3 老犬リリィ (後編)
記憶の海は、どこまでも深い。
漂う影たちとの出会いは、リリィの心に、忘れかけていた感情の波紋を広げた。
彼らの喪失は、リリィ自身の寂しさと共鳴し、しかし同時に、彼らの中に微かに残る光に、リリィはかすかな希望を見出していた。
夢を諦め、言葉を失ってもなお、彼らが「何か」を求めているという事実が、リリィに訴えかけてくるようだった。
フィガロは、相変わらず多くを語らない。
ただ、リリィがそれぞれの影に心を寄せ、立ち止まるたびに、静かにその様子を見守っていた。
彼の緑色の瞳は、この海のあらゆる秘密を知っているようでありながら、決してそれを口にすることはなかった。
それが、フィガロの優しさなのだと、リリィは漠然と感じていた。
さらに深く潜っていくと、水の圧力が、少しずつリリィの体を重く感じさせた。
あたりは、ますます暗くなり、遠くで光る魚たちの輝きだけが、唯一の道標だった。
水底には、朽ちた門のようなものが見えてきた。
巨大な石でできたその門は、苔と藻に覆われ、まるで太古の遺跡のようだった。
「あれが、『夜の図書館』だ」
フィガロの声が、暗闇の中で響いた。
リリィの心臓が、ドキンと大きく鳴った。少女の願いが、そこにある。
そう思うと、体の奥から、失いかけていた力が湧き上がってくるようだった。
門をくぐると、そこは、水の中とは思えない不思議な空間だった。
水泡がゆっくりと舞い上がり、天井からは、淡い光が降り注いでいる。
その光に照らされて、無限に続くかのように、背の高い本棚がそびえ立っていた。
どの本棚にも、ぎっしりと本が詰まっている。本の背表紙は、どれも真っ白で、タイトルは書かれていない。
しかし、その一つ一つから、微かな光が放たれており、それぞれ異なる色の光を帯びていた。
「この図書館に並べられているのは、消えかけた願いだ」
フィガロが言った。
「人々の心から忘れ去られそうになっている願い、あるいは、叶えられることなく終わってしまった願い。
そして、この世を去った者たちが、最後に抱いた願い…」
フィガロは、本棚の間を迷いなく進んでいく。
リリィは、その背中を追う。
本の山は、どこまでも続き、その光の海に圧倒されそうだった。
どの本も、誰かの願いなのだ。
そのことを思うと、リリィの胸は締め付けられた。
リリィは、本棚の間の通路をゆっくりと歩いた。
それぞれの本から放たれる光は、時に喜びのように輝き、時に悲しみのようにくすんだ色をしていた。
触れると、その本が持つ「願い」の片鱗が、微かにリリィの心に流れ込んでくる。
病気の家族の回復を願う声、報われない恋を成就させたいと願う切ない想い、遠い故郷に帰りたいという郷愁、そして、誰かの幸せをただひたすら願う、無私の祈り。
その中に、ひときわ明るく輝く本があった。
それは、他の本よりも少し小さく、淡いピンク色の光を放っていた。
リリィは、その本に導かれるように、ゆっくりと近づいた。
その本に触れた途端、リリィの目の中に、まばゆい光景が広がった。
少女の、満面の笑顔だった。
その本は、少女が書いた「いちばん最後の願い」だった。
リリィは、震える前足で、その本のページをそっとめくった。
表紙には、少女が描いた、幼いリリィの絵が描かれていた。
少し下手だけど、愛情に満ちた、温かい絵。
そして、その絵の下には、まだ拙い文字で、こう書かれていた。
「リリィが、もう寂しくありませんように」
その文字を見た瞬間、リリィの瞳から、大粒の涙が溢れ落ちた。
ポロポロと、とめどなく流れ落ちる涙は、記憶の海の水と混じり合い、きらめく光の粒となって消えていく。
リリィが、寂しくありませんように。
リリィが、誰よりも少女を想い、失われた日々を嘆いていたことを、少女は知っていたのだ。
そして、その寂しさを、何よりも心配していたのだ。
少女との日々が、走馬灯のようにリリィの脳裏を駆け巡った。
寝る時も一緒だった温もり、出かける時に少女がリリィを抱きしめた時の優しい腕の力、具合が悪くなると一晩中撫でてくれた温かい手、動物病院で涙を流しながら心配してくれた優しい瞳、そして、散歩中に身をていして守ってくれた、あの勇敢な後ろ姿。
少女は、どんな時も、リリィを一番に考えてくれていた。
リリィの幸せを、何よりも願ってくれていた。
リリィは、嗚咽をこらえきれずに震えた。
胸の奥から、今までに感じたことのない、しかし限りなく温かい感情が込み上げてきた。
それは、深い悲しみと、しかしそれ以上の、計り知れない感謝と愛情が混じり合ったものだった。
「ありがとう…ありがとう…だいすき…」
リリィは、その本をそっと咥え、深く感謝するように頭を垂れた。
フィガロは、リリィの隣に静かに立っていた。彼の緑色の瞳は、何も言わなかった。
しかし、そのまなざしは、どこか優しさに満ちていた。
少女の願いを見つけたリリィは、フィガロと共に「夜の図書館」を後にした。
来た時と同じ、月の道が、二人の帰路を照らしていた。
しかし、記憶の海に触れた代償は、少しずつリリィの身に現れていた。
体が、光の粒となって、はらはらと消え始めている。
それは、まるで、夜明け前の朝露のように、触れると形を失っていくようだった。
フィガロは、そのことに気づいていた。
リリィが記憶の海へと足を踏み入れた時から、この結末を知っていたのだろう。
だが、彼は、一言もそのことには触れなかった。
ただ、リリィの傍らを静かに歩き、時に、その小さな体を気遣うように、そっと寄り添うだけだった。
リリィは、自分の体が薄れていくことに気づいていた。
しかし、恐れはなかった。
むしろ、少女の願いを見つけた今、リリィの心は、不思議なほど満たされていた。
寂しさも、悲しみも、全てが洗い流され、残るのは、温かい感謝の気持ちだけだった。
夜が明けるころ、月の道は、いつの間にか穏やかな海辺に続いていた。
そこには、リリィが毎晩座っていた、あの小さなベンチが見える。
リリィの体は、ほとんど透明になっていた。
かろうじて形を保っているだけの、光の塊のようだった。
フィガロが、ベンチの傍で立ち止まった。
リリィは、最後の力を振り絞って、ベンチへと歩み寄った。
そして、いつものように、そこに小さな体を丸める。
朝日が水平線から顔を出し、世界がゆっくりと色を取り戻していく。
リリィの意識は、薄れていく。
最後に、少女の面影の残る、夢のような景色が見えた。
幼い少女が、屈託のない笑顔で、リリィに手を伸ばしている。
「リリィ!」
その声が、遠くから聞こえる。
リリィは、幸せだった。
そして、その夢の中で、最後に、そっとしっぽを振った。
――静かに、波音が止む。
その町の海辺には、今も古いベンチがある。
月がまばたく夜、そこに座ると――小さな犬の気配がする、と言われている。
「ねぇ、ママ。あのベンチにいたの、犬じゃなかった?なんだか、しっぽを振ってくれた気がするの――」
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