾。どこか人間くさい、理知的な雰囲気を持つその猫。
猫は「フィガロ」と名乗った。
フィガロは人の言葉を話し、
「きみの耳に聴こえるのは、記憶の海からの呼び声だ。記憶の海の底には、夜の図書館がある。
消えかけた願いや、亡くなった人々の想いが本の姿になって眠っている場所だ。」
フィガロは、ハルの足元にそっと寄り添うように座り、空を見上げた。
その仕草に、ハルは驚きよりも不思議な心地よさを感じた。
その時だった。
ハルは、ふと隣のベンチに誰かが腰かけたような、微かな気配を感じた。
驚くこともなく、ハルはそのまま静かに目を閉じた。
感じたのは、長年連れ添った夫婦だけが持つ、あの独特の空気。
それは、もしかしたら、長年忘れ去っていた、あの硬い背中の気配だったのかもしれない。
――そこにいたのは、記憶の海の底にいるはずの『言葉を忘れた老人』だった。
老人は、ハルの隣に座っている。
その姿は、まるで海から現れた霧のように、どこか朧げで、月明かりの下でかすかに揺らめいていた。
顔の皺や、白くなった髪の毛、そして、その肩のラインは、ハルがよく知る人物の面影を宿していた。
彼は何も話さなかった。
ただ、長い間誰とも口をきいていなかったかのように、喉が動くたび小さく震えていた。
その乾いた咳のような音だけが、彼の存在を物語っている。
目だけが、まるで何かを伝えようとしていた。
しかし、それはもう音にならず、彼の声は波音と一緒に、世界に溶けているようだった。
「記憶の海にいる言葉を忘れた老人だよ」
フィガロが静かに言った。
その声は、潮風のようにハルの耳に心地よく響いた。
「記憶の海から帰ってきた。
どうしても、伝えたいことがあるらしくてね。
彼らの言葉は、彼らの心の中にしか残っていない。
だから、伝えたい想いは、光となって、この世界を彷徨うんだ」
ハルは目を見開いた。
その男の面影に、かつての夫を確かに見た。
頑固で、不器用で、そして、決して言葉にすることがなかった夫の姿を。
彼の目だけが、何かを語りかけている。
その瞳の奥には、ハルが見たことのない、後悔のような、あるいは哀願のような、複雑な感情が宿っていた。
だが、それはもう音にならず、彼の声は波音と一緒に、世界に溶けていた。
ハルは静かに月を見上げた。
満月は、海面に銀色の道を伸ばし、どこまでも遠くへと続いている。
「あなた、こんな風が好きだったわね」
ハルは、ぽつりと呟いた。
それは、ベンチにいる“誰か”に話しかけた言葉だったのか、それとも自分自身への独白だったのか――その区別は曖昧だった。
彼女の声には、怒りも悔しさもなかった。
ただ、深い時間をかけて丸くなった思い出の輪郭がにじんでいた。
長い歳月が、鋭い角を削り、わだかまりを丸くしてくれたのだ。
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