2 老犬リリィ (中編)
月の道は、水面に映る光の筋だった。
一歩踏み出すごとに、足元から小さな光の粒がぱちぱちと弾ける。
波の音が、遠くから子守唄のように響いてくる。
リリィは、どこまでも続く白い道を、フィガロの後に続いて歩いた。
フィガロは何も言わず、ただひたすら前を歩き続ける。
その背中は、闇に溶け込むほど黒く、しかし不思議なほど頼もしかった。
やがて、光の道は途切れ、二人は暗く、底の見えない海の中へと吸い込まれていった。
そこは、水で満たされているのに、息苦しさを感じさせない奇妙な場所だった。
頭上を見上げれば、月明かりが水面に揺れ、きらきらと輝く無数の星のように見えた。
「ここは、記憶の海の入り口だ」
フィガロの声が、静かに響いた。声には波の音が混ざり、どこか神秘的だった。
「様々な記憶が、ここに漂っている。良い記憶も、悪い記憶も。そして、忘れ去られた願いも」
リリィの周囲を、淡い光の粒がふわふわと漂っていた。
それは、まるで意識を持った生き物のように、リリィの体に触れては、すっと消えていく。
その度に、リリィの心の奥底に、かすかな、けれど懐かしい感情が蘇る気がした。
それは、もう二度と触れることのできない、少女との日々の記憶の断片だった。
海の中を深く潜っていくと、景色は少しずつ変わっていった。
水底には、奇妙な形をした珊瑚のようなものが生い茂り、その間を、光る魚たちがゆらゆらと泳いでいる。
それらは魚というよりは、夢の残骸が形になったもののようだった。
しばらく進むと、あたりが急に薄暗くなった。
巨大な岩の影が迫り、まるで海の底にそびえ立つ巨大な山脈のようだった。
その影に、いくつもの不鮮明な人影が寄り添うように座り込んでいるのが見えた。
フィガロが、そのうちの一つの前で立ち止まった。それは、薄い煙のように揺らめく、若い男の影だった。
顔ははっきりせず、ただ、何かを探すように両手を虚空に伸ばしていた。
「あれは、『夢を失った人間の影』だ」
フィガロは静かに言った。
「かつて、熱烈な夢を追いかけたが、途中で諦めてしまった者たちのなれの果てだ。彼らは、自分の夢の残骸を探して、永遠にこの海を彷徨っている」
リリィは、その影から、深い絶望と、しかし同時に、微かな憧れのようなものが滲み出ているのを感じた。
少女も、たくさんの夢を持っていた。
画家になる夢、歌い手になる夢。
そして、リリィとずっと一緒にいる夢。
その夢は、今はどこにあるのだろう。リリィの心が、ぎゅっと締め付けられるようだった。
男の影は、リリィに気づくこともなく、ただ茫然と手を探し続ける。
その指先からは、小さな光の粒が、砂のようにこぼれ落ちていた。
それは、かつて彼が抱いていた夢の輝きだったのだろうか。
「可哀想な人…」
リリィは心の中で呟いた。
リリィは自分の足元から、微かな光の粒が漏れ出していることに、この時はまだ気づいていなかった。
フィガロは、その影に特に声をかけることもなく、先を促した。
この海では、言葉は意味をなさないのだろう。
ただ、存在と、そこから放たれる感情だけが、真実として漂っている。
二人がさらに進むと、今度は、深い緑色の苔に覆われた、古い船の残骸が見えてきた。
その船の甲板には、何人もの影が身を寄せ合って座っている。
彼らは皆、どこか遠くを見つめ、口元は開いているのに、何の音も発していなかった。
「あれは、『言葉を忘れた老人たち』だ」
フィガロが説明した。
「生前、伝えたいことが山ほどあったのに、結局、言葉にできなかった者たちだ。彼らは、今も誰かに語りかけようとしている。しかし、もう、その方法を思い出せない」
リリィは、その影たちから、深く澄んだ悲しみを感じた。
まるで、美しいメロディーを奏でようとしているのに、楽器の弦が切れてしまったかのような。
彼らが伝えられなかった言葉の中に、もしかしたら、誰かへの感謝や、謝罪や、そして、誰かを愛する気持ちがあったのかもしれない。
その中でも、ひときわ大きく見える影が一つあった。
その老人は、誰かに話しかけるように、虚空に手を伸ばしていた。その指先が、かすかに震えている。
(伝えたい…そう、伝えたいんだ…)
リリィは、その老人の影に、少女の姿を重ねた。
少女は、たくさんの言葉をリリィに語りかけてくれた。
嬉しい時も、悲しい時も、寂しい時も、そして、愛おしい時も。その言葉の全てが、リリィにとって、世界で一番大切な宝物だった。
リリィは、ゆっくりと老人の影に近づき、その膝にそっと頭を乗せた。
小さな、温かい毛玉が触れたことで、老人の影は、ほんのわずかだが震えを止めたように見えた。
リリィは、彼から、失われた言葉の代わりに、穏やかな、優しい感情が流れ込んできたのを感じた。
フィガロは、その光景をただじっと見ていた。
彼の緑色の瞳には、何の感情も読み取れない。
しかし、その耳が、ぴくりと動いたのをリリィは見逃さなかった。
記憶の海は、どこまでも深く、そして広大だった。
そこで出会う影たちは、皆、それぞれの喪失を抱え、静かに漂っていた。
リリィは、彼らとの短い出会いの中で、人間の持つ可能性の、無限の広さと、そして同時に、脆さを感じていた。
夢を失い、言葉を忘れても、なおそこに存在する、純粋な感情の輝き。
それは、リリィが少女から教わった、限りない優しさによく似ていた。
そして、その優しさが、リリィ自身の存在を、少しずつ薄れさせていることに、リリィはまだ気づいていなかった。
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